水路に植わった木のように

■聖書:詩篇1篇全節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。(詩篇12節)

 

1. はじめに

 教会学校に関するキャンプがたくさんの祝福を受けて終わりました。子どもたち一人一人が神様の言葉に触れ、友達や教師との楽しい時間の中で神様の愛を身近に感じられたのではないかと思っています。私自身、今年は松原湖のキャンプに招かれ、「神の子ども」というテーマで四回のお話をさせていただきました。キャンプを通して感じたのは、子どもたちは敏感に神様の愛を感じ取り、それに真剣に答えようとしているのだということであります。伝わるようにとメッセージの備えをして望むのですが、こちらが考えていることよりも多くのこと、大きなことを彼らは受け止め、応えようとしているのです。もちろん、中央教会でのキャンプでも同じです。みんな一人一人が神様からのメッセージとしてその大きな愛を受け取っていきます。すでに信仰歴が何十年になる方も、やはり最初はこの愛に打ちのめされ、感動し、喜んでその愛に応えたいと願っていたのではないでしょうか。本日与えられています箇所から、私たちが神様の前にどのように歩むのか、最初のあの感動を再び思い出しながら、みことばに聞いていきたいと願っています。    

2.「幸いな者の生き方」    

 早速本日与えられている箇所を見て参りましょう。詩篇は全部で150篇、様々な人の祈りや賛美があります。中には苦しみや困難の中で、助けを求めて絞り出す祈りの歌、嘆きの歌のようなものも多くあります。しかしそんな詩篇の冒頭が「幸いなことよ」で始まるということを、今朝改めて覚えたいと思います。神様が幸いだと言われるものが何であるのか。みことばから教えられたいと願っています。この詩篇第一篇は、大きく分けて13節、46節と分けられます。前半部分は主の教えに従う正しい者への祝福、後半は御心にそむく悪い者の末路が描かれています。言い換えるならば、主の教えを喜ぶ者とあざける者の違いが描かれているのです。その中で、私たちはどちらの道を選ぶのかが問われている。そのように言えるかと思います。

 1節をお読みします。幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。幸いな人の生き方を、消極的な書き方で示しています。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった。似たようなことが並べられているようですけれども、詩篇らしく巧みな表現が使われています。特に否定形をとった動詞に注目すると、歩む、立つ、座に着くという一連の動作が見えてきます。つまり罪の中に歩き回っていたものが、その場でがんじがらめに動けなくなり、ずぶずぶと沈んでいく様子が段階的に描かれているのです。これは私たちの罪の現実をよく表現している箇所だと言えます。

 

 ①人はまず悪者のはかりごとを歩み始めます。悪者とは別の箇所では「不敬虔」と訳されていることばで、神様に反する考え、神様を中心としない態度です。昨日までの小学キャンプにはタイで宣教師をされていた田口倫子先生が来てくださいましたが、王様がいるタイではいまだに不敬罪を厳しく取り締まっているそうです。王にふさわしい敬意を表さない者を次々に捕らえていくのです。もちろんそれとはだいぶ違いますけれども、神を神としない、創造主を創造主として礼拝しない者は、やはり不敬虔な者、悪者だと言われるのであります。もっと言えば、それは自己が神、自分が中心となっていると言ってよいでしょう。それの何が問題なのだと多くの人は言うでしょう。造られ生かされているにもかかわらず、造り生かしてくださるお方を知らないすべての人が、ここで言われている悪者なのです。

 

②さらに、そのように神を知らずに生きている人は、罪人の道に立つ、立ち止まってしまうのです。聖書はいたるところで、生きる方向を変えるように、悔い改めて神に立ち返るようにと教えていますが、多くの人は立ち止まってしまうのです。何かを求めているならば歩き回ることもあるでしょう。しかしそれさえできずに、考えることをやめ、求めることをやめて的外れの場所にとどまり続けるのです。しかしそれは現状維持ではなく、少しずつ、でも確実に滅びへと向かうことに他なりません。罪というのは冬場の布団のようだというたとえがありますけれども、もうそこから動きたくないという誘惑が私たちを襲うのです。

 

③そしていつしか、立ち止まっていた罪人は、その場に座り込むのです。自己中心な考えで振舞って的外れな道に呆然と立ち尽くしてた罪人は、神の教えに対して衝突し、あざけるもの、馬鹿にする者となる。それまでは知らなかったのかもしれませんが、知った上でそれを受け入れない、敵対するのです。ひょっとしたら私たちの中にもあるいはそのような思いがあるかもしれません。正面からぶつかることはしませんが、どこかでこの教えを馬鹿にしている、そのままに受け止めることができないことはないでしょうか。時代遅れの考えだとして、それはそれこれはこれと、現実問題と区別して受け止めてしまう。それは幸いとは程遠い生き方であることを知らなければなりません。

