教会成長の背景

❖聖書箇所 使徒の働き9章31節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」

                                  使徒の働き9章31節  

❖説教の構成

◆(序)この箇所について

 使徒の働きの著者、ルカは、ところどころにおいて、俯瞰的に、まるで空高く飛ぶ鳥が地上を見るように教会の成長について述べている。それは読む者に教会の成長の意味を間違えてはならないと強く注意しているようである。次のような箇所である。

・6章7節「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常に増えて行った。そして多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」

・9章31節「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」

・12章24節「主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。」

・13章49節「こうして、主のみことばは、この地方全体に広まった。」

・16章5節「こうして、諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。」

 

・19章20節「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」

◆(本論)聖書が明らかにする教会の成長

①これらの箇所は、ルカが聖霊の導きを受けて教会成長について記しているところである。

 聖書は、教会の本質、マタイ16章16節において、主イエスがこの岩の上にわたしの教会を建てると言われた「あなたは生ける神の御子キリストです。」と告白する者たちの集まりが成長するとは、神のことば、主のことばが増え広がり、盛んになることだと言う。

 神のことばとは、聖書全体を通して言われている、神が天と地とその中の万物、最後に人をご自身のかたちとして創造した、けれども、人は、サタンの誘惑により、神のことばに背き、自分が善悪の基準となり、神から断絶され、罪と死の支配の中に生き、様々な罪の実を結ぶようになった。しかし、憐れみ深い神は、人を見捨てず、旧約、イスラエルを通して救いの道を示し、時が満ちて、ご自分の御子を罪よりの救い主として送り、その御子の十字架と死によって罪が贖われ、永遠のいのち、神の子の特権が与えられたことである。そして、終末、主が再び来て、すべてを裁く大審判をなし、いのちの書に名前が記されている者を新しい天と地に入れてくださる、こういった聖書の全体のことである。

 単に、教会に人が増えたということではなく、本当に主の福音を受け入れ、聖書が伝える世界観の中で生き、神の国に生きる者が多くなったという意味である。この理解は、とても重要だと思う。

 私たちの国でも、満州事変から始まる所謂15年戦争が終わった後、占領国アメリカの政策もあり、キリスト教ブームが起こり、多くの教会に人々が集まるようになった。しかし、敗戦の混乱も徐々におさまり、社会全体が経済的な豊かさを追い求めるようになると急激に教会から去った。みことばによる成長ではなかったのである。或いは、一つの教会においても、教会が誕生した時は、若くて元気で社会的に活躍している人が集まりやすいが、それぞれ何か困難なことが起こったり、やがていろいろな力を失うと、教会から離れる人々が多くなるのは、みことば、福音によって集まっているのではないのである。 

 使徒の働きの著者ルカは、聖霊に導かれて、そのようなブームによるのではない、真に主に従う者たち、使徒の働き4章19節~20節(朗読)にあるような生き方をする人が増えることを教会の成長と言う。主の福音によって人生が変えられ、この世の価値観の束縛から解かれ、聖書の価値観によって神の国の一員として生きる人々が増えて行くことを成長としている。

 参考までに、新約聖書が書かれたギリシャ語本文では、教会についてはこの段階ではまだ単数形が用いられている。一つの大きな教会という理解である。すでにユダヤ、サマリヤ、ガリラヤの各地に信ずる者たちの群れができていたが、全体が一つの教会、エクレシヤとして捉えられていた。多くの人々が考えるように、本来そうあることが望ましい。けれども、それぞれの独自性が目立つようになって行くと、教会は複数形をもって表されるようになった。

 

②次に、どのようなことにより、教会が成長したのかについて見ることにする。ルカは、まず各地に主の群れがあったことをあげる。ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤの各地にみことばによって生きる人々、キリストの香りを放つ者たちがいたことを言う。これは当然である。実際、身近にキリスト教、福音に触れることができたからである。都市部で大きな教会ができるなら、その町の中で大きな影響を持つようになるが、しかし、遠く離れた地方において福音を知る人はほとんどいない。しかし、それぞれの地方に教会があるなら福音を知る機会が多くなる。初代教会は、各地で主の群れができることを目指した。それが、信者の数が増えることの第一の理由となった。だがそれだけが、真の意味での教会の成長、みことばが広がった、主に従う者たちが多くなった理由ではなかった。

 ルカは、続いて大切なこと、それぞれの群れが「平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けた」ことを言う。これらのことがあったので、本当の意味の信者の数が増えていったと言う。

 最初に、平安を保っていたとは、この世のものとは違う主の平安が満ちていたということである。この平安については、主の誕生の時にも、十字架直前の時にも、また甦られた直後においても言われているものである。有名なヨハネ14章27節(朗読)でいうように主が与える平安である。この世の平安がいつかなくなるのに対し、主の平安は決してなくならない、奪われない。それは、罪が赦されている平安、神のこどもとされている平安、御国の希望が与えられている平安である。この平安が満ちている群れはすぐに分かる。一人ひとりに深い喜びがある。

 続いて、主を恐れかしこむとは、神を第一にし、深く愛していることである。銘々が思うがまま、自分の考え、感情によって信仰生活を送っているのではなく、2章42節(朗読)に言うように、みことばを中心にして公同の礼拝、心を一つして祈ることを重んじ、主の聖餐、信仰の友との交わりを大切にしていた。

 そして最後に、人間的な頑張りではなく、三位一体の神、同じ本質を持ち、主の栄光をあらわす同じ目的を持つ聖霊に導かれ、慰められ、力を受けて、状況が悪いといって立ち止まらず、前に向かって前進、祈って主の民として歩んでいたので信者が増えていったのである。

 

◆(終わりに)日本の教会に対する示唆

 

 本日の箇所は、日本の教会に対して、大きな示唆を与えている。たとえ困難な状況でも、たえずみことば、福音を伝え、信じている群れが主の平安に満ちて、心から神を愛し、人々を深く愛しているなら、また聖霊に導かれ、心を一つにして祈って歩んでいるなら、みせかけではない、本当に永遠のいのちを持つ人々が起こされるというのである。ある牧師がすばらしい演技をした俳優に向かってあなたは実際のことを経験していないのに、どうしてあたかも本物のように表現することができるのかと尋ねたところ、あなたがたクリスチャンは、本物を知っているのに、どうして真実でないかのように振舞っているのかと言われたとのことである。私たちに与えられているのは、本物である。この本物が与えられている者として立ち止まらないで歩んで行こう。