わたしの民とあなたの民

■聖書:出エジプト記8章全節   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。(出エジプト記8章23節

 

1. はじめに

 本日は長い箇所の最初の場面だけを読んでいただきました。主エジプトの際、エジプトが経験した十の災害の24番目が本日の箇所にあります。前回はナイル川が血に変わり、エジプト中の人々を苦しめたという第一の災厄を見ましたが、その続きに起こったものです。実は今回の準備をしている時、この十の災厄を全部ひとまとめにして、一回で終わらせようかとも考えていました。かえるやぶよやあぶなどをいちいちとりあげてもあまり意味がないんじゃないか。ぶよとアブの違いなんてそんなに大切じゃないのではないかと思ったからです。けれどもこれらの箇所をじっくり見て、祈り備えていくうちに、その不思議、神様のなさること一つ一つには特徴があり、意味があるということに気づかされたのです。言い換えれば、いわゆる奇跡と一括りにできることですが、そこには神様の計画が少しずつ前進している様子を見ることができるのです。そこに何の意味があるのかわからないようなことであっても、神様のなさることは時にかなって美しく、救いの実現に向かって、一瞬たりとも止まることなく、寄り道することもなく、前進し続けている、とも言えるでしょうか。

 私たちはこの出エジプトの物語の結末を知っています。しかし私たちの現実を見ますと結末やそこに至る過程なんてわからないことばかりです。そして当たり前のことですけれども、当時のパロやエジプト人はもちろん、神の民イスラエル人も、そしてこの物語の真ん中にいるモーセでさえどうなるかが完全にわかっていたわけではなかったのです。この不思議がどこまで続くのか、どのような結末が待っているかなんてわからなかった。今の私たちと同じです。時に神様が何を考えているのかわからなくなったり、自分たちがどこに向かって進んでいるのか不安になったりしたかもしれません。しかしそんな中でも主に信頼して従うことができたモーセの姿から、本日は学びたいと思うのです。先が見えないその中で、私たちはどのように生きていくことができるのでしょうか。

 その一瞬たりとも止まることのない神様の計画を知り、その中で私たちは生かされているのだということを、十の災厄から見ていきたいと願っています。神様の計画の先にある大きな救いのためには、これら一つ一つはなければならない災厄であり、しるしであった。与えられている箇所から、それぞれの災厄に見られる特徴を中心に見て参りましょう。    

2. 第二の災厄「かえるの大暴れ」

 まず先程お読みいただいた箇所、かえるが大量発生するという部分を見ていきます。前回の箇所、ナイル川が血に変わるというとんでもない不思議を目の当たりにし、自分の国民に大きな被害が出たにもかかわらず、主を信じず、主の民を行かせなかったパロ。そんな彼に対し、まさしく2節にあります「あなたが行かせることを拒むなら」と言われることが起こったのでした。パロは傲慢でした。自分の国民がどんなに苦しもうが自分の過ちを認めることができない、自分以外の主を認めることができないのでした。しかしそんな王のもとにもかえるがやってきた。様々な神を持つエジプト人にとって、多産なかえるは神聖な生き物、国を富ませ豊かにする豊穣の神の姿と重ねて崇められていたそうです。そんな生き物が様々なところに溢れ出てきた。想像するだけで恐ろしい…という方もいるかもしれません。ナイルが血に変わ李多くの民が苦しめられても考えを改めなかったパロでしたが、これは効いたようです。この第二の災厄の特徴は、「主とは一体何者か、私は主を知らない」とつぶやいていたパロのうちに見られる一つの変化です。8節パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「かえるを私と私の民のところから除くように、主に祈れ。そうすれば私はこの民を行かせる。彼らは主にいけにえを捧げることができる。」「主とは一体何者か」と言っていたパロが、主に祈れという。これは考えられない大きな変化でした。もちろん、全面降伏して言ったわけではなかったことでしょう。続く箇所で、モーセが、いつそれを祈るかを尋ねたとき、パロは「あす」といいます。「すぐに」ではなく「あす」。明日までになんとかならないか、呪法師たちがなんとかできないかと考えていたのでしょうか。あくまでモーセの言うこと、ひいては神様のなさることに抵抗しようとしている彼の頑なさ、悪あがきが表れている言葉です。すぐにでもなんとかして欲しいとは、彼のプライドが邪魔をして言えなかった。それは自分の力が及ばないことを認めるからです。私たちも全てを投げ出して縋り付くということがなかなかできないものであります。人の目を気にしたり、自分のプライドが邪魔したり。しかし主はそれを砕こうとされます。何か大きな衝撃を持って一撃で、ということもあれば、何年にも渡ってこつこつと扉を叩き続けるように呼びかけ続けられることもあるでしょう。しかしいずれにしても、神さまはその固い心を砕き、「主を知る」ことを求めておられるお方です。ご自身を受け入れるようにと願っておられるのです。

