主はすばらしい

■聖書:イザヤ書12章    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。

(イザヤ書125節)

 

1. はじめに

 本日のテーマ聖句は、今年の教会学校サマーキャンプのテーマです。なかなか時間がなくゆっくり静まって思い巡らすということができていませんけれども、改めてこの「主はすばらしい」ということ、あるいはそれを知っているということが、私の歩みにとって大きな力になっていると思わされています。私は弱くとも、私の主はすばらしい。このすばらしい恵みを教えられてまいりましょう。

 

2. このイザヤの歌の背景

 この12章は、感謝の賛美、喜びの歌などと呼ばれる章であります。まず全体的なことを押さえておきますと、1節では「その日、あなたは言おう」と始まり、2節では「神はの救い」などとあって、個人の喜びの歌、個人の感謝の歌であると捉えることができます。しかし3節以降に目をやりますと、「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む」とか、「あなたがたは言う」と複数形になっていることに気づきます。一人の喜びが、たくさんの人々の喜びになっている。一人の賛美が、共同体の賛美へと広がっている様子が浮かび上がってくるのです。初めは独唱だったのが、次第に大合唱になっている様子を思い描いても間違いではないでしょう。当然のことながらバラバラに歌っているのではなく、すべてがみな「感謝します」との賛美なのであります。本日は賛美伝道礼拝で、先ほども子供達の元気な賛美がありましたけれども、この聖書からも生き生きとした喜びの声が響いてくるようではないでしょうか。

 では、その大合唱の賛美では何が歌われているのか、賛美の元、喜びの源にあるものは一体なんなのでしょうか。実はこれが大切なわけであります。ただ人気の流行歌(はやりうた)を熱唱しているのではなく、この合唱隊に加わる一人一人がみな、同じ喜びに満たされている、一つの感謝の心に溢れているからこれほどの大合唱が生まれているのであります。「同じ喜び」「一つの感謝」と言いましたけれども、もう少し言えば、それらを与えてくださった主を見ているわけです。「主はすばらしい」という確信が個人個人の中にあり、それらが歌となって響き渡っている、と言っても良いでしょう。その主のすばらしさを、今朝はともに覚えたいと思うのです。1-2節をもう一度お読みします。その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を(いか)られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。    

3. 感謝の意味 〜怒りと怒りが取り去られること〜

 まずは個人の賛美です。「その日」とはいつでしょうか。それは怒られたのにその怒りが去り、慰めを受けたその日、あるいはそれに気付かされた「その日」であります。怒られたのに、その怒りが去る。怒っていた相手が、その怒りを沈める、納められるということです。これが嬉しく喜びであることは想像に難しくありません。私たちの身近な人間関係でもそのようなことはあるでしょう。しかしイザヤは、それが感謝であると言っています。普通ではない、当たり前ではない、驚くべき幸いであると歌い始めるのです。それは受けるはずであった怒りがどれほど恐ろしいものであるか、許されるはずのないものであることを知れば知るほど、決して誇張ではないことに思い知らされます。実はイザヤ書12章に至るまで、この、「私を怒られた」ということがこれでもかというほど言われていました。イザヤ書の冒頭からそうです。1章をお開きいただけるでしょうか。他の預言書の書き出しと同じく、イザヤについて、活動の時期を特定する王たちの記述がある後でいきなりこうあります。2-3節をお読みします。天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉桶を知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」預言者というのは字のごとく言葉を預かるものです。その言葉は主の言葉、天地のすべてが耳を傾け聞くようにと言われている言葉です。その最初は、なにか気持ちが嬉しくなるようなメッセージではありません。明らかに怒りに溢れる言葉です。父の愛を受け守られ育てられてきたのに、当の子どもはそんな父に背を向け、飛び出していく。どこか放蕩息子の例え話にもつながるような言葉です。愛を注がれているにもかかわらず、そんな愛に気づかず、本来いるべき場所から離れているとイザヤは告げるのです。牛やろばでさえ、自分が誰に所有されているのか、自分が誰のものなのかを知っている。しかし、神の民であるイスラエルは知らない、いや何度呼びかけても、何度帰ってくるように名前を呼んでも、それを悟らない。強情で頑なな民の様子が伺えます。4節以降にも厳しい言葉が連なっています。(朗読)。本来の関係から離れていますから、そこには大きな混乱があり、苦しみや痛みがあり、悲しみがあります。しかし何よりの不幸は、本当の安心を知らないことではないでしょうか。土地が荒れ果て、多く傷ついたとしても癒してくださる方、慰めてくださる方を知っている人は幸いです。