 歩み、立ち、座に着く。徐々に、しかし確実に救いから、救いの主から遠ざかっていくのです。全ての人がそうです。私たちはその主から遠ざかる道を離れ、再び主に向かって歩み直さなければなりません。生きる方向を変える、悔い改めが必要なのです。順番は前後しますが、「幸いである」ということばは、もともと「まっすぐに歩む」という意味だそうです。まっすぐに歩むことこそ幸いな生き方、ということでしょう。当然、行き先がどこでもいいわけではなく、神様に向かってまっすぐに歩むということ、それこそが幸いであるのです。しかし罪人は、あっちにふらふら、こっちにふらふらし、間違った場所にとどまり、そこから動けなくなってしまうのでした。いや一部の人ではなく私も含め皆がそうです。だからこそ全ての人が悔い改めなければならない。聖書はいたるところでそのように教えるのです。神様から離れる道を離れ、悔い改めて生きる方向を変え、神様に向かってまっすぐに歩むことができている人こそ、幸いと言われているのです。

 

 続く節は、この幸いの積極的な面を歌います。どうすれば幸いと呼ばれるまっすぐな生き方ができるのか。2節、まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。私たちの幸いの鍵、神様に向かってまっすぐに進む為に必要なのは、「主の教え」であると詩人はここで明言しているのです。主の教えとは、第一に律法のことが考えられますが、さらに広く主のことばと言ってよいでしょう。神様のみこころを自分の喜びとして生きることが求められている、そう言い換えることもできるかと思います。

 

 しかしどうでしょうか。喜びということを考えていますと、誰かに「喜べ」と言われたからといって心から喜べるものだろうかと考えてしまいます。いわば喜びが強いられているのですから、何か怪しげなカルトのような感じさえするのではないでしょうか。そのように言われることによって逆に喜びが少なくなってしまうことさえあるかもしれません。奉仕や献金にしても同じではないでしょうか。私たちは罪人で、自己中心に生きているものですからこころから主の教えを心から喜ぶということが難しいのです。でもそんな時、新約聖書のことばを思い出します。ピリピ4:4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」これも、私たちの普通の考えではいつも喜ぶことなんてできっこありません。しかしここではそれを無理矢理にでもしろと言われているのではないのです。「主にあって」ということがキーワードとなっています。喜べない時でも、それどころか悲しくてつらくて叫びたい時でも、主がいらっしゃるから、主によって私たちの一番大きな問題は解決されているから、私たちは喜ぶことができるのです。苦しみの中にあっても主が私を知っておられ愛してくださっているから、それを何度も思い出し喜ぶことができる。これが私たちの大きな力となるのです。主の教えを喜びとするのも同じではないでしょうか。罪人の私たちは、やはり自分が中心ですので主の教えを喜ぶことはおろか、受け入れることだって簡単にできるものではありません。しかし、私たちを救って下さったお方がおられ、そのお方によって本当の命への道があることを知ったのです。私よりも私のことを知り、大切に思ってくださるお方がおられる。だからこそ、そんな愛してくださるお方の教えを、私自身の喜びとして信頼し、従うことができるのです。その価値をわからないままに喜ぶことはできません。鰯の頭も信心からみたいな、つまらないものでも信仰という名で無理矢理にでも喜ばせるのではないのです。主の愛を知り、主に生かされていることを知っている者だけが、この教えを喜びとし、それゆえに幸いであると言われる道を歩むことができるのです。そういう人は、限られた時間、限られた場所でだけ喜ぶのではないことは当然です。目に見えるところを見ているのではなくて、すでに私たちに与えられているものを見ていつも喜んでいるのですから、当然昼も夜も、どこにいても何をしていても、このお方の教えが身近なところにいつもあるのです。新改訳聖書をお持ちの方は下の脚注をご覧ください。「口ずさむ」という言葉は「思いめぐらす」とも言われています。目で見たり耳で聞いたりできるような表面的な行為として「口ずさむ」ことだけが言われているのではなく、それを心の中でも、いつも「思いめぐらす、いつも第一にする」ことが言われているのです。

 

 そのように生きる時、3節、「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」木がしっかりと根付き、枝を広げている様子が思い浮かびます。生命力にあふれた、みずみずしい力強い木をイメージします。この、主の教えを喜ぶ人を表す箇所を読んでいて、先日の竹田孝兄の葬儀の際に紹介された愛唱聖句を思い出していました。ペテロの手紙でも引用されています、イザヤ書にある有名なみことばです。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:6-8)。永久に変わることがなく立ち続ける、存在し続ける主の言葉、主の律法、主の教えを喜びとする者は、やはり揺るがされることのなく、枯れてしまう草や花どころか木のように大きく成長し、多くの実をつけ、生き生きとしているのです。このイザヤ書の対比は本日の詩篇の箇所でも鮮やかに描かれています。

