主を知るために

■聖書:出エジプト記78-25節   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:「あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。」

                                 (出エジプト記7章17節

1.はじめに

 出エジプト記を読み進めています。教会に馴染みのない方でも、モーセという名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。海を割ってそこを歩いていくというあの有名なシーンを思い出す方も多いことでしょう。しかしその、私たちの想像を超えた数々の出来事のために、物語、おとぎ話のように読んでしまうことも一方であるのではないかと思います。自分とは関係のない、昔々のお話、神話のようにしてしまうこともあるのではないでしょうか。けれども、聖書全体を読むならばまさしくこの出エジプトにおけるエジプトからの解放、脱出こそ、私たちの救いのひな形になっているということに気づくのであります。そして、数々の不思議は、その私たちの救いのためになくてはならないものであるということを知るのです。

 その中でも本日は、その救いに至るまでに、神様がどのように物事を進められるのか、救われなければならない私たちは、何を知らなければならないかを、驚くような不思議を通して明らかにしている箇所であります。本日の箇所も印象的な箇所ですが、ここには二つの不思議なわざがなされています。杖が蛇となる不思議、ナイル川が血に変わる不思議です。このような箇所を読みますと、私たちはどうしてもその不思議がどのような物で、どのようになされたのか、どれだけのインパクトがあったのかなど、しるしの不思議さに心奪われてしまうものですが、本日は、なぜ神様はこれらの不思議をなされたのかを共に教えられたいと願っています。少しこれまでにお話ししたことを振り返りつつ、本日の箇所を読んで参りましょう。    

2. 前回の振り返り 「主とはいったい何者か…私は主を知らない」という罪

 アブラハムから始まるイスラエルは神の民でありましたが、当時圧倒的な軍事力や世界にも類を見ない文明を誇っていたエジプトの奴隷とされていました。そんなエジプトの奴隷として苦役を強いられていたのです。所有物として扱われ、生かすも殺すもエジプト次第となっていた。そんなイスラエルを解放するために、神様に遣わされた人物がモーセでした。モーセは神様に遣わされ、エジプト王パロの前に立ち、神様が願っておられることを伝えます。しかそれを最初に直訴したとき、エジプトの王パロは言うのでした。5:2主とはいったい何者か。わたしがその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」これは一国の王としては当然の反応かもしれません。エジプトにとってイスラエル人は奴隷であり労働力です。生かすも殺すも支配国エジプト次第、エジプト国王パロ次第でした。主というのは主人、君主を表します。自分の命を握り、自分の生きる道を定める存在と言えるでしょう。国のトップである彼は、それは自分以外にあり得ないと考えるのです。その上、エジプト国王は神としても崇められていた。まさに誰が意見することもできない存在であり、自らもその権威・威光を振りかざしていたのです。言うなれば、自らが自らの主になっている者の言葉が、「主とはいったい何者か。…私は主を知らない。」という言葉に凝縮されているのでした。私には関係ない、誰からの指図も受けない、私は私の好きなように生きる。私が主である。そんな思いが、この発言の背後にはあったのでしょう。まことの神を知らない者の生き方は皆このようであります。

 しかし神様のことを知って信じているイスラエルの民でも実はそのようにまことの主を見失っているのでした。目の前にあるのは、奴隷として捕らえられ苦しみを強いられている状況です。明日も明後日も変わらずに辛いままであろうという深い霧が立ち込め、その苦しみ痛みが打破されるなんてことはとても信じられない。宗教的には神様を信じ礼拝してはいるけれど、一度生活の場に戻れば、現実の問題を解決してくれるなんて考えられない。現実に影響を及ぼす力ある神様としては信じることができないのです。これも結局は「主を知らない」。彼らにとっての力ある主は、目に見えるエジプト、パロになってしまっていたと言えるでしょう。

 