 私たちはどうでしょうか。イスラエル人ではないから関係ありません、とはならないのです。なぜなら、このイスラエルの父なる神様は、すべてのものを造られた神様で、まさに天も地も統べ治めておられるお方だからです。私たちもその御手の中にあります。ありますけれども、知らずに生きていた。生まれながらに御怒りを受けるべき子らであったとさえ聖書は教えています。人は皆本来いるべきお父さんの元にいないで、滅びに向かっていく、怒りを受けるはずの存在です。助けを求めることを知らずに、できずに、生きている。その先にある怒りを知らずに、あるいは知っていても無視して生きている。本当に安心できる安全な場所がない。

 そんな怒りは私たちの側ではどうしても避けられないものでした。何か良いことをすれば怒りが和らぐとかではないほどの大きな怒りが、私たちの罪によってあった。助かるはずのない罪です。避けられなかった怒りです。しかし、そんな怒りが去ったのです。去らせたのは私たちの力ではなく、怒っておられた父なる神様です。時間が経って神様が落ち着かれたということではありません。怒りが自然に薄れたということではない。そんな気分屋さんの神様でしたら、いつまた臍を曲げるか、怒りが戻ってこられるか私たちはビクビクしなければならない。確かにそのように怖い神様をなだめる宗教もあります。けれどもこのお方はそうではない。その怒りのために、私たちが受けるはずだった怒りをなだめるために、罰を一身に引き受けて下さったお方がいるのです。そのお方こそ、53章で約束されるお方でした(朗読)。この預言は、あのイエスキリストの誕生によって実現しました。神から離れて怒りを受けるはずだった私たちは、このお方が身代わりになって下さったゆえに罪赦され、怒りからまぬがれたのです。本来私が受けなければならなかった怒りは、イエス様の十字架によって贖われたのでした。いや、受けるはずだった怒りが取り去られて終わりではありません。慰めが与えられたとイザヤは歌います。この慰めは、マイナスをゼロにする程度のものではありません。どんな嵐が来たとしても、どんな苦しみが来たとしても、もう揺るがされることのないほどの力強い慰めです。決して乾くことがない慰めが与えられる。私たちにとっての慰めとはなんでしょうか。先ほどお話ししましたイエス様はやはりイザヤ書の7章でこのように預言されているお方です。「…主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名付ける。」インマヌエルとは「神は私たちと共におられる」という意味の名前です。このお方こそが、私たちを取り巻く環境がどんなに変わったとしても揺れ動いたとしても変わることなく注がれ続ける慰めである。預言者イザヤはそれを経験しました。預言者として神の言葉を預かり伝える中で、母国が神様の前に信頼を置かない罪を知り、そしてその罪が自分の中にもあることを、その汚れを知りました。そんな自分が赦されたことを知った。見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。救いを知ったイザヤは「恐れることがない」と断言しています。赦されなかったはずの怒りを許して下さったお方の深い愛を知り、そのお方が、私のために悪いことをされるはずがないということを知った信頼です。子どもがお父さんに無条件の信頼を置いているように、安心がここにはある。

 イスラエルの民にはそれがありませんでした。強大な敵国を前にして、神様に頼ることを出来ずに恐れ、人の力に頼ったのです。敵を前に、人間的な知恵で右往左往する彼らの心は、「林の木々が風で揺らぐように動揺した」とあります。感謝どころか、日々の生活の中で私たちもこのようになってしまうことは多いのではないかと思います。いろいろなことに心が惑わされ、揺さぶられ、落ち着かず、安心がない。そんな時に、主は私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられたと歌えることが決して当たり前ではない、大きな恵みであることに気づくのです。この人は土台がしっかりしているから恐れないのです。永遠に変わることがない神様にしがみついていれば、流されることなく、ふらつくことなくいられる。神様はその手を伸ばして下さっている。怒りを取り去る道をも用意しておられる。それは、インマヌエルと呼ばれる主イエスキリストを信じることです。イエス様が私たちの罪のために、私のために、身代わりとなって十字架にかかられたということを信じることです。

 

