なんという愛

■聖書:ヨハネの手紙第一 31-3節   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:私たちが神の子どもと呼ばれるために、—事実、いま私たちは神の子どもです—御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。(第一ヨハネ3:1

 

1. はじめに 〜「子とされる」めぐみ〜

 今日は月の最後の礼拝、賛美伝道礼拝ですから、神様を信じる時に私たちにもたらされる救いについてお話をさせていただきたいと思っています。もっとストレートにいってしまえば、神様を信じるということで、どんな良いことが私たちに起こるのかということです。まだ神様を信じていない人は、是非そのことをすでに信じている方々に聞いていただきたいと思いますし、すでに信じている私たちは、私たちにもたらされたものがどんなに素晴らしいものなのかをしっかり言葉にできるようにしておきたいものであります。やはりそれがなければ人に紹介はできませんよね。本当に良いものだと信じているから、ちょっとイヤな顔をされても伝えることができるのだと思うのです。

 ところで、救いと聞いてどのようなことを思い浮かべるでしょうか。私たちがすぐに考えるのは、「〜からの救い」ではないかと思います。悲しいことや苦しみからの救い、解放と言い換えてもいいものです。私たちは、特に苦しみや試練の中にいるときにはそれを何が何でも求めるものです。もちろんそれが悪いわけではありませんし、神様の救いにはそのような側面もあることは確かです。しかし、本日特に覚えたい「すばらしい愛」は、何かからの救いだけではなく、私たち自身が変えられるという種類の救いであります。「〜への救い」とも言えるでしょうか。しかもそれは何かの偉人や聖人になることではなくて、神の子どもとなる。この素晴らしい救いについて、ヨハネの言葉を聞いていきましょう。    

2. 神の子とされる愛 〜私たちの「かつて」と「いま」

 本日の箇所、第1節の前半部分をもう一度お読みします。私たちが神の子どもと呼ばれるために、-事実、いま私たちは神の子どもです-御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。この箇所をギリシャ語で読みますと、このように始まっています。「見よ、なんという愛!」。ビックリマークがついているような強調表現です。この手紙を書いたヨハネは、明らかに神様の愛に注目するように意図してこのように書き始めているのでした。「なんという」とか「どんなにすばらしい」と訳されている言葉をさらに詳しく見ますと、「どこの国から」という意味を持っているそうです。これまで見聞きしたことがない、この世のものとは思えない愛。とんでもない愛が与えられていることにヨハネは目を向けさせているのです。

 その上で、この愛がどのような形で私に与えられているのか、この愛によって私たちに何がもたらされたのかを説明しているのです。それこそが、私たちが神の子と呼ばれる、いや呼ばれるどころか事実、神の子どもとされることでありました。ここに、神様のとんでもない愛、この世のものとは思えない愛の表れがあるのだとヨハネは言うのです。では、「神の子どもとされる」とはどういうことなのでしょうか。いったいそれのどこが「なんという愛!」と呼ばれるものなのでしょうか。

 

 勘違いしてはいけないのが、「人類皆兄弟」という言葉のような「神の子ども」のイメージです。確かに綺麗な言葉ですし、この世界は全て神様に作られていますから、そういった意味では、全ての作られた人間にとって作ってくださった神様はお父さん、ということもできるでしょう。しかし、この箇所で言われている「神の子ども」と呼ばれるために与えてられたすばらしい愛は、それとは全く違う、スペシャルな愛なのです。と言いますのも、私たちは皆、確かに神様に造られていますけれども、そんな神様から離れて好き勝手に生きている大きな罪を持っています。いわばお父さんの元から飛び出して行き、離れてしまっているのです。聖書にはこのような箇所があります。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、他の人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ23本日の箇所と同じ、「子」という言葉で私たちをいいあらわしていますけれども、なんと違うことでしょうか。かたや神の愛を受けた神の子、かたや、うまれながらにみ怒りを受けるべき子。いや、全ての人はみな、この生まれながらにみ怒りを受けるべき子だったと聖書は教えるのです。自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行いというのは、神様を第一としない生き方を表します。自分が中心となっている生き方です。集団行動などで自己中な人が嫌われるということはままあることですが、しかし神様の目から見ればすべての人は神様ではなく自分に従って生きる、自分が中心となる自己中なのです。そこに疑問を持つ人も少ないでしょう。自分の人生なんだから何をしたっていいじゃないか、私は私のやりたいようにやる。それが当たり前なのです。しかしそれは、本来いるべき場所にいない的外れであり、神様の怒りを受けることになる罪なのです。

