もうひとりの助け主

❖聖書個所 使徒の働き2章14節~21節       ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。   使徒の働き2章17節

 

◆(序)聖霊についての一般論

①聖霊について考えるうえにおいて、最も大切なのは、聖霊は一部の異端が言うように神の力や息ではなく、父なる神、子なるキリストと同じ本質を持つ神であることです。(三位一体の神の第三位格) 聖霊は、父なる神、子なるキリストと同じ本質を持ち、同じ目的、人を救いに導き、神の国に生きる者とし、御国の希望を持つ者となるために働く神です。それゆえ、聖霊は、父なる神、子なるキリストと深い交わりを持つ一体の神なのです。

②このように聖霊は父なる神、御子なるキリストと同じ本質を持つ神でありますが、位格ごとにその役割が違います。第三位格である聖霊の特徴は、時に大勢の者に同時に働くということがありますが、原則として一人ひとりに働く、深く慈しみ、導く方であるということです。それはあたかもすべてを知っているガイドのように、それぞれの信仰生活を支え、導くのです。

 具体的にどのように働くのか。まず生きるうえにおいて何が大切であるのか、私たちの生きる本当の目的はどこにあるのかに気づかせ、問い、考えさせ、まことの神に従う人生に導きます。(ヨハネ16章7節~13節) そして、そのような人生を歩き出す人の霊と心を照らし、神のみことばの意味を悟らせ、深く慰め、励まし、力づけ、神の民として歩むように支えてくれるのです。(Ⅱコリント1章3節~5節) 

 

 本日の箇所は、その聖霊が主の約束通りに神の民たちに与えられた場面です。特別な場面ですが、聖霊の目的や聖霊に満たされる状態をよく表していると思いますから、今年のペンテコステ礼拝においてはこの箇所から教えられたいと願います。

◆(本論)聖霊とクリスチャン、教会

①まず、使徒の働きの著者であるルカは、約束されていた聖霊がくだられた場面について、克明に記します。復活し、四十日過ごされた主が天に昇られた7日ほど後、120名程の者が一つに集まっていたに、突然、天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、家全体に響き渡ったと記します。続いて、炎のような分かれた舌のようなものが現れ、ひとりびとりの上にとどまり、みなが聖霊に満たされ、なんと御霊が話させてくださるとおりに、様々な国のことばで話し出したというのです。(2節~4節) 大きな音と不思議な現象常識では考えられない弟子たちの姿です。

   その光景は、エルサレムに各地から来て住んでいた者たちの目を奪いました。とても信じられないことであったからです。驚いた彼らの言葉が7節から11節に記されています。(朗読) 9節、10節に出ている地名は、エルサレムを中心として今のイラン、イラク、サウジアラビヤ、エジプト、トルコ、遠くイタリヤを示す地名です。これらさまざまな地方から来ていた人々にとって容易に信じられない現象でした。十字架刑につけられ、死んだあのイエスの弟子たち、ガリラヤから者たちが、各国から来ている自分たちのことばで神の大きなみわざ、福音、神の国が実現したとを語るのを聞いたからです。 

 しかし、人々が驚いた光景こそ、約束の聖霊が降臨し、信ずる者たちに与えられたことの確かな印でした。2節、3節の天からの響き、炎のような分かれた舌が現れてひとりびとりの上にとどまったことは、聖霊が与えられたことを示す表象であり、そしてみなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出したことは聖霊の力を示す特別の出来事でした。通常はありえない現象によって、主は、聖霊降臨の事実を示したのです。

 この場面を見る時に、信仰者として真に注目すべきは、それらの現象ではなく、聖霊が与えられることによって実現したことです。弟子たちが各国の、別々のことばで共に神の大きなみわざを語ったことです。主を信ずる者たちが1章8節のとおりに世界の各地で主の証人となり、そして、人が力を誇り、バベルの塔を築いたとき、神によってことばが互いに通じないようにされ、心も通じないようになっていた状態(創世記11章)から、聖霊が与えられ、聖霊がうえにのぞんだ時に、ことばは違いますが、共に神の大きなみわざ、福音をほめたたえるようになったことです。

