かけがえのない存在

■聖書:マタイの福音書1811-14節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4

 

1. はじめに

 本日与えられている箇所から、神様が私たちをどのように見ておられるのかということを共に教えられたいと願っています。本日のことばはイエス様が弟子たちに対して語られたことばです。どのような場面だったかと言いますと、18章の冒頭1節、そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」イエスの弟子たちは、だれが偉いのかを競い合っていたのです。きっと、ふと思いついたとかではなく、これまでの道のりでも心の中で順位付けをしてきたのでしょう。あいつよりは俺の方が、能力がある、頭もいい。こいつの職業はもと漁師だし…などと考えていたのかもしれません。イエスの弟子でさえそうでした。そして私たちの中にもこのような感覚はあるのではないでしょうか。知らず知らずのうちに順位付けをしてしまっている。あるいはそのような価値観の中に囚われてしまっていると言った方がいいかもしれません。横を見て、周りを見て、自分の位置をいつも確認していなければならない価値観です。どう思われているかを心配する一方、自分でも価値付けをしてしまう。そんな弟子たち、そして私たちに対して、イエス様は小さな子供を真ん中に立たせて言われます。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならないかぎり、決して天の御国には入れません。だから、この子供のように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」彼らの価値観、いや私たちの価値観でもそうです。「子供だから」と低く見られている一人の人をイエスは指差し言われたのでした。この小さな子どもに対して神様が、イエス様がどのようなまなざしを向け、受け入れておられるのかを教えているのです。

 自分の価値を見出すことができない人が多くいる今日、無条件で自分を受け入れてくれるお方を知っているということは、当たり前ではない大きな力であると言えるのではないでしょうか。もっと言えば、これこそが私たちの拠り所であると言えるものだと思うのです。何があってもこの人だけは見捨てずにそばにいてくれる、そのようなお方がおられることを聖書は私たちへのメッセージとして届けています。     

2. 失われた存在である私たち

 そしてそのような背景があり、恐らくは話を聞く弟子たちの真ん中には一人の小さな子供がいる状況で、イエス様はお話しされるのでした。11「人の子は、失われている者を救うために来たのです。」人の子とはイエス様がご自分を指して言うときに使われる表現です。イエス様はここで、ご自分が何のために来られたのかということをお話しになっているのでした。失われている人を救うためにわたしは来た。失われた人とは誰でしょうか。文脈を見て行きますと、幼子を立たせ注目させていたことからもわかりますように、第一に、それは社会的に下に見られ、その存在の価値を認められていないような人々を指していることがわかります。力もなく、頭も良くなく、顧みられない存在。半人前という言葉もありますけれども、まだ一人の人とカウントされることのない人々。いわば弟子たちの格付けの中では下に位置する人々でした。マタイというこの福音書を書いた人のことを考えると、よりわかりやすいかと思います。マタイ自身、社会の中で蔑まれ、のけ者にされたような人でした。彼は取税人であり、イスラエルを支配していたローマのために税金を集める職業についていました。民族の敵、非国民とののしられるような職業です。しかも取税人たちは決められた額よりも多くを集めて、自分自身の財産にしていたようですから、嫌われても当然。だれも彼と友達になろうとなんてしないですし、だれも彼のために何かをしようなんて考えもしなかったのです。しかしイエス様はそんな彼に声をかけ、私について来なさい、一緒に行こうと言われる。当然周りの人々、しかも宗教的な指導者たちはなんでそんなことをするのか!と非難します。彼らの格付けで、彼らは下位どころかランク外だったからです。それに対してイエス様は言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」まさに本日の箇所ともリンクすることばです。マタイ箱の言葉を聞き、イエス様が自分のために来られたと知ったのでした。彼にとってとても嬉しいことばだったことでしょう。イエス様は何のために来られたのか、だれのために来られたのか。それは失われている者を救うため、正しい人ではなく罪人を招くために来られたのであります。言い換えるなら、イエス様の目に映っていたのは、何か良いことをしている人とかではなく、だれからも顧みられることのない人、皆の注目を集めている子供のような人のために来られ、出会われたのです。存在そのものを喜んでくださっているとも言えるでしょう。マタイ自身がその存在を受け入れられたことを本当の喜びとして知ったのです。

