隠された理由

❖聖書箇所  創世記22章1節~14節              ❖説教者:川口 昌英 牧師

❖中心聖句  神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとして

イサクをわたしにささげなさい。」         創世記22章2節

 

◆(序)途方もない出来事

 この箇所は、誰しも始めて読んだ時にはショックを受けたところではないかと思います。アブラハムを選び、多くの国民の父となる祝福の約束を与えておられた神(創世記12章1節~3節)がこともあろうに、奇跡的に与えられ(17章19節)、神の祝福を受け継ぐにふさわしい存在に成長していた息子イサクを、全焼のいけにえとしてささげるように命じているからです。

 私も、信じていない時にこのところを読んだ時には、聖書の神はこれほどのことを人に求めるのか、世のさまざまな宗教でも子をささげよということはないのに、真理を伝えるという聖書は、何と理不尽な、人間感情からかけ離れたことを求めるのだろう、このような神にはとうてい従うことができないと思ったことでした。

 

 しかし、それから大分経ちまして、今はその時とは違う思いを持って受けとめるようになっています。神の厳しさは今も感じますが、同時にその厳しさの中に、特別な理由、意味があると感じるようになりました。この箇所は、神と私たちの関係について、人はつい見逃してしまうが、決して忘れてはならない真理が語られているところとして受けとめるようになったのです。

◆(本論)厳しさに込められた慈しみ

①二つの方向からこの箇所を見て参ります。一つは、アブラハムを選び、後世に続く祝福の約束を与えていた神は、何故、その約束を受け継ぐ大切な存在である息子のイサクを全焼のいけにえとしてささげるように命じたかということです。他の一つは、アブラハムが苦しみながらも、イサクをささげたことにより、アブラハムとイサクの生涯はどのようになったかということです。これら二つの方向からこのところを共に考えたいと思います。

 

②まず始めに、アブラハムを特別に選び、大きな使命を与えた神が、何故、アブラハムに従うことが最も困難なことを命じられたのか。というのは、この時、イサクの年齢は定かでありませんが、この直後、記されている母サラの死(23章1節)が、イサクが生まれてから約37年経ってからであることから想像すると、22章の出来事は、イサクは幼子というよりもしっかりとした年齢になっていた時と思われ、客観的にイサクはアブラハムに与えられている多くの国民の父となるという祝福を受け継ぐにふさわしい人物になっていたと思われるからです。むしろ、父アブラハムが老いて、段々と力が衰えているのに対し、これからは息子イサクの活躍していくと思われた状況だったのです。

 もう一つ忘れてはならないのは、ささげよと言われたイサクは、アブラハムに与えられた祝福を受け継ぐ唯一の存在であったことです。そのイサクを全焼のいけにえとしてささげよということは、神ご自身がみずからその約束を破棄することになるのです。

 このように、この時、アブラハムに対して神が命じたことは、極めて不当であり、また神ご自身にとってもご自分の約束を否定することであるのです。けれども、すべてを造り、治めておられる父なる神は、この到底従えないと思われることをアブラハムに実際に命じたのです。

 

③どうしてだろうか。それを考える時に参考になるのが、22章1節「これらの出来事の後」ということばです。21章に記されている、アブラハムについにサラによってイサクが生まれ、そのため女奴隷であるハガルとの間に生まれていたイシュマエルが永久に追われ、イサクの立場が安定し、

そしてそのイサクが祝福を受け継ぐべき子として順調に育ったことを指していると思われます。後継者が定まり、安定し、大きな心配がなくなったのです。これまでのように自分の後を受け継ぐ存在のために神に切により頼まなくても、すべては順調に行くと思われる状況になっていたのです。 そんなアブラハムに、神は、厳しく迫り、あなたは本当にわたしを愛するかと問いかけたのです。繰り返すように、乱暴な命令であり、神ご自身が約束を破ることですが、神は安心して切実さを失いがちになっていたアブラハムに、気がつかないうちに、心の内側に抱くようになったものに気づかせ、分からせるためにこのような厳しい迫りをしたのです。

 主は、今も信ずる者たちに同じような厳しい問いかけをすることがあります。自分にとって何としても守りたい大切な家族、仕事、自分のプライドについて、アブラハムに迫ったように、あなたはわたしを愛するかと問いかけることがあります。主イエスは、譬えを通して、今も信じる者に一つの厳しい真理(ルカ14章26節)を示しておられます。

 

④この神の厳しさには理由があるのです。けれどもそれは、従う者は人間的な幸福をいっさい捨てなければならないという厳しさではありません。実は、その厳しさの中に深い慈しみの思いがあるのです。第二のポイントである、アブラハムが苦しさを味わいながら、この厳しい仰せに従った結果、アブラハム親子はどのような生涯を送るようになったのか、ということから神がこのように言った理由が分かるのです。

 反対の姿を考えると分かりやすいと思います。アブラハムがあまりにも不当、乱暴な命令であり、とうてい従うことはできないと言ったなら、私たちについて言うならば、家族、仕事よりも神を第一とすることの大切さを分かっていながら、それを軽視し、従わないならどうなって行くかと言うことです。表面的には変わりがないように見えるが、大切にしたいと思っている家庭、仕事そのものの中身が崩れていくのです。自分の生きる目的、基軸、中心が失われるからです。

 人はどうしてもそうなる傾向があります。自分にとって大事なものができると思い入れがうまれ、生きるすべてとなり、それと自分の関係を保つことが現実生活のすべてとなり、やがて冷静さを見失い、大切と思っているものとの関係を失うのです。アブラハムについて言うならば、このときの激しい苦しみをともなった厳しい経験の中でも、従う姿勢を明確にしたことにより、神が与えた祝福を人間的なものにすることなく、本来の意味として保ち続けることができたのです。そして、その結果、アブラハムのうちからも又当然イサクのうちからも多くの国民の父となるという重要な使命、すばらしい祝福を受けているという使命を失うことがなかったのです。又中心にある神を礼拝する姿勢も崩れなかったのです。人生の基軸、家庭の基準が崩れなかったのです。

 

◆(終わりに)神は、真の祝福を与えようとされている

 誰に対しても神に対する恐怖の思いを抱かせるこの箇所は、すべてのことが順調に進み、大切なものを見失いがちであったアブラハムに真に大切なものに気づかせ、そのすばらしさの中に生きるように促すためであったのです。又、主に心から従うなら、神に従う者のために、必要なものを主がすでに用意しておられることを示しています。それは一人子さえも惜しまないで与えてくださる愛を前もって示しているものです。(22章13節~14節) 厳しさの中にこそ、測り知れない豊かな恵みが隠されていたのです。

 

   この出来事によって、主はアブラハムの中心、そして私たちの中心を問うているのです。誤解してはなりません。神に忠実に従うことは、家族を愛さなくなることではありません。仕事を軽んじることでもありません。むしろ、家族を真に愛する者となり、責任を持つ者となるのです。私たちの人生の基軸をはっきりさせましょう。そしてその姿勢をもって置かれている場で歩みましょう。アブラハムはこの仰せを無視しなかったからこそ、真の祝福を受け継ぐことができたのです。