 モーセがすぐにかえるを退けず、パロにその退ける日を答えさせたのは、それが偶然であると言わせずに、これが明らかに神様の御手のわざであるということを明らかにするためでした。モーセは言います。10節「あなたのことばどおりになりますように。私たちの神、主のような方はほかにいないことを、あなたが知るためです。」確かに呪法師たちもかえるを出せたようです。しかしそれは何の役にも立ちません。なぜ被害をより一層深刻化させるのかと思ってしまうほどです。人の頑なさは神に勝利し自分を自由にする、どころか、ますます悪化させてしまうということはいつの時代にも当てはまることです。そんな者たちは、圧倒的な神様の御力を目の当たりにして「私たちの神、主のような方はほかにいない」と知る。パロが知るようにと言われていることは、そのまま私たちへのメッセージでもあるのではないでしょうか。それを知り続ける、驚かされ続ける一生でありたいと願います。

 しかし神様が砕こうとされるかたくなさを、人はいつまでも持ち続けるものです。喉元過ぎれば熱さを忘れるということばがありますが、まさにパロがそうでした。15節「ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。」都合の良いときだけ神様に頼る、礼拝する、聖書を読む、祈る。けれども嵐が通り過ぎれば、感謝もそこそこに神様を再び隅に追いやり、やっぱり自分が一番になる。約束なんてなんのその。そんな人間の姿です。息つく暇のできたのを見て、とはなんとも私たちの胸をえぐることばではないでしょうか。隙さえあれば神様を離れようとする人の罪の本質がここに見られるかのようです。

 この第二の災厄を考えるにあたり、モーセたちからしてみればこの出来事はどのようなものだったのだろうと想像を巡らせていました。あんなに強情だったパロが「主に祈れ」と言っている。「民を行かせ、いけにえを捧げることができるようにさせる」との言葉も勝ち取った!想像もできなかったことが次々に起こっていたのです。まさに神様の力を知り、喜んだことでしょう。やっぱり神様すごい!と。しかし、パロの強情のせいで結局は何も変わらなかった。少なくともそのように見える。結局は何も良くならない現実に、期待していた分裏切られた、失望したということはなかったのでしょうか。私たちにとってもよくあることかもしれません。神様の御心がなんだかわからなくなること、神様の計画がどこにあるのかわからなくなること。そんな時に人は失望し、疑い、神様から離れたくなるものです。

 しかしモーセは立ち続ける。事態は変わらず、パロのあまりの強情を見たせいで、結局はダメなんじゃないかと再び気弱にもなりそうなものです。いや、実際に彼は簡単に弱気になってしまう人間でした。不平不満を漏らし続けてきました。最初の会見であっけなく追い出され、イスラエルの民には罰としてのさらに厳しい労働が課せられた時には、その失望と虚しさを神様にぶつけました。5章の最後です。しかし今回は違う。先が見えなかろうと、目に見える大きな困難があろうと、物事がちっとも進んでいないようであろうと、彼は立ち続け、神様に従うのです。失望はあったでしょう。しかしだからと言って立ち止まらずに、次の神様の言葉を待ち、それに従うのです。何が変わったのか。それは、先ほどのモーセの怒りに答えられた神様のことばをしっかりと握り締めていたからだと思うのです。6:1私がパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」今にわかる。今、すぐにでもわかりたいと思うのが私たちです。しかし、たとえ今すぐにわからなくても、神様の計画は現在進行形で前進し続けているのだ、ということを教えるのです。実現に向かって一歩一歩進み続けているんだ。本日の箇所でもやはりそれを思い巡らせていたのでしょう。もう彼はつぶやきません。なんのために私を遣わされたのですかとは言わないのです。確かに失望はあったかもしれませんが、しかし主の器として、主が誰であるのかを知らせる戦いに再び立ち上がるのです。今はその身に降りかかっていることの意味がわからなくても、今にわかると言われている神様の計画を信じて、モーセは何度でも立ち上がるのです。