 怒りと簡単に書いてありますけれども、それは恐ろしいものです。コラ!と叱られて終わりではなくて、このお方との関係が絶たれる、絶交されるということです。いや罪人であった私たちは、私たちから飛び出して行き、神様なんて知らない・関係ないと絶交したのであります。神様はなんども帰ってくるように声をかけ、待っていてくださるお方です。でも、それは無期限なわけではないのです。もうそれが回復しようがないところまで行ってしまうということがあるのです。人はみな裁きを受けなければならない時が来ます。そのときに私たちの命を造って下さったお方との関わりがないということは、もはや私たちは滅びへ向かって一直線に進んでいるのに他なりません。ブレーキの壊れた自転車に乗って金沢大学、角間山から駆け下りてきたことがありますけれども、そんなもんじゃない怖さがあります。結果は目に見えている。しかし当の本人にはわからないのです。小さい子どもを見ていても同じように思うことがあります。周りから見ていればそこに危険があることは明らかであっても、本人たちはそれがわからずに楽しそうにしている。私たちも皆、神様の目から見れば同じなのです。

 

 生まれながらに不従順、神様に背を向け、神様の呼び声を無視し続けて滅びへと真っ逆さまに墜ちていく。神様の怒りの罰を受けるはずだった。それがかつての私たち。繰り返しになりますが、救いの手がなかったわけではありません。けれども私たちは不住jんんで肉の思いを優先してしまいますから、いろんな言い訳をして帰ることを拒むのです。しかし、そんな私たちが神の子どもとされるのです。姿格好や能力に優れている人を子どもにするわけではありません。それどころか、勝手に離れていったような者です。たくさん失敗もするし、帰ってきたと思ったら、またすぐにふらふらしてしまうこともある。決して誇れるような信仰は持ち合わせていない。そんな私でさえ、神様は受け入れてくださっているのです。それは決して当たり前のことではありません。1節の最後は、突然とも思える言葉です。最初からお読みしますが、私たちが神の子どもと呼ばれるために、-事実、いま私たちは神の子どもです-御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。世が父を知らず、それゆえに私たちを知らない。知るという言葉は単に知識として知るということ以上に、関係を持つ、親密になるという意味があります。ですからここには、世と相容れない父、そしてその父なる神の子どもたちとの姿が描かれます。クリスチャンとして生きることは、世から浮いているようなものかもしれません。あるいはそこに衝突といったほうがいいかもしれません。それは一週間を終えてここにお集まりになったみなさんそれぞれが体験してきたことではないでしょうか。社会で、学校で、家庭で。あるいはその周りから浮いていることを嫌って、クリスチャンであること、神の子どもであることを隠したくなることもあるかもしれません。しかしこの箇所を読む時に、改めてヨハネという人が書いた福音書、ヨハネの福音書の112節のみ言葉を思い出すのです。クリスマスの箇所に読まれることの多い、イエス様誕生の出来事を伝える記事です。9節から11節をお読みします。すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。先ほど宮崎兄弟の証の中には闇という言葉が出ていましたけれども、まさしく私たちが生きていた、あるいはさまよっていた暗闇を照らす光としてイエス様は来られました。もがき苦しむ私たちを、その闇から助け出すためです。しかし世はそれを知らず、受け入れなかった。助けを与えるために来てくださったのに、そのままではダメだと道を示しに来てくださったのに、それを受け入れず、受け入れないどころから十字架にかけて殺そうとする人間の罪がここにはあります。神の独り子イエス様を受け入れないものは、父なる神をも受け入れないものです。救いの道は用意されているのに、その道を歩めない。まさに、的外れの生き方、的外れの罪の姿がここにあります。