 そのように考えますと、すでに以前お話ししたことですけれども、今日のすでに救われている私たちもまた、「主とはいったい何者か。私は主を知らない」というつぶやきを心に秘め、私には関係ない、少なくともこの問題この領域ではゆだねることをせず、自分でやるしかないとなっていることが、知らず知らずのうちにでもあるのではないかと思うのです。直接このように口にすることはなくても、神様に背を向けて生きている者、神様に信頼せず自分の力で生きている者は皆そうだからです。ましてや主を知らずに生きている多くの人々は、自分の命をどのように扱っても構わない、自分の主は自分だと思っていることでしょう。しかし聖書は、それこそが罪であると教えるのです。自分の人生において何に従って生きていくか、何に基準を置いて生きていくのかということはあまり考えることがないかもしれません。真理ということよりも、周りとの調和を考え、いかにうまく立ち振る舞いながら生きていくかということに重きが置かれている世の中です。また、自分自身が選ぶこと、自分の人生は自分の物だという考え、これは疑問を持つまでもなく当然だと思うのであります。しかしこの世界を創造された、私たちのいのちの主なる神様は、多くの不思議をもって、そうではない、わたしが、わたしだけがあなたの主なのだと示されるのでした。

 

 そんなパロに向けて語るように、神様はモーセに言葉だけでなく「不思議」を与えられたのでした。とはいえ、一度は完全に退けられた相手に再び語るというのは大変な勇気が必要だったことでしょう。不安も当然生まれてくる。しかも前回はイスラエル人を解放させるどころか、それがきっかけでさらなる重労働が課せられたのですから、慎重にもなりそうなものです。しかし神様は、じゃあちょっと方法を変えて、ご機嫌を伺ったりしながら、なんて言いません。まさに時がよくて悪くても、まっすぐに語り知らせるようにと言われるのです。真っ向から、「わたしが主であることを知らせよ」と言われるのでした。本日の箇所の少し前、74節からお読みします。パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真ん中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」「私の主は私自身だ、私は私のやりたいように生きる」という人々に対して、神様は明らかに言われます。そうではない、わたしが主であると。様々な不思議は、エジプト王を始めエジプト人たち、そしていつしか「主とはいったい何者か」とつぶやく私たちに、その事実・真理を知らせるためになされたものなのです。その初めのしるしは、杖が蛇に変わるというものでした。

 

3. しるしを与える意味 「わたしが主である」という事実を伝えるために

 8-12節をご覧ください。この、杖が蛇に変わるという不思議は、他でもないモーセを立ち上がらせた不思議でもありました。モーセと聞くと何か神様に最初から最後まで従い続け、パロの前にも勇敢に立ち続けた人物、というように映ることがありますが、これまで読んできてそうではないのだということはもう十分見てきたとおりであります。大胆で勇気のある信仰深い人、であるどころか、彼は臆病で不信仰、神様が行けというのをいろいろな言い訳をつけて何度も拒んできました。そんな彼を立ち上がらせたのは、諦めずに語り続けた神様の熱心と、神様がどのようなお方であるのかを教える不思議だったのです。しかしこの不思議、目に見えるところではエジプトの呪法師たちも同じことができました。悪霊の力に頼ったのでしょうか。呪法師たちというのは、知恵のあるものとも呼ばれ、気象や自然現象をいろいろな知恵を持って支配していたとされています。その姿は人の力を超える自然を支配するものとして映り、人々の尊敬と怖れを集めていました。さらに蛇というのは、エジプトでは神聖な動物だったそうです。エジプトの王ファラオの頭飾りにはコブラの像が飾られていましたから、ある種の守り神のように崇められていたのでしょう。けれども神様はこの不思議を通して、そんな呪法師たちの蛇を飲み込んだとありますから、彼らよりも大きな力を伴っていたということがわかるのです。人々からの尊敬を集める呪法師たちが操る、エジプトの守り神である蛇が飲み込まれてしまう。目に見えるところでは同じような現象、力ある事柄のようであっても、神の前にはそれは偽物にすぎないのです。本物の力を見せつける。これが、神が主であることを表し、エジプト人たちの心の拠り所、彼らのかたくなさを打ちこわす最初のしるしでした。