 3節には後ほどもう一度戻ってきますが、先に46節の後半部分、幸いではない者たち、悪者たちの生き方がどのようなものなのか。4-6節をお読みします。悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者の集いに立てない。まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。厳しいことばが続いています。もみがらというのは米や麦などの食べられる身の部分を覆っている殻です。脱穀して食べられる実の部分と殻の部分を取り分けるわけ食べられる状態にしていくのですが、この当時、農家はふるいにかけて殻の部分、もみがらだけを風に吹き飛ばしていました。箕と呼ばれるふるいにかける時、軽いもみがらは吹き飛ばされ、食べられる実の部分だけが残るという仕組みです。悪者は、そのように風に飛ばされるもみがらのようだといわれています。この世では成功し富んでいるように見えても、そのような吹き飛ばされてしまう者なのだと教えているのです。一方で主の教えを信じる者は、時にこの世では迫害を受け苦しめられ傷つけられることがあっても、しかし水路のそばの木のように力強く伸びていき、多くの実を実らせ、いつまでもみずみずしい葉っぱをつけている。なんと違うことでしょうか。絵画的に対比されています。風に飛ばされるもみがらのような悪者の道が行き着くところは滅びです。6節では滅びうせるとありますから極めて強い表現です。跡形もなく滅ぼし尽くされる。目に見えるところには強そうに、栄えているように見えても、成功を収めているようでも、主の目にはそのような儚く愚かな者なのです。自分を中心に生きる者、神を退けあざ笑う者は皆そうです。

 

 しかし主の教えを喜びとし、その教えを絶えず思い巡らし、心の中心に置く者は違うのです。水路のそばに植わった木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れない。枯れないどころか、何をしても栄えるとさえ言われています。水路というのは自然の河川などとは違って人の手によって作られた人工の川です。また植わったという言葉は自然に生えるのではなく、植えられた、植樹されたという意味を持っているそうです。つまり、ここで言われていることはすべて、自分の意思ではなく誰かの手によってそのようにされているということを表しています。一本の木のために水路を作り、一番ふさわしいところに植えてくださる「誰か」とはだれでしょうか。だれが私たちを本当に生かし、潤し、満たしてくださるのでしょうか。当然、神様であります。主の言葉を信じ、受け入れ、それを喜びとして生きる者を、主はそのように取り扱ってくださる。生かし続けてくださるのです。ここにこそ幸いと呼ばれる生き方があります。

 

 お気づきになった方もおられると思いますが、本日の交読文では、やはり幸いについて、本当の幸いについて教えるイエス様の山上の説教の箇所を共に味わいました。実を言いますと、新改訳の訳はわかりやすい一方で強調点があいまいですので、原語を直訳ぎみに訳している文語の聖書でその数節を読んでみます。「幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰められん。幸いなるかな、柔和なる者。その人は地を継がん。幸いなるかな、義に飢え渇く者。その人は飽くことを得ん。幸いなるかな。あわれみある者。その人はあわれみを得ん。幸いなるかな、平和ならしむる者。その人は神の子ととなえられん。さいわいなるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり。」幸いなるかな、ということがそれぞれの頭に置かれていて、ここに強調が置かれていることに気づきます。そしてよく話されることですが、この繰り返される「幸いなるかな」という言葉は、祝福を意味する語が使われているのでした。幸いな者は、神様の祝福を注がれている者です。単に良いことがあった、悪いことがなかったという幸いではない。ラッキーやハッピーなのではない。言い換えるならば、私たちの感覚では悪いこと、不幸に思えることであっても、神様の目から見れば幸いである。この世の価値観ではとても幸いだなんて言えないことでも、神様の目から見ればそれは地上の何にも勝る幸いであるのです。イエス様に出会った人、このお方の愛を知った人はみなこの「主にある幸い」を知っています。私たちはこの世に惑わされることなく、それをしっかりと覚えておきたいのです。私たちの幸いはどこにあるのでしょうか。何を幸いと見るのでしょうか。改めて今朝、自らに問いたいと思うのです。それを見失っては、私たちの歩みはまっすぐな者ではなくなってしまうのです。

 

3. 戦中の歩み 幸いの道から逸れてしまう時      

 今日は813日、72回目の敗戦記念日を目前にしています。太平洋戦争、それ以前からの15年戦争、さらに遡って見て、教会の幸いがどこにあったのかと考えていました。人々の求める幸いはどこにあったのか。それは国や世に認められることであり、国の勝利に貢献することであり、日本人独自のキリスト教を確立することにありました。誤解を恐れずにいうならば、神様のことよりも国のこと、真実よりも自分たちのことを優先した「幸い」を求めていたのです。確かにそのように歩む時、国に認められ、植民地政策の方翼を担うようにと命じられました。迫害から避け、教会は建物としては生き残りました。