 しかし、とヨハネは続けるのです。12節、しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。世は関わりを持とうとせず、受け入れなかった。しかし、信じた受け入れた者は、神の子どもとされる特権が与えられた。「この方」とは神様の独り子です。稀ながらにみ怒りを受けるはずだった私たちとは違い、唯一初めから神様の御子でありました。そのお方が十字架にかかってくださった。それは私たちを取り戻すためです。それを信じ受け入れたものは、このお方に結び合わされ、いのちが与えられ、神様の子どもとして迎え入れられる。神の子とされることは特権、特別な権利であると言われています。決して当たり前ではないのです。

 13節、この人々は(つまり神の子どもとされる特権を受けた人々ですが)、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。肉の欲求や人の意欲、つまり私たちの側から出るどんな思いや行動によるのでもなく、ただ神様によってそうされているのだということです。神の子どもの特権とは一体なんでしょうか。それを知るためには、そもそも神の子どもとはどのような存在なのかを知らなければならないでしょう。

 

 もう一度本日の第一ヨハネに戻ります。この箇所は、すでに主を信じ受けいれた者にとって大きな慰めと励まし、そして安心を与えてくれる力強いメッセージであると言えるでしょう。「事実、いま私たちは神の子です。」ヨハネは文章の途中であっても、どうしてもこれを明らかにしておきたかったようです。さらに2節でも繰り返して言います。「愛する者たち。私たちは、いますでに神の子です。」かつては御怒りを受けるべき子どもであったとしても、主を信じたいまは、神の子どもとされている。それが揺るぎない事実として示されているのです。それをいつも、どんな状況でも覚えているようにと励ましている。

 父にとっての子どもというのはどのような存在でしょうか。イエス様を信じたものは単に信者の一人として数えられるようになるわけではありません。親しい関係の中に置かれています。父は子どもの願いを聞いていてくださいますし、いつも共にいてくださり心を配ってくださいます。しかし何よりも、私たちの能力や成功失敗などに関係なく「大切な存在」と見てくださるのです。ですから、子どもとされているということは、無条件で愛されているということのしるしなのです。娘が与えられ、教会で本当に多くの人に可愛がっていただいているのを見て思うことがあります。間違いなく彼女にとってここは存在を無条件で受け入れられている場所、居場所となっているのだということです。それは本当に幸せなことであります。確かに彼女が成長すれば、教会がうっとうしく思うことがあるかもしれませんし、ちょっと家出をすることもあるかもしれない。けれども、無条件で愛を注がれてきた人は、やはり自分の居場所を知っているんだと思うのです。最初から知らないのとは決定的な違いがある。帰れる場所あると言った方が良いでしょうか。娘だけではなりません。教会の子どもたちはそのような愛を多く受けて育まれています。そしてこれまで見てきましたように、イエス様を信じ神の子どもとされた人は皆、神様にとってなくてはならない大切な一人一人であるのです。私たちにとってのいつでも帰れる場所とは、父なる神様の元である。神の子どもはそれを知っています。私たちの目の前の問題が解決するだけではないのです。抱えている重荷から解き放たれるだけで終わらない恵みがここにはあります。御怒りを受ける子、本当の居場所を知らない迷子から、無条件の愛を注がれる子、本当に安らぎ安心できる居場所を知った神の子どもへと変えられている。〜からの救いだけではないというお話を冒頭でしましたが、子どもとされているというのはまさにそれに当てはまるものです。イエス様の十字架のゆえに、私たちはこの愛と安心を与えられています。

 

