天を見上げ、星を数えよ

■聖書:創世記151-6節   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6

 

1. はじめに

本日の箇所の最後の節、本日の中心聖句とさせていただいた箇所には、私たちにとってとても大切な、人は信仰によってのみ救われるという教理の土台となる言葉が登場します。それを突き詰めれば、どのような人が救われるのか、クリスチャンとはどのような人かということになるでしょう。聖書の中で唯一神の友と呼ばれ、後世には信仰の父と称されるアブラハム(本日の箇所ではまだ名前が変わる前のアブラムですが)の歩みから、神様が求められている信仰について教えられていきたいと願っております。アブラムという人を考える時に外せないものが、彼が高齢でありながらも神の言葉に従って旅を始めたということであります。創世記12章には旅立ちのみ言葉「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」高齢でありながらしかし子供がいなかったアブラム。そんな彼は、この神様からの約束を握りしめて、行き先もわからないまま行けと言われる通りに一歩を踏み出したのでした。

2. アブラムの恐れ、不安の理由

 しかし、そんな信仰の父・神の友とされる唯一の人物でありますが、本日の箇所ではそのような力強い姿はありません。もう一度1節をお読みします。これらの出来事ののち、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」アブラムは恐れていたのでした。これらの出来事とは一体なんでしょうか。詳しく見ることはできませんが、直前の14章を簡単に見ておきましょう。その時、その地域の王様たちが東西に別れて連合軍を組み、戦争をしていました。その戦いにアブラムの甥ロトという人が巻き込まれ、拉致されてしまった。そんな知らせを受けたアブラムはどうしたか。彼は立ち上がるのです。14-15節、アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども318人を招集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。一国の王に立ち向かう、しかも連合軍です。318人程度ではどうにもならないと考えるの常識。いくら親類が捕らえられたと言っても、「よっしゃいっちょやったるか」なんてとても思えないでしょう。しかし彼は迷うことなくこの一人の親族を助け出すことを決断し、立ち上がる。そして16節、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。結果は大勝利!なのでした。自らに直接的な危害は及んでいなかったのにも関わらず、甥であるロトのために強大な敵にさえも果敢に立ち向かっていく、正義の心と勇気をももっていたのです。世に言う成功者の姿、財産をもち、能力もあり、人情に厚いアブラム。さらにその信仰、ただ主にのみ栄光をお返しする姿もすばらしいものであったことが14章の終わりでもわかります。結果は助けられた形になったソドムという国の王が、戦利品を受け取ってほしいと願い出ました。当然の権利です。しかし彼はそれを断る。「糸一本でも、靴ひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つとらない。それは、あなたが『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ」といって断るのです。自分が勝利できたのは、ソドムの王や自分の力でもなく、神様のおかげだということを誰よりもアブラム自身が分かっていたからでしょう。ここに彼の光り輝く信仰が見えるのでした。まさしく信仰の父、神の友と呼ばれるにふさわしいイスラエルの始まりの人、といったところでしょうか。

 

 ところが、なのです。そんな勇敢で順風満帆な姿から一変し、恐れるアブラムの姿が本日の箇所冒頭にはあるのです。直前の華々しい大勝利の後にあった彼の恐れとは一体なんなのでしょうか。

 一つには、王たちの報復を恐れての恐れであったと考えられます。大勝利の後の恐れというのは聖書の中では度々見られます。列王記に見られますエリヤという預言者。彼は450人もの異教の神バアルを拝む者に対して、まさに神の力を持って勝利しました。しかし、その直後にはひとりの王妃の脅迫に恐れて逃げ出してしまう。アブラムもそのような状況にあったのでしょう。信仰に篤くとも、波がある。一時は熱心であったとしても、すぐに枯れてしまう。それは私たちもいっしょかもしれません。浮き沈みがあるのです。とにかく、彼は王たちの報復攻撃について恐れていて、そんな彼に向かって「あなたの盾である」と主は言われ、「恐れるな」と励ましておられると見る事ができるでしょう。

 けれども、その後のアブラムの発言を見ていますと、恐れの根本は別のところにあったようです。2,3節、そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私にくださらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。「あなたの受ける報いは非常に大きい」と言われますけどね、神様。あなたの約束を信じてやってきたのに、現に子供は与えられていないじゃないですか。財産はあり、連合軍に勝つほどの力もある。それはまぁ感謝しています。けれども、肝心の跡継ぎがいなければ、虚しいだけじゃないですか。私の一番欲しいものをくださらないじゃないですか。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。という言葉には、それくらいの失望や悲しみがあるように聞こえます。自分が求めているものが与えられない時、これを信じていて大丈夫なんだろうかと揺らぐものです。さらにアブラムは、しもべの名前を挙げて、現実的な解決策を示そうともしています。こうすることで、子が与えられるということですよねと。これは当時では普通に行われていた後継者問題の解決策です。確かにこれで、アブラムの非常に多くの財産は引き継がれるでしょう。名前も残る。神様、このようなかたちで、あなたの御言葉は実現するのでしょう?人の考えが及ぶ範疇での約束の実現を、アブラムは考え、信じようとしていたのでした。あぁこれが御心か、神様の約束の真相かと、自身を納得させたのかもしれません。これもまた、私たちがよくしてしまうことではないでしょうか。神様に信頼しているつもりでも、結局は自分が納得できる答え、結末しか受け入れられない姿です。要するに、アブラムは神様の約束を完全に信じきることができず、自分で自分が納得できるように神のことばを受け止め、信じていただけなのでした。アブラムの頭にはもはやこの可能性しか残されていなかったのです。