 しかしそれだけではありません。聖書が教える「失われている人」というのは、社会的に低い位置にいた人、だれからも顧みられることないような人々のことだけを言っているわけではないのです。見下げる立場の人々、社会的には上にいて人々の尊敬を集めていたような人々をも含めて、全ての人が失われている、本来いるべき場所にいないと教えるのです。多くの人は気づいていません。しかしそれこそが、聖書が教える罪なのでした。神様の元にいるはずなのに、そこから離れ自分勝手に生きている姿です。生まれながらの人は皆そうだと聖書は教えています。マタイはわたしと一緒に行こうと言われるイエス様の声に従い、すぐについて行きました。彼自身の中に満たされない思いがあったのでしょう。お金はある、しかもローマの後ろ盾もあって守られている。けれども何かが足りない、何かに飢え渇いている。それは単に友達や自分のことを認めてくれる人だけではなかった。自分を本当に愛し、自分の存在を認めて受け入れてくださるお方。自分が本当に安心していられる居場所。それがないと彼は気づいていたのです。どこまでいっても満たされることなく安心することができない私たち。それこそが罪の結果であるのでした。気づいていないだけで、彼を蔑んでいた人々もまた本当の居場所を知らない人々でした。ただ自分よりも下の人がいることに安心し満足しているだけなのです。そんな苦しむマタイ自身が、そのお金や権威によっても満たされなかった所から救ってくださるお方に出会った。

 

3. 良き羊飼いであるイエス様

 続く例えは有名なもので、失われた人、本来の居場所を失った人に対してイエス様がどのようにされるのかを良く表しているものです。12-13節、あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが100匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は99匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった99匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。あなたがたはどう思いますか、とイエス様は尋ねておられます。みなさんはどうでしょうか。100匹いるのだから、1匹くらいと思われるでしょうか。私たちは往々にしてこの数や量を重視してしまう傾向があるのではないかと思います。100匹のうちの一匹、ならまだしも、千匹・一万匹のうちの一匹だったら、一匹一匹の価値は低くなってしまうのではないでしょうか。一匹くらいとなってしまう。効率を考えればそうなるでしょう。いや、羊と人間は全く違うだろう!と思われるでしょうか。しかし社会は、特に今日の社会では、いつしか作業効率を追い求め、経済効果を追い求めて、一人の尊厳ということが著しく損なわれているように思うのです。一人がダメになったらまた別の人を当てればいい。かけがえがある存在として、交換可能な働き手として見られてしまうのです。だからダメにならないように、ダメと言われないように頑張る。これが社会だからと飲み込む。いやそんな大きなことを考えなくても、弟子たちの中にさえあった順位付け、私たちのあらゆる関係の中にもある格付けはまさにそのような価値観の表れです。そしてその中に囚われてしまっている私たちは、人と自分を比べて誇ったり悲しんだり、嫌われないように焦ったり取り繕ったりするのかもしれない。明日にはどうなってしまうかわからない関係の中にいる。

 何れにしても、人の子、羊飼いはこの一匹のために時間を割き、多くの犠牲を払って必死に探し回ります。この世の価値観で言ったら非効率的と馬鹿にされるでしょう。羊飼いの元から迷い出た羊は谷に落ちて身動きできず、死んでしまいます。羊を狙う野生の動物も、羊は財産でしたから盗もうとする人もいる。そんな羊を探すために歩き回るのです。当時、いなくなった羊を探すときには、その羊の足跡を追って行ったそうです。ちょっと私たちには想像もできないですが、地面を這いつくばってこの迷い出た一匹を探したのかもしれません。そしてその一匹を見つけるならば、その羊を担いで99匹の元へと帰ってくるのです。そこには大きな喜びがあります。もちろんここではこの一匹が特別で、99匹を軽く見ているということではありません。このとき残された99匹の羊がいなくなっては元も子もありません。当時23人で羊の番をしていたようですから、その人たちに委ねて、迷い出ることがないようにしたのでしょう。そしてもしその99匹の中から真おいでた羊が出るのなら、やっぱり同じようにその一匹のために探し回るのであります。

 

