ふさわしい人物

❖聖書箇所 使徒の働き9章32節~43節                     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

                              ペテロ第一の手紙1章4節

◆(序)この箇所について

 久しぶりにペテロについて記されている。31節で見たように、教会がイスラエルの全土にわたり築き上げられ、主に従う、神の国に生きる者たちが多く起こされ、さらに福音宣教が各地で力強く進められていた時であった。

 これまでもペテロは、各地に行き、福音を伝えていたが、特にその活動が記録されることはなかった。しかし、次の10章において異邦人の救いが主の御心であると明らかにされる直前において、再びペテロが登場している。

 この箇所において、使徒の働きの著者ルカは、読む者に何を伝えようとしているのか。それは教会が大きく変わる時に、ふたたびペテロが用いられたことではないかと思う。

 

 というのは、このルダやヨッパという町は、少数の信者がいたが、まだ福音が多くの人々に伝えられていないところであり、次の章に出ている異邦人も神の義を受ける、救われると示される前触れのような意味を持っている場所であったからである。この場面、ルダやヨッパでの出来事があって、次のカイザリヤでの大変化につながっている。そのために、しばらく出ていなかったペテロが再び用いられたように思う。異邦人も救われることが神の御心であると示される大きな転換の時に、その生き方が信頼されていたバルナバやサマリヤ伝道のために用いられたピリポたちではなく、なぜペテロだっただろうか。

◆(本論)なぜペテロなのか

①ルダやヨッパという、少数の信者がいたが、主の福音がまだ知られていない地域、そして異邦人の救いは、主の御心であることがはっきり示されたカイザリヤでの出来事の前触れとなる、これらの場所においてペテロが用いられたのは理由がある。

 ペテロこそ、ここで言われている奇跡、ルダで8年間中風であったアイネヤを癒し、またヨッパでクリスチャンの中で愛されていたドルカスを生き返らせるという、特別に神の御力を示し、その地方一帯、そして、近くにあるカイザリヤに住む異邦人コルネリオに福音のすばらしさを証しするにふさわしい人物であった。他にも良い働きをした者たちがいたが、このところで神の御力を示し、やがてカイザリヤにいる異邦人コルネリオの救いのために道を整えるのは、初代教会の中心であったペテロこそふさわしい人であったからである。

 ペテロの人物像については多くの人々が知っているが、元々、ガリラヤ湖で漁師をしていた時に、神の国を伝える主から「こわがらなくても良い。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」(ルカ5章10節)と言われて、何もかも捨てて主に従うようになった人物である。そして大胆さ、率直さのゆえに主に従う者たちの中で中心的な存在になったが、失敗も目立った人

であった。特に主の十字架の直前、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22章23節)と言いながら、自分の身が危うくなった時に「そんな人は知らない」と呪いをかけて否定した人である。しかし、復活の主によってあらためて主の御用のために召され、(ヨハネ21章) それからはいつも教会を代表して、反対する指導者たちや人々に主イエスの救いを伝え、また力強いわざを行い、神の御力を現した人物である。

 中でも忘れてはならないのは、マタイ16章にあるように、主から教会の本質、「あなたは生ける神の御子キリストです。」という告白のうえに「わたしの教会を建てる、ハデスの門もそれには打ち勝てない」ということばを言われた本人であったことである。これらから分かるように、ペテロは失敗しがちな人であったが、主イエスの御心を深く知っていた人であった。主の十字架の死と復活の意味、聖霊の力、教会の本質、教会に加わる恵みを深く味わっていた、それゆえ、書簡で「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者からよみがえられたことによって、私たちを生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることもない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これは、あなたがたのためにたくわえられているのです。」(第一ペテロ1章3節~4節) というように、主による生ける望み、朽ちることも汚れることもない資産のすばらしさを自分の人生において人一倍知っていた人物だった。このような人物であったからこそ、クリスチャンの少ない地域において、神の御力を現す特別なわざを行い、異邦人の救いは神の御心であることが明らかになるために用いられたのである。

                                             ②主は、主に従う者たちをそれぞれにふさわしく用いる方である。使徒の働きやパウロ、ペテロの書簡、またヤコブ、ユダ、ヨハネ書簡、黙示録を見るとそれがはっきり分かる。旧約を受けて新約が実現したことを人々に伝えるのにふさわしいのは、パウロやヘブル人への手紙の著者のように律法やイスラエルの歴史について詳しく知り、主イエスによって実現した福音を体系的に論じることができる人である。また異邦人宣教のために用いられるのは、異教やその文明についてよく理解し、それらに対して福音のすばらしさを伝えることができる人である。

 何事でも情熱、熱心は必要であるが、情熱、熱心だけでは足りない。その働きを行うのにふさわしい人が用いられている。ペテロは古くから主に従う者として、エルサレム教会の中心となり、教会を代表して人々に福音のすばらしさを伝える者であった。しかし、旧約と新約、律法と福音、選民と異邦人の関係について理論的に説明することは得手ではなかった。後で初代教会の中心となったパウロと比べて理論で教会を支えるという人物ではなかった。けれども、神が生きておられる、そしてその神の愛を特別に示す必要がある時、人知を超えたことをなされる方であることを示すのに、また教会が変化する時に、リーダーになるに最もふさわしい人物だった。彼の言うこと、行うことは、自分の考えていることではなく、主に従って行なっていると多くの人々に信頼されていた人物であった。それゆえ、このところにおいて再びペテロが登場して、用いられているのである。

 

◆(終わりに)それぞれ違う賜物がある

 現代でもいろいろなタイプの牧師がいる。言動、またメッセージを通して神様を身近に感じさせる牧師がいる。落ち込んでいてもそのメッセージを聞くと励まされ、悔い改めに導かれる先生がいる。笑うかも知れないが、私も憧れたことがある。しかし、やがて諦めた。そのような賜物がないことに気づいたからである。それから、私は自分にできること、聖書の世界を出来る限り深く理解し、ありのままの人間の姿を捉え、そうした人間に語られているみことばの真意を人々に伝えようとして来た。すばらしい働きをしている先生方のようにできなくて申し訳ないが、そうすることが私の働きだと思っている。

 

 これはまたすべての信者に当てはまることだと思う。社会の中で、人を恐れないで主の福音の証しが出来る人もいる。一方、ことばで上手に表現できないが、その生き方によって、人々の慰めとなっている人がいる。すばらしい証しをしている人のようにならなくても良いと思う。それぞれが自分らしく神の民として歩めば良い。一番いけないのは、他の人と比べ、失望し、救われている者としての意識を捨てることである。日本のクリスチャンに多く見られる姿である。主が私たちを救ってくださったのは、一人ひとりが本当に神にある永遠のいのちを持って生きるためである。教会の大きな変化の時にはペテロが用いられ、後半の中心となっている異邦人伝道のためにはパウロが用いられているように、主は、一人ひとりをふさわしく用いてくださる方である。あなたの得手は何だろうか。それを主に委ねる時、主はかならずそれを用いてくださる。