4. 救いの泉から水を汲む

 続く3節は、まさにインマヌエルと呼ばれたイエス様の言葉が共鳴するような箇所です。あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。イエス様はヨハネの福音書において語りかけられます。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(4章)。この言葉を聞いていた人はひとりの女性でしたが、人から後ろ指を指されるような生活をしていた人であります。人がだれもこないような日中の暑い時間に井戸に来て、だれにも会わないように人目を避けて、水を汲んでいました。そこにイエス様は話しかけます。この女は乾いていました。それは、この夏の暑さの中でのどが渇くということ以上の心の渇きです。日々の生活が荒れ果てていたことを彼女自身がよくわかっていました。このままじゃいけないということもわかっていたでしょう。しかしわかってはいても変えられない現実があった。潤いとはほど遠い、疲れて、今日の1日を生きるのがやっと、なんとか絞り出して一歩一歩を歩んでいる。その先に何があるかもわからず、虚しさを感じながらもそれでもこの世の流れ、日々の忙しさに追いやられているそのような様子を思い浮かべます。

 しかし、そんなあてもなくさまよっていたこの一人の女性、そして私たちを潤し満たすためにイエス様は来られたのでした。イエス様はこのたった一人の女性に出会わなければならなかったと聖書は書いています。私たちもまた同じです。思い出してください。罪を犯した私たち、神の怒りを受けるはずだった私たちに、出会わなければならなかったと言われるのです。それは探し出してお仕置き・罰するためではありません。救うためです。このお方に出会い、このお方のいのちの水をいただくことがどうしても必要なのです。私たちはその決して尽きることも枯れることもないいのちの水を汲むことができる。しかも喜びながらです。喜べないことが多い世の中であっても、この泉を知っている私たちは、喜ぶことができる。それは私だけではなく、あなたがたはと言われています、先にもお話したように、私たちの喜びなのです。さきほどラブリーエブリデイという歌を子どもたちと歌いました。今年のキャンプで歌った歌です。その中でこんな歌詞があります。いつもと同じ、今日なんだけど、何かが違う、心弾む。とても素敵なことに気づいた。すべての人が愛されている。

この喜びは、日々与えられるものです。私は愛されている、私のために、私の救いとなるために来てくださった方がおられると知ることが、私たちの毎日をガラリと変えるのです。それが、すでに主を知り、その救いを信じた私たちの喜びの賛美の源にはあるのです。イエス様の泉が尽きることなく流れ出るように、この喜びも、たとえどんな変化があったとしても絶えることなくコンコンと湧き出で続ける。

 

5. 広がる喜び、さらに広げる喜び

 さらに4-6節、その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」の喜びは、私たちの喜びとなりました。さらにイザヤをはじめとする主の救いを知った人々は歌います。主はすばらしいことをされた。これを国々の民の中に知らせよ。これを全世界に知らせよ。と。私たちはこの喜びを、自分たちだけのものとはしないのです。世界の人々に、いやそんなスケールをデカくしなくても、まだ神様のことを知らない、私たちの身の回りのあの人に。ともに食卓を囲む家族、一緒に机を並べるあの友達に、この「主はすばらしい」ということを伝えるのです。

 CSサマーキャンプの中で、子どもたちはそれぞれで考えて、主はどんなお方かをさきほどの主はすばらしいの歌に当てはめて発表してくれました。命のパンであったり、たくさん言いたいことがありすぎて入りきらないとても早口のグループもありました。でもそれは全部、このイエス様の素晴らしさを伝える大切な証であると思うのです。私たちをこんなにも愛してくださるお方を伝える、大切な働きです。

 語り続けるというのはとても忍耐がいることです。勇気も必要です。でも、この喜びの大合唱に加わって欲しいと思うからこそ、私たちは時がよくても悪くても、みことばをしっかり伝えるのです。一人の人の救いのために祈り続けるのです。今朝、改めてそのことをともに覚えたいと思いました。

 

6. まとめ

 「主はすばらしい」これはみなさんにとってどのような意味を持つことばでしょうか。改めてこの恵みを覚えて、この主のすばらしさに力をいただいて、一週間の歩みを始めていきたいと願います。私たちはどうしようもないほど小さく愚かなものであっても、一度主に目を向けるならばそこに私たちの力の源があります。このお方に信頼し、何事にも恐れることなく心揺さぶられ惑うことなく歩んでまいりましょう。お祈りします。