大転換をもたらしたもの

❖聖書箇所 使徒の働き9章23節~30節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句   それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。            ピリピ人への手紙3章8節

 

◆(序)この箇所について

 間隔があきましたが、使徒の働きを見て行きます。本日の箇所は、初代教会を取り巻く状況に地殻変動とも言うべき事態が起こったことを記している場面です。これまで先頭に立って迫害していた人物が福音を信じ、キリスト者、教会の一員となり、最も有力な伝道者となったという大事件が起こったのです。

 それは、教会側にも一方の指導者側にも度肝が抜かれるようなことであり、双方とも容易に受け入れることができない出来事でした。人間的に言うなら、教会側にとっては最も警戒を要する人物が自分たちの一員になったということであり、ユダヤの指導者側にとっては自分たちの教えの将来の中心的役割を担うと期待していた人物が敵の側に流れたということであり、双方にとって衝撃的な出来事でした。

 特に指導者側にとっては、教会の働きを止めるために中心的に活動していた人物が主を信じ、反対に福音を堂々と伝え始めたわけですから、自分たちの主張が間違っていることを証明するようなものであり、決して容認できなかったのです。彼らは、パウロがこれ以上、人々に影響を与えないよう、最終行動、パウロを殺そうとしたのです。しかし、その計画はパウロ側に知られ警戒されましたが、彼らは執拗にパウロの命を狙い続け、昼も夜もダマスコの城壁のあらゆる門を見張ったのです。それはパウロ側にも伝わり、弟子たちはその窮迫した状況を突破するため、夜中、パウロを籠に乗せ、城壁づたいにつり降ろし、パウロがダマスコからエルサレムに帰る手助けをしたのです。

 

 こうして、パウロは漸くエルサレムに帰ることができ、早速クリスチャンの弟子たちの仲間に入ろうとしたのです。しかし、ダマスコで起きたことの詳細を知らないエルサレムのクリスチャンたちは、今まで先頭に立って自分たちを迫害していた人物が仲間だと言ってもとうてい信じることができず、恐れたのです。そのように多くの者が拒む中でパウロがダマスコで回心したということを詳しく聞いていたバルナバが彼の保証人となり、使徒たちのところに連れて行き、パウロが主と会ったときの様子やその後、すぐに福音を大胆に伝えるようになったことを説明し、正式に仲間と認められたのです。

◆(本論)パウロを突き動かしたもの 

①本日は、最近まで先頭に立ってクリスチャンを痛めつけ、投獄、殺害に関与していたエルサレムにおいて、元は激しく対立していた弟子たちと積極的な関わりを持ち、また自分がどういうことをしたかを知っているエルサレムの人々に対して、主の御名によって大胆に語るようになったパウロを突き動かしていたものについて共に考えたいと思います。 

 一番の理由は、長年求めていた人生の真理、神の義を本当に知ることができたという喜びです。その喜びについてパウロはこう言っています。ピリピ3章4節~9節(朗読) 彼は元々、人間的に言うならば選びの民、ユダヤ人として、出身、経歴の面において申し分がなく、又能力の面にも非常に優れていました。けれども、よく話すように、内心の平安がなかったのです。最も願っていた罪が赦され、神に受け入れられるという神の義の確信がなかったのです。しかし、それ以外に道はありませでしたから、幼い頃より教えられ、行って来た律法中心の道に進まざるを得なかったのです。しかし、そんなパウロに9章の始めにありますように、復活のイエス様が現れてくださったのです。ご自身が神であること、そして主のすべて、誕生、生き方、死、復活が人の罪の贖いの

ための神の御心、御技であることがわかったのです。最も大きな問題である罪、神への背き、本質的な罪と具体的な罪の両方を含みますが、それらの罪を贖うために、神の側が何も見返りを求めることもなしに一方的に犠牲を払ってくださった、それほどに神は人を、そして罪人の自分をも深く愛してくださっていることが分かったのです。

 この罪の贖いがなされている真理を知ることができたとき、パウロの心は震え、踊りました。ピリピ3章でもそうですが、ガラテヤ6章14節でも生きる姿勢が大きく変わったことを明らかにしています。(朗読) 主イエスの福音を知り、根本的に人生の意味が変わったのです。すべて、生きる目的も価値観も喜びも希望も変わってしまったのです。この愛に生きることがすべてになったのです。(ピリピ3章12節~14節) 

 

②人は180度変化することができるのだろうかと疑問に思う人もいるかも知れません。生きることに不安を感じていた者が確信を持って生きるようになる、絶望していた者が希望を持つようになる、自己評価が低かった者が自分のありのままを受け入れ、他の人と積極的に関わりを持つようになる、生まれ変わるということが単なる思いこみや一時的なことではなく、いつまでも続くこととして実際にあるだろうか。答えは、実際にあるのです。パウロのような人物は確かに特別に目立ちますが、すべての救われた者も同じように経験しているのです。よく話す水野源三さんもそうです。生きる希望を持てず、深い孤独を抱えていたのです。そんな水野さんが主イエスを知り、福音を知り、世の愛、平安とは全く違う愛、平安を知り、本当に生きる希望、勇気が与えられ、世の人々にその証しをしているのです。水野さんは言います。「キリストの御愛にふれたその時に キリストの御愛にふれたその時に 私の心は変わりました。憎しみも恨みも 霧のように消え去りました。キリストの御愛にふれたその時に キリストの御愛にふれたその時に 私の心は変わりました。悲しみも不安も 雲のように消え去りました。キリストの御愛にふれたその時に キリストの御愛にふれたその時に 私の心は変わりました。喜びと希望の朝の光がさして来ました。」自分で変わろうとしたのではありません、豊かな神の愛のゆえに本当に生まれ変わるのです。誰にも知られない心の奥底が神の愛に満たされ、生きる力が与えられるからです。パウロもこのことを知りましたから人々の思いを恐れず、立ち上がったのです。

 

◆(終わりに)伝えずにはおられない思い

   パウロを突き動かしたもう一つの理由は、この福音をまだ知らない人々に伝えなければならないという使命感でした。自分一人に留めておくことも出来ました。特にパウロの場合、既にユダヤの指導者、民衆との間に摩擦が起きていましたし、さらに混乱することが容易に想像できました。ですから救いの恵みを自分だけに留め、沈黙することもできたのです。しかし、ローマ1章16節~17節(朗読) で言うように福音の恵みを知った者として、摩擦が起こることが想像できても伝えずにはおられなかったのです。

 人間的に言うならばパウロほどの知的能力があり、実践力に溢れた者であるなら、伝道者にならず、ユダヤ人社会の中で何かをしようとしても、例えば政治家、学者になったとしても当初は

苦労をするにしても必ず大きな成果をあげることができたと思います。必ず社会的成功をおさめることができたでしょう。しかし、パウロはそうしなかったのです。後で第二コリント11章23節~31節で言うように、ありとあらゆる苦難をしながら、生涯、主に仕え、福音を宣べ伝えたのです。

 

 なぜなら、この方以外に救いがないことを深く知っていたからです。ですからどれだけ摩擦、衝突が予測できたとしても、実際に身の危険を受けているのですが、伝道をやめることはできなかったのです。それゆえ、この一事に励んだのです。パウロの例は確かに特別です。しかし、すべてのキリスト者の生き方、深い喜び、伝える責任を私たちにも示している生涯です。