 ところで、目で見なければ信じないというのはいつの時代でも同じなのでしょう。人は何か信じるに足るしるしを求めるものです。パロもそうでした。「お前たちの不思議を行え」(9節)というのは、まさにそれを求めているわけです。いや本当の意味で求めているのではなく、挑戦的な言い方です。神の使者であるという証拠を出せるもんなら出してみろ。けれども、求めはするけれども簡単に信じることができないのも「主とはいったい何者か」とつぶやく人間の頑なさです。パロがそうでした。13節それでもパロの心はかたくなになり、彼の言うことを聞き入れなかった。主が仰せられたとおりである。かたくなとは、頑固や強情とも訳される言葉です。また新約聖書では「心が閉ざされている」とも訳されます。神様の力が明らかにされたにもかかわらず、そのメッセージに耳を傾けず、心にも留めないというのはまさに強情に他ならないのでした。見せかけだけの、悪霊の力、あるいは人間の力に頼り続けているのです。旧新約聖書、一貫して教えているのは、この「かたくなさ」というのは神様が嫌われるものだということです。しかしながら人間は本当にこのかたくなさという罪の性質を強く持っています。聖書のどこを開いてもそれが描かれている。

 この出エジプト記を読み進めるのに当たって、何度も人間のかたくなさと、その中で働かれる神様のわざという図式を見ることになります。これまで見てきたところでも、かつてのモーセのかたくなさがありました。彼がその重い腰をあげるまでには多くの言葉が必要でした。彼は自分の弱さ、足りなさばかりを見ていて神様を見ようとはしなかったからです。ようやくモーセが動いたと思ったら、今度はパロのかたくなさが大きな壁となって立ちはだかります。彼は自分の持っている権力や力、自分自身を誇っていました。当たり前のように、自分が主であると信じきっていたのです。さらにはようやくエジプトからの脱出を果たしたイスラエルの民が、いわば大きな救いを経験したにもかかわらず、少し自分に都合が悪いこと、よくないことが起こるとすぐにつぶやくというかたくなさを私たちは見ることになります。時代と場所を問わず、私たちは皆このかたくなな心に支配されているのでした。けれども、その都度神様は人のかたくなさを打ち砕かれるのでした。本日の箇所でも同じです。パロのかたくなさを、エジプトのかたくなさを、神様は砕こうと、「私が主であることを知らせようと」不思議なわざをなされるのでした。しるしの不思議さにばかり目をとらわれるのではなく、それがいったいどのようなメッセージなのかをしっかり受け止めていきたいと思います。

 

 さて、杖が蛇に変わるという不思議でも、そのかたくなさで神を信じなかったパロ。そんな彼に対して、再び神様はモーセとアロンを遣わします。7:14-19、朝パロが水辺に出てきたときにと言われています。これはナイルの神を礼拝するために水辺に来たと考えられています。エジプトの人々にとってはいのちを与える川であり、同時に一度氾濫すれば人間の力が敵わない存在。そのようなナイル川を神格化していたのでした。その彼らのいのちの源であり神とされていたナイル川に対して、まことの神の力が及ぶのでした。自然現象の中でもナイルの増水などによって赤土が流れ込み、川が赤くなる現象があったそうです。しかし偶然ではありません。人の計算でそろそろ時期的に言って赤くなりそうだからといって杖で川面を打ったわけではない。神様の時の中で、事前にこのようになると言われ、実際にそのようになるのでした。20-25節。またもや呪法師たちは同じことをやってみせます。しかし思うのは、なぜ彼らは血の川を元どおりにはしなかったのかということです。結局この神様の力をひっくり返すことはできないのでした。猿まねはできるけれども、それは本物ではない。蛇が飲み込まれたことと一緒です。さらに蛇に変わるという最初の不思議は王宮の一室、限られた人々の前でなされたことでしたが、今度はエジプト全土を襲う災害となりました。ここから全部で10の災害があり、そしてその先に、いよいよエジプトへの脱出が果たされるのでした。本日のナイル川が血に変わるところから始まる10の災害は全て一つの目的につながっているのです。それこそ、先ほどからお話ししています「主を知ること」なのでした。

 

4. まことの神が主である人生

 どうしてここまでして「主であることを知らせよう」としているのでしょうか。それは無理矢理に押し付け、ご自身が君主であることをアピールする、言ってしまえば信者を増やすため、ではありません。そうではなくて、この「主を知ること」にこそ、本当の救いの道があるからに他ならないのです。裏返せば、救いの道に導くために、生きる方向を変えてまことの主を知り信じまことの主に従って生きていく道に気づかせるために、「わたしは主である」と語り続け、そして不思議を持って示されるのです。すでにお話ししましたが、主というのは、君主や主人の意味で、しもべのいのちを握っている存在です。そのように言うと何か不自由な感じがして、自分以外の人が自分の人生に口を出さないでほしいと思われるかもしれません。けれども、聖書が教える主人の姿は、ただ主人の勝手にその僕の首根っこを掴んで従わせるのではありません。よい主人とはしもべのことを考え、しもべを本当に生かす存在であるということを忘れないでおきたいと思います。神様がなんども不思議をもって「わたしが主であることを知るように」とされたのは、それはご自身に何かの利益があるからではなくて、私たちの唯一の救いの道がそこにあるから、すなわちどこまでも私たちのためなのであります。まことの主人も知らずに、誰に頼っていいかもわからずに果てていくのを望まずに、本当に頼るべき存在を教えてくださっている。

