生涯を肯定できるか

❖聖書箇所  第一テモテ1章12節~17節      ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句  キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

                            (第一テモテ1章15節)

◆(序)重みがあることば

 

①生涯の終わりに自分の人生を振り返ってどのように思うかということは本当に大切です。どれだけ他の人々から評価されていたとしても自分自身が肯定できなければ、その生涯は幸いとは言えません。その視点を持って、新約聖書に収められている13通のパウロ書簡を読んでいくと、注目すべきことばが言われていることに気づきます。本日の箇所にあるように、「……ということばはまことであり」という言い方です。特に生涯の終わりの頃に書かれた牧会書簡と言われている、弟子たちに宛てられた第一テモテ、テトス、第二テモテの中に五回出てきます。次のような箇所です。

❶「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(第一テモテ1章15節)

❷「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。(同3章1節)

❸肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことばは真実です。そのまま受け入れるに値することばです。(同4章8~9節)

❹神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、

新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。……それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。(テトス3章5節~8節a) 

❺次のことばは、信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。……私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(第テモテ2章11節~13節)

 

◆(本論)パウロの人生を変えた主

①老年にさしかかり、またいつ処刑されるか分からない中で、後を託したいと思っていた二人に自分の生涯から、神が与えた福音こそ間違いがない、人生の土台である、その主の福音によって生きる人生は実に幸いであると告げるのです。

 一般的に、若い時とかものごとが順調に進んでいる時に「……ということばはまことであり」と言うことは難しくありません。例えば仕事、家庭、夢について、心からそれらは自分の人生にとって真実である、人生をかけるに値すると言うことができます。しかし、勢いが失われ、困難な状況になった時に同じように言えるでしょうか。多くの場合、老年になると、また力を失うとそう言えなくなるのです。まして、自由を奪われ、非難をうけ、投獄されるなどの厳しい状況に置かれると大抵の場合、そう言うことができないのです。

 何故、パウロは力が衰える老年になり、またいつ処刑されるか分からない中で、確信を持ってこれらの言葉を語ることができたのだろうか。絶えず主との交わりを持ち、主ご自身から平安と希望、内側からの力をいただいていたからですが、本日は特に一つのことをお話したいと思います。それは、硬い表現になりますが、彼が人生の真理を求め、そして確信したその真理を本当に大切にした人物であったからです。損得とか自分が良い状態にあるならそれで良いという人物ではなかったのです。永遠を思い、真理を求めながら人生を送ったのです。

 そんな真理を大切にするパウロの姿勢は、使徒の働きの連続説教の中でも見たように、彼の回心の時の様子にはっきり出ています。元々、自分の信ずる立場から生まれたばかりの教会を破壊し、クリスチャンたちを迫害する急先鋒でしたが、特別に顕現された復活の主とお会いし、主の福音こそがずっと求めていた神の義である、真理だと確信した時から、人々の驚きをものともせず、今度は福音を大胆に宣べ伝えています。そして、それまで持っていたユダヤ人として恵まれた立場をちりあくたのように思うと言っています。(ビリビ3章) このことは先週見た通りです。パウロは、周りの状況に流されて真理を曲げる人物ではありませんでした。あるいは、若いからとか反対にもう年老いているからと真理を軽視する人物ではありませんでした。いつでも、どういう状況になろうとも、人生の真理、神の義を必死に求め、そして確信したならば相手がだれであろうとはっきりと主張した人物でした。ですから、年老いても、いつ処刑されるか分からない中でも始めに見たように、これらのことはまことであり、信頼すべきだと言うことができたのです。現実が圧倒的力を持っているように見えてもすべてでないこと、逆に真理が現実にまさるものであることを知っていたのです。昔の船乗りたちが荒れ狂う大嵐のなかでもかすかに見える星を見て確信をもって船を進めたようにそのような思いを持って生きたのです。

②これまで見て来たような、パウロのような生きかたは、日本社会の中では確かに難しいと考えられています。日本社会の中にある、人生や生きることに対する多くの人々の考え、日本文化の特徴と相容れないからです。もちろん、そうでない人もいますが、この国に生きる多くの人は、真理よりも現実が大事と思っています。永遠、来世において裁きがある、それゆえ人生の真理を大切にしなければならないと言われても、現世の富、立場、評価が何よりも大事と考えるのです。また、過去にどんな生き方をしてきたか、何をしてきたかを気にする必要はない、現在の状況だけを考えれば良いとも思ってもいます。それに加えて、個人よりもその人が属している集団の考えが大切であると考えています。そんな現世主義、現在主義、集団主義的な文化、風土においては真理は重視されません。真理よりも大勢の人々と同じようにこの世の幸福、よい立場に立つことが大事とされています。そんな考えの中で人生の真理を大切にしたいと思うことは、まるでラツシュアワーの駅の中を大勢とは反対の方向を歩くようなものです。ぶつかり、跳ね飛ばされ、立ち止まらざるを得ないのです。

 問題は多数派か少数派かではありません。人生は多数決ではありません。人生の根本問題に対してそんな考えに答えがあるかどうか。何人であろうと、どんな社会的立場を持つ者であろうと、何歳であってもすべての人に共通してあるものに対して答えがあるかどうかです。いつも言いますが、すべての人が持っている不安、過去に犯して来た罪がゆるされていない不安、自分には生きる意味があるのだろうか、必要とされているのだろうかという孤独の不安、さらに死についての恐れ、死とは一体何なのか、死後はどうなっているのか、裁きはあるのだろうかという不安。これらは誰もが心の深くに持っており、何をしても、すばらしい精神医学的療法を受けたとしても取り除くことができない、人としての根本的不安と言われています。人生を終える時に自分の人生はこれで良かった、幸いだったと言えるのは、これらの根本的不安が取り除かれている人です。

◆(終わりに)少数派になることを恐れないで欲しい。

 

 なぜ私たちの国はこうなのでしょうか。国全体としても過去の歴史を無視するような道を選ぶのでしょうか。一部の政治家の問題ではありません。国民の多くの考えです。ずっと疑問でしたが、この年齢になってやっと、根底に将来に対する希望がないからと思うようになりました。死後に神が迎え入れてくださる、あるいは、終末に新天新地を創造するという希望を知らないからです。ですから自分さえ、今さえ良ければ、周りの人々、将来などどうでも良いと思っているのです。少数派になることを恐れないでパウロのように真理を大切にして、生涯の終わりに幸いだったと心から言える人生を送ろうではないでしょうか。そうすることが地の塩、世の光としての役割です。