 

3. 第三の災厄「ぶよ大発生」

 第三の災厄は、前触れもなく急にもたらされました。16-17節をお読みします。主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」そこで彼らはそのように行った。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。ぶよもあぶも人にとって厄介な害虫です。ぶよはアブよりもひとまわり以上小さく、3-5mm程度だそうです。もっとも原文を見ていくと、どうやら今日のぶよというより、蚊のようなものだったのではないかと言われています。最近でも話題になりましたが、蚊はさまざまな病原菌を運び、病気を広げます。デング熱やマラリアといった深刻な病気を蔓延させる。この第三の災厄の特徴は、この不思議がもたらした一つの告白にあります。18-19節、呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。そこで、呪法師たちはパロに、「これは神の指です」と言った。しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。杖を蛇に変え、ナイルを血に染め、おびただしいかえるを送り出す。これらの神様のわざに食らい付いてきた呪法師たちです。トリックだったか、悪霊の力によったのか。もちろん神様のわざを打ち消すことはできませんでしたので力の差は歴然なのですが、それでも同じように見えることをしてきた彼ら。けれども、今回は違いました。私たちの想像を超える出来事なのでなんとも言えないですが、いろいろやってきた彼らが、ぶよなんて小さなものを生み出すことができないということは不思議な感じがします。しかしそれを目の当たりにした彼ら自身が「これは神の指です」と降伏宣言をしているのです。これ以降、呪術師たちは登場しません。ようやく勝てたということではありません。力が拮抗していて勝敗が見えない勝負をしていたのではないのです。神様は徐々に神様の力を表し、そして「主であること」を知らせ、救い出されるという計画を取られたのです。もっと一気にカタをつけられなかったのか。私たちは勝手なことを思いますが、神様の計画はそうではなかった。徐々に明らかにされていくのです。その計画の中で、パロは依然としてかたくなで、モーセの言うことどころか呪法師の言うことさえ聞き入れなくなりました。いよいよ矛盾だらけの、何をそんなに頑固に、意地になっているんだろうかと心配になるくらいの様子を見せています。自分で何を言っているのか、何をしているのかわからない。これもまた何処かで見たことのある姿です。

 

4. 第四の災厄「あぶの襲来」

 そして第四の災厄、アブの大量発生が始まりました。20-24節。主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に出よ。見よ。彼は水のところに出て来る。彼にこう言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。もしもあなたがわたしの民を行かせないなら、さあ、わたしは、あぶの群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。エジプトの家々も、彼らがいる土地も、アブの群れで満ちる。こうしてみていますと、様々な不思議、災厄が起こっていきますが、神様の言われていることは一貫していることに驚かされます。譲歩などは一切せず、繰り返し「イスラエルの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ」と語られているのです。なんとしてでもこのイスラエルの民を取り戻そうとする神様の深い愛の決意があります。それは人のかたくなさによって曲げられたり減らされたりするものではない。変わることなくこの愛はあり続け、その愛の実現のために、神様の計画は止まることなく進み続ける。その愛を知った時、その人の常識を超えた力を思い知らされた時、このお方が「主であることを」知るのであります。まさに第四の災厄において明らかにされたことがその特別な愛であります。22-24節、わたしはその日、わたしの民が止まっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、アブの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真ん中にいることを、あなたが知るためである。わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。』」これまでの災害はエジプト全土を襲いました。ナイル川、かえる、ぶよ。しかしこの四つ目のあぶは、誰が見ても明らかにイスラエルの民には危害を及ぼさないという不思議を表したのであります。特別な、取り分けられた民。まさに区別という言葉は取り分けることを意味します。神のものとされるものと、そうではないもの。この区別は明らかです。誰が見ても明らかな結果を生み出す。片方には救いを、片方には滅びを。もちろん、救出の道は用意されていました。主を知って悔い改めれば、主の民を手放せば、その災厄は終わる。しかしパロにはそれができなかった。イスラエルは神の民であり、神の民には神がいつもその真ん中にいてくださる。この災厄ではそれが明らかにされたのです。