 主人としもべである神様と私たち。この関係を表す例えが聖書の中にはあります。羊飼いと羊の例えです。羊にとっての主、主人は羊飼いです。羊は飛び回り、あちらこちらに行きます。お腹が空けば、美味しそうな草が生えている方へと飛んでいく。ちょっと怖いことがあればやみくもにそれを避けて逃げ回る。無防備であまり賢くない羊です。そんな羊を守り、導いてくれるのは羊自身ではありません。その主である羊飼いです。自分勝手に飛び出ていった羊を何とかしてご自身のもとに取り戻そうとする羊飼いの熱心がありました。神様と私たちの関係は、まさしくそのようなものなのです。放っておいても良いのです。たくさんの羊がいるならば一匹くらいと考えるのが世の常識です。けれども、自分ではどうしようもできない弱く愚かな羊を、愛に溢れた眼差しで見守り、導き、助けてくださる神様。「まことの主を知る」ということは、このお方を知り、同時に自分が僕であり、生かされている存在、生かされなければ自力ではどうにもやっていけない弱い存在であることを知るということであります。自分の力ではどうしようもないことを認め、私よりも私のことをよく知っていてくださり、私よりも私のことをよく導いてくださるお方に従っていくこと、委ねていくこと。まさしく悔い改めが生まれます。それこそが「主を知ること」だと思うのです。

 

 新約聖書、イエス様がご自身のことをこのように言う箇所があります。ヨハネの福音書10:11-14わたしは、よい牧者です。よい牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また羊の所有者でない雇い人は、オオカミが来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げていきます。それで、オオカミは羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしはよい牧者です。わたしはわたしのものをよく知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」主のように見える存在はたくさんあります。私を導き、私を喜ばせ、私を救ってくれるような存在です。それは財産だったり、学歴だったり、地位や名誉だったりするでしょう。自分の経験にも私たちは多く頼ることがあります。けれども、それらは本当の意味で私たちを守ってくれるものではありません。「主を知らない」のです。それらは本当の安らぎを与えてくれるものではない。イエス様はイエス様の元に集まる群衆たちを見るときに、「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼をかわいそうに思われ」ました(マタイ9:36)。自分で自分を握りしめていた時には、ちょっとの波風にオロオロし、あっちに逃げてこっちに逃げてとそれだけで疲れてしまうことだってあります。守ってくれると思って信頼していたものに裏切られることだって多くある。心から安心できる場所がないのです。本当の主を知らないすべての人がそうなのです。

 しかしまことの主を知る時、その時に、本当の平安があります。まことの主の元に逃げ込む時、本日の箇所で表されたように力ある方の懐に飛び込んで行く時、そこには本当の安心がある。まさに救いとは、この私のまことの主であり、本当の平安、安心を与えてくださるお方を知ることなのであります。

 

5. まとめ

 説教後の賛美に、新聖歌15番、「われらの御神は」という曲を選びました。私たちの神様、私たちの主はどのようなお方なのでしょうか。どれ程力強くこの世界を統べ納めておられのかを覚えつつ、そんなにも力あるお方が、こんなにも小さくかたくなな者の主となってくださるお方であることを思い、賛美したいと思います。私たちの人生を守り方向づける「主」のように見えるものは多くありますけれども、「われらの神こそまことの神なれ」とともに賛美し、証ししていく日々を過ごしていきたいと願います。

 神様はご自身があなたの主であることを知ってほしいと求めておられます。その先にこそ苦しみからの救いがあるからです。すべてはそのための「主を知ること」なのである。本当の平安を与えるために、神様は私たちの主となってくださる。その本当に素晴らしい恵みを覚えつつ、私たちの主をほめたたえてまいりましょう。