3. 子とされた者の将来について   

 かつてはみ怒りを受けるべき子らであった私たちも、いまは信仰のゆえに神の子どもとされました。そんな私たちの将来について、まだ明らかにされていないところがある、わからないところがあるとヨハネは正直に伝えます。その上でわかっていることを伝えています。2節の後半、のちの状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストが現れたなら。これは、聖書が教えているイエス・キリストが再び来られる日、再臨の日を指しています。それがいつなのかはわかりませんが、必ずまた来られ、生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。と使徒信条では告白していますが、そのとき私たちは裁かれるのです。かつての私たち、主を信じない「不従順の子らの中」で「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行」っている者は、「御怒りを受ける」のです。その日が必ず来ることは確かに約束されていることでした。そのときを、しかし神様を信じ、イエス様を受け入れた者たちは喜びをもって待ち望むことができるのです。キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。み怒りを受けるべき子ら出会った私たちが、実の神の子であるイエス・キリストに似た者になるのです。いまは子とされていながらもたくさんの失敗をしますし、放蕩息子のように飛び出して行ってしまうことが何度もあるかもしれません。しかしこの日、私たちは確かに変えられる。これは私たちにとっての希望です。地上でのどんな困難があろうと、悲しみ痛みがあろうと、挫折があろうと、その日にはすべてが良くされるのです。信じていない者にとっては怒りを受ける恐れの日であります。しかし信じる者にとっては、その日は私たちの長子、お兄さんであるイエス様と直接お会いする喜びの日となる。3節では、この希望が今の私たちの生き方を方向づけることが言われています。3節、キリストに対するこの望みを抱く者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。よく、イエス様を信じクリスチャンになったら、清い生活をしなければならないと考えておられる方がいます。中高生と洗礼の準備をしていても、それが何か窮屈な気がしてためらっているという声も耳にします。しかし勘違いしてはいけないのですが、何か洗礼を受けたからしなければならないことがあるとか、義務が発生するということではありません。私たちは救われ、神様の子どもとなるように招かれています。御子イエス様を十字架にかけることで、み怒りを受けるはずだった私たちが神の子として迎えられる道が開かれたのです。全くの好意、まさに無条件の愛、「なんという愛!」そんな神様が、信じた途端に顔色を変えて義務を押し付けるなんてことはないのです。はい信じたね、じゃあ色々やってねなんてことは言われない。私たちは子どもとされた者として、子どもにふさわしく生きることが求められているだけなのです。そして子どもらしく生きるとは、父なる神様の元からもう離れることなく生きるということであります。つまづいても、倒れても、他の人々から叩かれたとしても、もう離れない!ということです。それこそが清く生きることであります。度々申し上げることですが、聖書で「きよい」と言われるとき、そこには取り分ける、区別するという意味があります。私たちはもうみ怒りを受けるべき子ではなく、神の子として神様の元に区別されている。だから神の子どもとされた者は、そこに区別され続けていく、そこにとどまり続けることが求められているのです。お父さんの何よりの喜びは、子どもが何か立派なことをするとか、人より上に立つこととかではありません。その子がその子らしく、元気に過ごすことであります。これが何にも勝って願っておられることであります。そしてその子がその子らしくというときには、それが危険であるにもかかわらず放置しておくような愛しかたではなく、ときに戒め、ときには無理やりそこから引き離すことをしながらでも、その子を本当に守ろうとする愛を注いでくださるのです。

 

4. まとめ

 私たちの救いは、子どもとして迎え入れられることにあります。ここには本当の安心があります。自分で自分を受け入れられないときがあっても、イヤでイヤでどうしようもないことがあっても、神様はどんなときにも子どもである私たちを愛し、受け入れ、大切な存在だと抱きしめてくださるお方である。そのことをぜひ知っていただきたいのです。そしてこのお方の手に引かれていきたいと思うのです。私たちのことを私たちよりもよく知っていてくださるお父さんが、私たちを導いてくださります。このお方の優しい手にすべてをゆだねて、与えられている安らぎを喜び感謝しつつ、新しい週の歩みを始めて参りましょう。