希望への架け橋

❖聖書箇所 創世記1章26節~27節         ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」 ローマ3章10節~12節

 

❖説教の構成

◆(本論)義人はいない

①本日の個所において、人は神のかたちとして創造されたと明記します。又2章7節では「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」と記します。神のことばである聖書は、人は、神の息を吹き込まれて、神のかたちとして造られたとはっきり言います。元々は一つの仮説にすぎないのですが、真理として教えられている、偶然に生命が発生し、原始的なものから段々と高等生物に進化し、ついに人間になった進化論の考えとは違います。

 

 この神のかたちとは、神によって命が与えられ、生かされ、生きる目的が与えられ、愛されている、又神を基準にして、神と親しい交わりのうちに生きる存在という意味です。本来すばらしい存在であり、神の与えたもう喜びと希望に満ちていて、創造主である神との間には少しも暗いものがなかったのです。

②ところが、現実はそうではありません。人は明確な生きる目的を持たず、欲望にひきずられ、他人を愛することもなく、死の恐怖に支配されています。家庭も社会も国家も世界もそれぞれの考えによって対立し、分裂しています。元々はすばらしい存在であったのに、なぜ現実はこうなっているのでしょうか。

 600万人にも及ぶユダヤ人や障害者などを虐殺したヒットラー率いるナチスの時代、その激流の中、聖書のことばに立った一人の神学者が、本来の人のかたちが失われた背景について聖書を説明しています。

 「創造の状態においては、何の問題もなく、心から喜んで神と神の創造の秩序と一致して生活していた。神は、この創造の世界の中心であった。すべては、神に向けて、また神から秩序づけられており、互いに良く調和していた。楽園の中心にある知識の木と命の木は、神が現実の中心に存在することをあらわすものであった。

 しかし、創世記第三章が伝えているように、次のことが起こる。人間自身が中心となり、その中心に基づいて世界を見たいという欲望が人間に襲いかかる。…こうして、いまや人間は、自分自身を中心にすえ、善と悪を区別し、満足をもたらすものと阻害するものを決めようとする。それによって、現実における人間の位置は根本から一変してしまった。いまや、自分を中心に位置づけ、現実全体を自分から意味付け、自分に向けて立てられたものとして認識するようになった。…蛇(サタン)が告げていたのは神のようになる、あなたは神のようになり、善悪を知るもの、善悪を決めるものとなろうということであった。こうしていまや、人間は現実の中心に立つようになり、、その結果として、生きる現実は彼らにとってばらばらになり、それらのただ中にあって自己疎外に陥る。」少し難しい言い方ですが、人間の現実とその罪の根本を的確に明らかにしています。

 サタンの巧みな誘惑によって、人は神に背き、生き方が一変したのです。神との関係が断絶し、神を恐れて身を隠す者、自分中心の生き方をする者となり、人同士の関係も壊れ、また与えられた環境を欲望によって貪るようになったのです。本来の生きる喜びや目的を失い、虚しさや孤独、不安を抱き、死に支配されるようになったのです。また罪の性質を持つようになった結果、あらゆる罪の実を結ぶようになったのです。義人はいない、一人もいないという状態になったのです。すべての人が生まれながらこの罪の性質を持ち、罪の行い、実を結ぶようになったのです。これが人の社会が今のようになっている理由です。

③けれども、創造主である神は、罪と死に支配されるようになった人を見捨てませんでした。最初に神に背いた時に、動物の血を流して裸を覆ったように、罪と死に支配されるようになった人の罪を贖う、壮大な救いのわざを実行したのです。

 はじめに信仰の人、アブラハムを選び、その子孫であるイスラエル民族をご自分の神の民とし、律法を与え、全世界の宝の民、祭司の王国とし、その民の歴史の中で救いの御技をされたのです。そして、定めたもう時が満ちたときに、ご自分の愛する御子を救い主として送られ、最後、その御子が人の罪の身代わりとして十字架の死を受け、罪の刑罰を完全に負い、支払ってくださったのです。そして、三日目に死より甦り、罪と死に対する勝利を実現し、十字架が自分のためであったと受け入れる者に新しい人生、罪の赦しと神のこどもとされる恵みを成就し、天国への道を開いてくださったのです。

 

◆(終わりに)あなたも岩の上の人生を

   すでに天に召された方ですが、ある婦人は、こどもをなくし、またご主人をなくし、生きる力を失い、どこに安らぎがあるかといろいろなお寺に行き、お参りをし、法話を聞き続けたそうです。そのような苦しみに対して、仏教の深い知恵による真摯な導きがなされましたが、その人はどうしても心の平安をもてず、古くからの仏教の家庭で育ちましたから、それまで考えてもいませんでしたが、思い切って教会の集会に出たのです。

 そこにおいて、この人は救い主イエス・キリストを知ったのです。キリストの十字架の意味を知ったのです。それはよく言われるように、井戸に落ちた人に対して、そこに落ちた理由を説明し、それが人生だからそれを受け止めるように諭すようなものではない、その井戸の底までご自分も降りてきて、そして倒れていた者を背負い、脱出させてくださる、希望を与えてくださった方を知ったのです。神の御子であるイエス・キリストが自分の悲しみ、苦しみを受け止めてくださり、虚しさや恐れ、不安の根源である罪の身代わりとして十字架の死を受けてくださり、三日目に甦られて罪と死に対する勝利を与え、新しいいのちを与えてくださったことを知ったのです。

 それが分かったときに、この婦人はすっかり変わりました。一人という状況は変わりませんでしたが、神の愛を知り、虚しさが消え、神にある平安と希望が与えられました。数年して重い病気になり、死を迎えたのですが、その平安と希望は最後まで変わらず、天の御国に凱旋したのです。

 人生なんて、こんなものだ、どの宗教も変わりがない、ただ気持ちを麻痺させて、苦しみから逃避するだけだと思っている方いませんか。

 

 幼い時からお母さんの精神的病気のことで苦労し、自分自身もいつそうなるかも知れないという恐れを持ちながら生きていた青年がイエス様の福音を知り、岩の上のような揺るぎない人生の平安を知り、やがて牧師になった方が、その生涯を振り返り、「生きるに値し、死ぬに値する信仰」と言いました。本当にそう思います。このイエス様を知ることは私たちの人生を根本から変えるのです。諦めないで、この方を知って欲しいのです。この方の十字架の死は、あなたのためであったことを知って欲しいのです。この十字架こそ、真の希望と平安がある新しい人生への架け橋だと知って欲しいのです。