 裏返せば神の民でないものがいて、必ず裁きを受けるということも覚えなければなりません。明らかに救いに区別があるということは聖書全体が教えていること、それゆえに私たちが覚えなければならないことです。「わたしの民とあなたの民」神様はモーセを遣わしはっきりとこう告げられました。私たちはどちらに属するでしょうか。私たちの主はどなたでしょうか。やがての日、終末の日にこの裁きは怒ると言われています。すべての人は区別されるのです。主を信じるものには報いとして救いがありますし、主を信じないものには滅びがある。「あす」と呼ばれる日が必ず来るのです。

 このあと、パロは再びイスラエルの民を行かせる約束をします。しかしそこには一つの妥協点が示されています。25節。「さあ、この国内で、お前たちの神にいけにえをささげよ。」これまでのパロを見ていますと、これでも譲歩したのかなと思えてしまいます。この辺で折り合いをつけ妥協したほうが得策かもしれないと、勘定する人もいるかもしれない。けれども、モーセは愚直です26-27節「そうすることは、とてもできません。なぜなら私たちは、私たちの神、種に、エジプト人の忌み嫌うものを、いけにえとしてささげるからです。もし私たちがエジプト人の目の前で、その忌み嫌うものを、いけにえとしてささげるなら、彼らは私たちを石で撃ち殺しはしないでしょうか。それで私たちは荒野に三日の道のりの旅をして、私たちの神、主にいけにえをささげなければなりません。これは、主が私たちにお命じになることです。」いけにえに使う羊や牛も、エジプトでは神聖視されていましたから、それを理由に、それはできないというのです。知恵を働かせつつ、しかし彼の愚直な信仰の中心にあったのは、最後の一言、これは、主が私たちにお命じになることです。との言葉でしょう。たとえどんなことがあっても、あの神様のことばどおりに計画は進んでいくんだ、神の指により私たちは導かれ、目には見えないけれども力強い手があるということを知ったからに他ならないのです。

 

5. まとめ

 モーセとイスラエルの民の救いはまだ先にあります。当然この時この瞬間を生きている彼らにはその全体像をすべて知ることなんてできなかった。私たちと同じです。すべてが分かった上で、主を知り、主に信頼し、主に敵対するパロと対決していたわけではなかった。じゃあ何故彼が戦えたのか。

 先ほどの61節の、「今にあなたにわかる」と言われた言葉とともに、ひとつのみ言葉を思い出しながら備えをしました。ヘブル書の著者は、モーセについて語る中でこのような言葉を残しています。11:26彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」今この瞬間も生きて働かれる神様に信頼するということは、先に用意されている素晴らしい報いを待ち望みながら生きるということでもあります。さらに少し後、あの有名なヘブル人への手紙12:2「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」というみ言葉があります。イエス様が現実に直面していたはずかしめと十字架の苦しみ、痛み、悲しみでありました。ご自身が経験しなくてもいい苦しみさえも背負われました。私たちの何倍も苦しまれた。しかしその歩みを止めなかったのは、ご自分の前に置かれた喜び、父なる神のみもとに戻り、そのみ座に着座される喜びを仰ぎ見ていたからに他ならないのです。そしてその十字架によって救われる、私たちの魂を見て喜ばれたのです。神様は、ただ私たちに決して信仰を捨てるな、困難に負けるな、悲しみなんか吹き飛ばせとは言われない。この道は、すでにイエス様が通られた道です。モーセを先頭にしたイスラエルの民もまた、その道を通り、神を見上げつつ歩み出した。同じ道を、同じ主を見上げながら、私たちも進むようと励ましておられるのです。本日は聖餐式ですが、式辞の中では「再び主が来られる日までこれを守るように」と言われています。言い換えれば、主のくださったもの、これからくださると約束されているものを握り締めて生きることが、私たちが地上での歩みを続ける中で必要不可欠な力なのです。

 神様を見上げ、神様の計画の中に生かされていることを忘れずに歩んでまいりましょう。主を信じる者には救いが用意されています。モーセが見て握り締めていた約束こそ、今日の現実を生きる力となるのです。