 彼がこの時いた天幕、テントのようなものですが、彼が神様の声に従ってきたことの印です。定まった地に定住することなく、行けと言われたとおりにここまでやって来たアブラム。しかし、彼の信仰の象徴のような天幕の中で、彼は自分の年老いた自分や妻を見て、その現実にとらわれてしまったのではないでしょうか。世界を小さくし視野を狭くし、自分と自分の近くにあるものだけを見て、その眼に映る現実にうちのめされ、失望し悲しんでいる。信仰の父と呼ばれるアブラムでさえそうだったのです。「あなたを大いなる国民とする」との子孫繁栄の約束を手放す事なくここまでやって来た。けれどもここに至り、先程見たような王たちの報復への恐れともあいまってか、彼の不安は一気に溢れ出たのでしょう。これはクリスチャンであってもなくても共通しているところであります。人は多くの不安を抱えています。それが全て解決すること、全くの平安でいられることなんてないのではないでしょうか。自分を見て、その足りなさばかりを見て、恐れ焦るのです。そんな恐れを、神は見抜いておられたのです。

 

3. 天幕から連れ出す神

 そんな恐れと不安の中にいたアブラムに対して、再び主のことばは臨まれます。4節すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」別の訳では、「すぐに」と言うことばが補われています。アブラムの嘆きの訴えに対して、主はすぐに、再び臨まれたのでした。あなた自身から生まれ出て来る者」とはとても重い意味をもつことばです。もう老人であり、子どもについてはなんの希望を抱きえないアブラムにとっては格別、強烈に響くことばでした。アブラムの内向きな考え、人間の頭で考えられる範囲の、限定的な狭い考えを否定し、その枠の外にあった神の御心、ご計画を改めて突きつけているのです。「あなた自身から」と言う表現は、12章の「あなたを大いなる国民とする」という約束を思い出させるのに十分であり、さらに強調した表現と言えるでしょう。そして、彼を、彼の狭い天幕から外に連れ出すのでした。5節、そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」私はこの箇所がとても好きなのですが、中でもこの、彼を狭い天幕から外に連れ出されるというところはとても印象的であります。私自身の感想に過ぎませんが、天幕の中で下ばかりを見て小さくなり、先のことを考え不安になっている彼を、神様が優しく立たせ、手を引いて外に連れ出す。表に出ろといって叱っているのではありません。連れ出してとありますから、不安の中にいたアブラムに優しく寄り添い、一緒に出てくださったのではないでしょうか。

 

 そして言われる。「天を見上げ、星を数よ」。彼は自分の目の前におかれていた現実、子がなく、夫妻ともに高齢であるという彼を捉え苦しめていた現実から目を離し、顔を上げ、そして天の星を見るのです。まるで、おまえが見るべきものはそっちじゃない、こっちだと言うかのように神は人の手を引いて導かれ、そして語られる。そこに広がるのは満天の星々。それはアブラムたち、その地に住む人々にとってはみなれたものだったかもしれません。乾燥地帯で空気は澄み、星々がまさに降り注がんばかりのイスラエルの夜の空です。神はその星空を見上げさせ、数えることができるなら数えよと言われました。しかし、当然人にはそれができない。できませんと言うよりほかはなく、いや、そのわずかな言葉さえも発することはできず、ただただ口をつぐんでしまうばかりでしょう。普段は当たり前のように過ごすその星空のもと、アブラムはその星々を数えることさえできない自分自身がいかに小さく限界のある者かを知りました。そして同時に、人には及びもつかないほどの大きなわざをなされた「創造主なる神」を知った。この人が数えることさえできない星を作り上げたのは、彼の手を引き、声をかけてくださったこのお方に他ならないのです。この星空自体が何か特別な意味を持っている訳でも、そこに何かのメッセージがある訳でもありません。その星の配列、形から神様のメッセージを占ったり読み取ったりしたわけではありません。

 