 

 しかしそれは、本日の箇所で見てまいりました悪者の生き方に他なりません。風が吹けば飛ばされてしまうような、まっすぐに神様に向かうことができていない罪人の生き方です。いや当時の状況で生きてはいないのに、目に見えるところでの安全が確保されている私なんかが評価することはできないかもしれません。けれども、一人のクリスチャンとして、主に喜ばれる道を歩みたいと願う者として、やはりどうしても神様が教える幸いの道をまっすぐに進んでいたとは言えないのではないかと思うのです。主の教えだけを喜びとし、その教えだけを心の中心に置いて、昼も夜も思い巡らす。そんな生き方とはかけ離れてしまったのではないか。これはそのまま、今日の私たちへの問いとなります。戦争責任やその歴史を学ぶということは、過去の人々を断罪することが目的ではなく、今日の私たちがどう生きるかというチャレンジだからであります。私たちはどこに生きるのか。何を幸いとして生きるのか。今朝改めてお一人お一人がこの問いに、神様からの問いかけに、答えていただきたいと思うのです。そして悪者の道を歩み、罪の途上に立ち止まり、そこに座り込もうとしている自分に気づいたならば、直ちに悔い改め、生きる方向を変えていきたいと願うのです。そこには祝福はありません。滅びが待っているだけです。

 

 これも度々お話しします第二次大戦下のドイツで生まれたバルメン宣言というものがあります。詳しく見ることはしませんけれども、当時のドイツ、ナチ党が煽りに煽った熱狂的な愛国的情勢の只中にあって、ただみことばだけ、ただキリストだけを信じ従う姿勢を告白したものであります。この信仰告白の最後は一つのことばで締めくくられます。「神の言葉はとこしえに保つ」ということばでした。先ほどお読みしましたイザヤ書の御言葉です。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」神の言葉は永遠に立つ。ナチスに対して戦った教会は何が幸いか、何がまっすぐに神様に向かう道かを好みことばに見出しました。それが現実の力となったのです。

 預言者イザヤの時代というのは、彼の祖国である南ユダ王国は国家存亡の危機の時代でした。大国アッシリアによって、隣国の北イスラエルは滅ぼされ、さらにその脅威は自国にまで迫っていた。王たちはそのような国家の危機的事態に直面し、人間的な知恵を巡らし、様々な政治的手段によってその危機を回避しようとします。言い換えれば、神に頼ることをせず目に見える力に頼っていたのです。しかしイザヤは、神の言葉の確かさと、その希望を指し示し続けました。主と主のことばに信頼する道を示し続けたのです。地のあらゆる者は崩れ去る。栄華を誇るアッシリア帝国も、時の勢力をほしいままにしていたナチス・ヒトラーも、すべては枯れて落つる限りあるもの。しかしそんな中で、ただ神の言葉こそ、永遠に立ち続けるものだったのです。そしてこの主のことばに立つ時、その教えを唯一の喜びとしいつも心に思いめぐらす時、もみがらのように風に簡単に吹き飛ばされるようなはかなくむなしい人生ではなく、しっかりと根を張り巡らし、豊かに実らせ、いつまでもみずみずしく美しい葉が茂り続ける人生、水路に植わった木のように生きることができるのであります。時が来ると実がなりとあります。必ずしも、今は実りが見えないことがあります。特に困難な中、嵐の中にいてはこの実りはもうないのではないかと不安になることだってある。けれども、時が来れば、神様の計画の中で必ず実は実るのです。大切なのは、悪者の道に進まず、帰らず、このお方だけを唯一の喜び、指針として歩むことであります。何度も悔い改めることがあるでしょう。何度も主の教えに軌道修正されながら、しかしこの世のものではない神様の祝福を受ける幸いが、ここにのみあるのです。

 

4. まとめ    

 私たちはこの季節、毎年、悔い改めを持って過ごします。それはかつての戦争の過ち、今尚そこに苦しむ兄弟姉妹がいることを覚えての悔い改めであると同時に、知らないうちに私たちの中にもある、罪人の歩みからの方向転換でもあります。決して政治的な糸だけに終始するものではありません。

 イエス様の愛に生かされ続けていく時、当然生まれてく一つの応答として悔い改めがあり、主に喜ばれる道への方向転換がある。キャンプでたくさんの決心という応答が与えられた子どもたちと同じ、どこまでも信仰の事柄なのです。それを主は喜んでくださり、幸いなことだと受け止め祝福をくださる。主だけを誇り、主のみことばだけに信頼し、喜んでしたがっていく幸いな者の歩み。それを今日から新たに始めさせていただきましょう。お祈りをします。