   これこそ、聖霊の目的であり、聖霊の力です。私たちもそういう経験をします。これまで一度も会ったことがない人でも、それが全く文化が違う外国の人であってもクリスチャンということで

以前からの親しい知り合いのように、心から信頼し、話すことができるのです。この場面においても聖霊が与えられたことは、主を信じる者たちを大きく変えたのです。

②しかし、主の約束を知らない者たちにとってはこれらはただの異様な光景でした。そういう人たちに対して、ペテロは他の使徒たちとともに立って、人々が見た光景について声を張り上げ、説明しています。15節以下です。まず、酒に酔っているのではないことを言い、これは、ユダヤの者たち、エルサレムに住んでいる者なら誰もが知っている旧約聖書に収められている預言者ヨエルが国が乱れ、神の民としての思いが失われていた中で聖霊が与えられる約束について語ったことであることを明言します。

 そしてヨエルの預言を述べています。息子や娘とは愛されている民のこと、神にあって生きようとしている者たちです。その者たちが、神のことばを恐れないで語るようになり、青年、迷い、戦いながら次の世代を担う者たちは、幻、神にある希望を見て、その希望の中で生きるようになり、老人、外なる人が衰え、人生の喜びを失いがちの人は夢、主がともにいてくださるという確信と天の御国が約束されていることによる平安に満たされると言うのです。続いて、18節でもう一度、すべての人に聖霊が与えられ、そして聖霊に満たされた者たちは、神のことばをまっすぐに語ると言います。なお、19節から21節は、聖霊降臨と関係がないように思えますが、聖霊の時代が終わる終末のことを言っているのではないかと考えられています。

 ともかくペテロは、弟子たちの様子を見て驚いて酔っているのではないかと思った人々に対して、これらは旧約時代、ヨエルが語っていた神による恵みのみわざである、罪の贖いが成就し、聖霊が与えられ、神の国が実現したという新しい時代が到来した姿であると伝えているのです。

 ◆(終わりに)聖霊を実感して信仰生活を

 聖霊というと特別な人に与えられる特別のものと言われることがあります。しかし聖霊は、本日のところから分かりますように、主を信ずるすべての人に与えられるものです。

 さらにこの個所は聖霊の真の目的を明らかにしています。各地で主の証人となることであり、又さまざまな違いを超えて神の恵みをともに知り、生きることであり、そして一人ひとりが本当に変えられることです。主ご自身が語っておられるように「…わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになること。」(ヨハネ7章38節)であり、また「御霊はわたしの栄光を現します。」(ヨハネ16章14節)と言われているように、信ずる者たちが深く神の愛で満たされ、イエスのすばらしさを現すようになるためです。

 

 では、私たちはその聖霊をどうしたら実感できるのでしょうか。こういう経験ないでしょうか。重い問題があって沈んでいる時、ただ一人取り残されているような深い孤独を感じる時、静かにみことばを読み、祈ると、あるいは集会に出席した後、心に光が灯り、暖かくなることです。また自分にとってどんなに不利になると分かっていても主にある道を行きたいという思いになることです。それは「いつまでもいつも」おられる聖霊の励まし、導きなのです。聖霊は決して特別の人だけ、特別の行いをした人だけに与えられるのではありません。けれども多くの人は自分のような者はと思うのです。反対なのです。私たちがそのように思う者弱い者だからこそ、聖霊が与えられているのです。使徒パウロが有名なⅡコリント12章9節、10節に言っているのはこういうことなのです。(朗読)聖霊は、みことばを通して私たちに働きます。どんな時でも主のみことばを求めて、信仰生活を送りましょう。聖霊はそうして歩む時、必ず力を与えてくださるのです。