 時間を割いてお話ししてきましたけれども、イエス様の眼差しはまさしくこのような愛に溢れ、しかも力を尽くしあらゆる犠牲を払ってでも取り戻そうとする強い決意が表れているものでありました。この目が、失われている人、本来の居場所から離れている人々、とりわけ社会的には顧みられない、弱く小さいとされている人々に向けられているのです。そして14節、このように、この小さいものたちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。本日の箇所の結論のような言葉が最後に置かれています。羊を見守る目は羊飼いとしてのイエス様の優しい眼差しであり、同時に天のお父さんのあたたかい眼差しでもあります。羊飼いと羊という例えを見てきましたけれども、ここにはお父さんと子供という、さらに親密な関係が表れています。家族への眼差しが私たちには向けられているというのです。家族というのは能力で認められて、繋がっているものではありません。何々ができたから家族、何々ができないから脱落とかはないわけです。まさにかけがえのない存在であります。親が子を見る眼差しはまさしくそのような慈しみに溢れている。今日では様々な家庭の問題があり、必ずしもそうとは言えない現実があるかもしれない。そこに苦しみ悲しみ傷ついている方も少なくはありません。無条件で受け入れられるはずの子供が、家族が、失われてしまっているということは珍しく無くなってしまっています。しかし神様は違うのです。変わらない愛の眼差しを向けてくださっている。家族というのは本来かけがえのないものです。先日の祈祷会でもお話ししましたが、神様の目に、一人一人がかけがえのない存在であります。お兄ちゃんが家出したから同じ年恰好の人を置いとけばいいということなんてできるはずはありません。娘が家出したから他の人を連れて来ればいいなんて考えはあり得ないですよね。もちろん地上においては多くの失敗をしてしまうこともあります。喧嘩もするし、家出することもあるかもしれない。けれど父なる神様はいつでも私たちのことを待っていてくださるのです。地上の家族にたとえ見捨てられるようなことがあったとしても、このお方だけは、一匹の羊を追って探し回られるこのお方だけは、決して私たちを見捨てないのです。このようなお方の眼差しを知ることこそ、この社会の価値観に囚われずに、その価値観の中で一喜一憂ふらふらとただようことなく、本当の安心と喜びをもって歩んでいくことができる秘訣ではないでしょうか。帰る場所がある。待っていてくれるお方がいる。これに勝る喜びはないのです。

 

 本日の箇所の準備をしていて、一つの旧約聖書の箇所を思い出しました。エゼキエル書34章です。イスラエルの牧者たちがその羊の世話をせず、4節には「弱った羊を強めず、病気のものを癒さず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われものを探さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した」とあります。つまりイスラエルは全世界の祭司としての役割が与えられていながら、その神様からの務めを放棄していたのでした。それに対して神様は、ご自身が羊飼いとなってその失われイスラエルの牧者からも相手にされていない羊を取り戻すと言われているのだ。それが11節以降。そして16節。「私は失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。」お気づきになったでしょうか。今年私たちに与えられた年間聖句へとつながるのです。連れ戻すだけでなく、本来の居場所に連れ戻された私たちは、このお方の元にあっていつも守られているのであります。私たちの傷を癒し、飢え渇きを満たしてくださる。歩むべき道を教え、養い、導いて下さる。そんなお方と共に生きることができるようにされているのです。実にこの聖句は、失われた一匹の羊を探し出された神様の深い愛と、この一匹の存在を喜ばれる深い慈しみにあふれている!

 

 繰り返しますが、神様の眼差しはこのようなものです。そしてイエス様はそのために来てくださった。イエス様は失われたものを救うために来られたと自らでお話になっています。では、どのように救われると言うのでしょうか。失われ、ただ死を待つだけだった帰り道を知らない不安な羊は、どのように助け出されると言うのでしょうか。それがなされたのが、私たちが今日このあと持ちます聖餐式、イエス様の十字架においてでありました。イエス様ご自身が父なる神のひとり子であります。まさしく父なる神にとって掛け替えのない存在です。けれども、そんなかけがえのない愛するひとり子を世にお与えになった神様は、そのひとり子の十字架、そこで流された血と裂かれた肉のゆえに、私たちをご自分の子として受け入れてくださるのであります。イエス様が十字架にかかって身代わりとなって死んでくださったことにより、私たちの罪を代わりに負ってくださった、だけでなく、私たちにはご自身の子としての身分を与えてくださり、私たちは父なる神さまに、愛するかけがえのない子供として招き入れられたのです。本来なら、迷い出て、父なる神様の元を離れていた私たちは、お父さんなんて呼べないはずです。「天の父よ」と祈ることなんてできない。それどころか帰る道さえ知らず、帰らなければ滅んでしまうことも知らずに好きなように生きてきました。けれども、このイエス様の十字架のゆえに、私たちは神の子とされ、お父さんと祈ることができるように変えられた!かけがえのない一人一人は、私の存在そのものを喜んでくださるお方の元に、イエス様によって帰ることができたのです。

 

 

4. まとめ 〜イエス様の眼差しで、私たちのとなりびとを考える〜

 もう終わりにしますけれども、私たちは一人一人、神様にとってかけがえのない存在です。そして神様がそのように私たち一人一人を見ておられると言うことは、私たちもまたそのような眼差しで一人一人を見ることができるということでもあります。そうしたときに、この世のものとは明らかに違う交わりがここに生まれるのです。これが教会であります。教会が建物ではないということはぜひ知っていただきたいことですが、この父なる神の子供として集められたもの、迷っていた所から探し出され大喜びされている私たち一人一人であります。そしてかけがえのない神の子とされた私たちは、互いにかけがえのない存在として愛し合うようにと言われています。一人一人が神様にとって、神様の愛の眼差しを受けている者にとって、かけがえのない存在である。私たちはその眼差しを受けていることを覚えて、新しい週を歩んでいきたいと願います。