誠実で謙遜な人

❖使徒の働き10章1節~8節          ❖説教者 川口 昌英 牧師

 

❖中心聖句 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた…   使徒の働き10章2節

❖説教の構成

◆(序)コルネリオという人物 

①ここに出ているイタリヤ隊とは、ローマ軍の正規部隊ではなく、ユダヤに駐在した補助部隊のことである。正規部隊は6.000の兵士からなっていたのに対し、補助部隊は、1.000の兵士からなっていた。コルネリオはその駐留軍の百人の兵士を統率する隊長であった。百人隊長は、現場の指揮官であり、有能な人が多かったと言われている。ローマの歴史家は、百人隊長の資格条件について「百人隊長に要求されていることは、堅実な、慎重な精神を持った良い指揮者であること、冒険的でないこと、攻勢にでがちであったり、勝手に戦闘をはじめたりしないこと、しかし、いざ敵に圧倒され、窮地に陥った場合には、断固として立ち向かい、陣地を守って死ぬこと」と言っている。多くの場合、軍事的判断力にすぐれていただけでなく、部下から信頼されていたと言われている。実は、主の生涯について記されている福音書の中にも二人の百人隊長が出ている。参考までに見ると、マタイ8章5節~、27章54節。(朗読) 部下思いの柔軟な発想の持ち主が多かったことがよく分かる。

②この大事な場面において、中心的人物として主に用いられたコルネリオであるが、異邦人でありながら、家族揃って真摯に神を信じ、実際に日々、主を礼拝し、祈りの生活をし、また地域の中でユダヤ人に多くの施しをしていた人であった。植民地、支配している地域に、権力の現場責任者として派遣されているのであり、ともすれば、自分たちは、一段と高い立場にあるとの意識を持って、現地の人々の社会、宗教を見下している者たちが多い中にあって、コルネリオは奢り昂ぶることをせず、派遣されている地の人々を大切に思い、彼らの宗教、信仰を尊敬したのである。

 

 コルネリオという名前は、紀元前の1世紀に1万人の奴隷が解放されてコルネリウスの氏族に加えられて以来、その名は多く溢れるようになったと言われている。また、この時代に、シリヤにイタリヤ隊という部隊が駐在したことは実際の碑文から明らかになっている。

 

◆(本論)アブラハムへの約束の実現

①この箇所は、異邦人も救われるという神の御心が明らかにされた、教会の歴史にとって大変化が起こったことを伝えている重要な箇所である。

 選民とされ、律法が与えられていたユダヤ人、あるいは外国人であるけれども律法を学び、改宗した者、さらにはサマリヤ人のようなユダヤ人と歴史的関わりがある人々だけでなく、歴史的関わりが全くない、また律法を学んだこともない、全くの異邦人、すべての国のすべての人々にも神の義を受ける道、救いが開かれているということが明らかになった場面である。

 この場面において注目すべきは、異邦人も神の義を与えられる、救われるという大変化の時に、コルネリオという具体的人物を通してその御心が明らかにされたことである。それは、前回話したように、異邦人も救われるという同じ御心が伝えられるためにペテロが用いられたことに対応する。

 

②聖書を読んで行くと、殆どの場合、神の御心は具体的な人物を通して示されている。私たちは、そのような例を多く知っている。その子孫が神の民として選ばれ、また彼らを通して、全世界の人々も救いの恵みにあずかることが明らかにされたのはアブラハムに対してである。またモーセを通して律法が与えられ、約束の地に入り、神の民として整えられ、宝の民、祭司の王国、聖なる国民となることが示されている。さらに多くの預言者を通して救い主が送られ、人の罪を贖うために犠牲となることが言われ、そしてその通りにマリヤによって救い主が生まれている。さらに言うならば、主を裏切ったイスカリオテ・ユダや指導者や民衆を通して救い主の十字架の死が実現している。すべて具体的人物を通して御心が示されている。聖書を知らない人は、たとえばユダヤの田舎、ナザレの若い娘が突然、胎の実を宿し、男の子を産んだことに何の意味があるのかと思うが、神が実際の人を通して御心を行うことを知るとき、人間の目には小さなこととして写ることが実はとてつもなく大きな意味を持っていることが分かる。

 ついでながら言うと、それら主の御心が明らかにされている人々を思うと、立場、背景それぞれバラィティに富んでいるが、一つ共通している。それは、心に深い求めを持って生きていた人であった。決して現実社会から逃避して生きている人々ではなく、誠実に懸命に生きているが、現実に流されることなく、大勢の人がどうあろうとも人生の大切なものを求めている人々である。

③この場面で用いられているコルネリオもそういう生き方をしている人であった。前述のように駐留している軍の現場指揮官であるが、ユダヤの宗教、信仰を尊敬し、自らも家族揃って神を信じ、行動を持って神にある者として生きることを告白し、部下からも、地域の人々からも信頼されている人であった。

 主は、一方の中心人物であるペテロに対応する、その御心の受け手としてコルネリオを選んだのだった。コルネリオについて、もう一つ注目することがある。それは、彼が立場上、主の教会に正式に加わることができないことを分かっていながら、信仰者として生きていたということである。人を恐れて自らの信仰を隠しているという意味でなく、駐留軍の現場の指揮官として、主の教会に迎えられることは決してないと分かっていながら、一人の信仰者として誠実な信仰生活を送っていたことである。これは、見逃してはならないことだと思う。コルネリオは、民族、社会的立場に関係なく、本物の神の人であったことを現す。

 コルネリオに対して、なぜ、御使いが4~6節(朗読)にあるようなことを告げたのか。そして、御使いから告げられたことを聞いて、コルネリオがすぐ7~8節(朗読)にあるように行動したのか。彼は、民族、立場を超えた本物の信者だったからである。そのような人であったから、全くの異邦人であっても神の義が与えられる、救われることが実現するために、コルネリオが用いられたのである。

 

◆(終わりに)誰もが納得した人

   異邦人も救われるということを思う時、私たちは、マタイ28章18節~20節(朗読)の大宣教命令や使徒の働き1章8節(朗読)、さらに遡って創世記12章1節~3節(朗読)のアブラハムに与えられた祝福の約束を思い起こし、不思議と思わないかも知れない。しかし、それが実際に示された時、教会の現場においては大騒動が起こったことは容易に想像できる。それはそうだろう。理屈で分かっていても、これまで異邦人は汚れていると見ていたのである。その異邦人が、特別に律法を学んでいなくても救われるというのである。ローマ3章22節(朗読)に言われている、信仰による義が異邦人にも広がったというのである。それが教会の人々に受け入れられるには特別の配慮が必要であった。 そのために、真摯で誠実で評判の良いコルネリオに目が留められたのである。

 

 私たちは、歴史が変わる時に用いられるのは、人々から注目を受ける特別な人と思いやすい。賛成する人も反対する人もすべての人をうならせるような人だと思いやすい。けれどもコルネリオはそうではなかった。誠実で評判の良い人であったが、渦の中心にいる人ではなかった。そのような人に神は目を留めた。歴史の中で用いられているのは、声高で自分こそ能力があると叫んでいる人々ではない。むしろ人々からあまり注目されない人が多い。イエス様が選んだ人々もそうである。同じようにコルネリオが選ばれた。ただ素朴に信じている人に主は目を留めている。