 神様が仰ぎ見るよう言われた空には、創造主である神様の大きな作品があったのです。アブラムがこれを見たとき、彼はこの星空を造られた神の創造のわざを思いめぐらしたのではないでしょうか。天の星を見よ、数えよとは、それらの作品を造られた神様を見るということ、同時にその御手の業でさえ、目で追い数えることのできない人間の、限界のある姿を教える意味がありました。しかしアブラムに臨んだ神のことば、彼をその大きな空の元に立たせた神のことばは、人の小ささと神の大きさを見せつけるだけでは終わらないのです。さらに仰せられます。「あなたの子孫はこのようになる。」詩人は歌います。詩篇8篇、あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。神と人、その埋められることのない絶対的な力の違いを歌いつつも、そんなにも偉大なお方、力あるお方が、こんなにも小さく弱い者を心に留め、顧みてくださることの不思議を歌っています。創造主なる神の業を思うとき、それは無から有を生み出す創造でした。どんなに科学が進歩しても、人間にはゼロをイチにすることはできません。ましてや何もないところにいのちを生み出すことはできない。しかしこの星空を作られたお方は違う。無から有を生み出すお方は、ちりから人を造るお方、いのちを与えてくださる唯一のお方であるのだと、彼はわかったのでした。この、目に見えないものを仰ぎ見る信仰というのは、何も世捨て人のようになっていきなさいという事ではありません。天に目を上げると言うことは、地上の様々な悲しみ苦しみを見ないように、現実逃避していきなさいと言うことではないのです。生活のあらゆる場面において神を覚えるということ、そしてそのお方が私たちと共にいてくださるということを忘れずに、この地上での歩みを続けていくということであります。そこには眼に見えるところの現実がどんなに困難であっても、揺るがされない、平安な日々があるのです。

 

 いずれにしても、この星を見ると言う行為で、目に見える状況が劇的に変わったということはありませんでした。突然子どもが生まれた訳ではありませんし、彼が急激に若返った訳でもありません。依然として彼は年を取っており、子どもがいない現実は変わらずにそこにある。しかし、アブラムは先程の応答とは決定的に異なる態度を示しています。6節、彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 

4. まとめ「神を見上げて生きる」

 信じたと言う言葉はヘブル語でアーマン、私たちが祈りの最後に唱えるアーメンと同じことばです。アブラムが神の御業である星々を見上げ、あなたの子孫はこのようになると言われたとき、ただこの一言、アーメン、信じます、そのとおりです。とつぶやいて言ったのでしょう。神の偉大さの前で自らの小ささを知った者の真実な、そして純粋な告白でした。なんの派手さも、誇れるようなこともない小さな小さなつぶやきです。しかし主はその小さな告白、その小さな信仰にこそ、目を留め、義と認められるのです。冒頭でもお話ししましたように、これはのちに「人は行いではなく信仰によってのみ救われる」、つまり信じるだけで救われるという大切な教えになりました。なぜこの光り輝く御言葉が、この箇所で言われているのでしょうか。

 12章、神の言葉を信じてまだ見ぬ地へ信仰の一歩を出し、旅出た時ではありません。先ほど見ました14章、王たちとの対決における大勝利の時でもありません。いわゆる成功した時に、信仰が強く輝いている時に、その信仰が認められた訳ではないのです。いや成功どころか先を恐れて不安になり、神様の約束を信じられなくなっていた本日の箇所で、私たちの希望であるこの御言葉は語られているのです。それは、何かの行いによるのではなく、ただただ神の大きさの前にアーメンとだけことばを漏らしたそのアブラムの姿を、その信仰こそを、神様が待っておられると私たちが知るためではないでしょうか。私たちの中にも信じられない時があります。信仰が弱る時がある。ハレルヤなんて歌えず、アーメンなんて祈れない時もある。けれども神様はそんな私たちを不信仰なものだと言って懲らしめたりはせずに、手を引いて、見るべきものを教え、励ましてくださるお方です。そしてこんなにも弱々しい信仰ですが、それを見て、誰よりも喜んで下さるお方なのです。

 

 ここに浮かんで来るのは、ただ神との関係にあってとりわけ光り輝くアブラムの純粋な信仰のみです。神の前に、圧倒的なその存在の前に、ただひれ伏し、アーメンと言う彼の姿だけが言われているのです。私たちの狭い天幕の中での現実、眼に見えるところだけの現実に、時に私たちは苦しめられます。日曜日にみことばによって励まされたとしても、またもとの職場、もとの学校、もとの場所での一週間が始まると、再びまた元どおりとなってしまうことがあるかもしれません。信仰に燃えている時はいいけれども、ちょっと何かがあると簡単に揺らいでしまう弱さもある。けれども、主は何度でも語られるのです。天を見上げ、星を数えよ。それぞれの現実の生活の只中でそのように語られてるのです。家庭で、職場で、学校で、わたしを見よと主は言われる。見えるものにではなく見えない物にこそ目を留め、私たちの限界をはるかに超えて働かれるお方に希望をおいて、それぞれの場所で生きる歩みを新たにさせていただきましょう。まだ約束の実現を見る前から、しかもその実現の兆候や可能性さえ見いだせない時にアーメンと告白した信仰者の歩みに、私たちも生きて参りましょう。そこにこそ、本当の祝福があるのです。    

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