扇の要

❖聖書個所 第一コリント15章50節~58節      ❖説教者 川口 昌英 牧師  

❖中心聖句 …私の愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから。                           

                              第一コリント15章58節

◆(序)聖書の伝える復活

 死んだ人が生き返ったという記事が福音書に数例あります。その最も有名なのは、ラザロの場合です。 死後、四日も経っていましたから、人々は主の御力によって生き返ったラザロの姿に大変に驚き、多くの人々が主を信じたとあります。(ヨハネ11章45節)

   一旦死んだ者が生き返ったことは、人々に驚きを呼び起こしましたが、聖書が伝える主イエスの復活は、それとは違うことを知る必要があります。よく話していますから、多くの人はお分かりだと思いますが、時々、ラザロの場合も復活と言われることがありますが、根本的に主イエスの復活や再臨の時、信ずる者に約束されている復活と意味が違います。 

 ラザロは、時が来たなら再び死んでいます。それに対して、主イエスの復活、又信ずる者に終末、約束されている復活は、再び死ぬということがありません。人間の常識を超えることであるため、教会の内部にも、素直に信じることができない者がいましたが、パウロは、そういう人々に対して、主の復活の意味をコリント第一の手紙15章35節~49節において詳しく説明しています。

 

 それは、単なる生き返りではなく、特別な姿「天上の体」「朽ちないからだ」「栄光あるもの」「強いもの」「御霊のからだ」「天から出たもの」「天上のかたち」であり、完全に死に勝利した姿であると強調します。確かにイエス様の場合、弟子たちが見たように、十字架の死を受けたことを示す傷跡が残っていましたが、その本質は、死に勝利した栄光のからだであり、多くの人々が誤解しているような生き返ることと意味が全く違うのです。そして、主が復活されたことは、クリスチャンの信仰にとって生命線ともいうべき大切なものです。

◆(本論)復活を信ずる根拠

①このように、信仰者にとって重要な主の復活、又復活の約束ですが (第一コリント15章14節~19節)、どの時代にも強力に、また執拗にその復活を否定する者たちがいます。

 それは現代に至るまで、教会の伝道の妨げ、大きな壁になっているものです。その人々は、主の復活に対して、いろいろな理由をあげます。まず、当時のユダヤの支配者たちが言っていたものです。彼らは言います。実際はキリストは死んでいなかった、仮死状態であった、その状態から回復した主を弟子たちが救い出し、復活したと偽ったのだというのです。(マタイ28章12節~15節) しかし、鞭で何度も打たれ、手と足に直接太い釘を打込まれ、長時間に渡って十字架につけられ、体が裂かれ、絶え間なく血が流れ、最後には脇腹を槍で刺され、墓に納められた人が、たとい、その人々が言うように、仮死状態から回復したとしても、あちこちに現れるほど(Ⅰコリント15章5節~7節)、活発に動くことができるでしょうか。又、主が収められた墓は大きな石で封印され、その前は特別に警戒されて、厳重な兵の監視がつけられていたのです。(マタイ27章62節~65節) そのような中から主を助けだすということが可能でしょうか。

 何よりもこのように考えることがおかしい一番の理由は、弟子たちが主の死と復活について偽りを言っているということです。弟子たちは、自分たちが作りだした偽り、願望のために、その後の人生を送っていると言うことです。しかし、いくら主イエスを慕い、その教えや行動を大切に思ったとしても、自ら作り出した偽りのために命を賭けるでしょうか。そのため自ら危険をおかすばかりでなく、又他の人を偽りの人生に導き、根拠のない人生を送らせようとするでしょうか。自ら偽っていたなら、後に経験した厳しい迫害の中で主の死と復活を伝える力と喜びを持てなかったはずです。又互いに偽っていたなら後で必ず、それは噓だったという者が現れるはずです。

 復活を否定する人たちは、更に他の理由を言います。弟子たちは、主の復活を語り、罪の贖いが完了、成就したと強く言っているけれども、イエスの遺体はイスラエルの議会やローマ当局の責任者が隠したのだ、だから主の復活は事実でないと。しかし、これもまた不思議な説明です。そもそも何のためにイスラエル支配者やローマ当局がそうする必要があるでしょうか。そして、その通りであったなら、弟子たちが復活を声を大にして伝えていることに対し、事実は違う、ここにイエスの遺体があるとひとこと言うならば、弟子たちの伝道に対して決定的な一撃を加えることができたのです。しかし、そのようにしたという形跡は全くありません。彼らは、弟子たちの勢いを恐れて主の復活を伝える弟子たちをただ脅して言わせないようにしただけです。

 

②反対に、主イエスが栄光のからだとして死より甦り、罪と死に対する勝利が実現したことが真実である理由です。

 まず、弟子たちの勇気です。十字架の直後、ユダヤ人を恐れて隠れていた弟子たちが復活の主と会った後、変化し、力強く主の福音を伝えたことです。使徒の働き2章、3章のペテロの説教や4章の議会における証しなどから力に満ちるようになった彼らの姿を知ることができます。 確かに、聖霊が与えられて(使徒の働き2章)強くなり、大胆になったのですが、その根底に当然、復活の主と会い、復活の恵みが実現したことを知ったことがあるのです。

 さらに主の復活は、真実であると信ずることが出来る理由は、反対者パウロの回心です。使徒の働きに出ているパウロに関する記事や又新約聖書に多く収められている彼の書簡を見ると、パウロは確かに感情豊かな人物ですが、決して人々に影響される人間ではありません。冷静に、広い観点から、脇に逸れることなく真実を追求した人物です。そして、真実を確信したならば、大胆率直に行動する人物です。人に影響されず、ただ神の御前に神の真実を求めていた人物です。そのように、自分が真実として受けとめる神の御心以外によって決して動かされることがないパウロが、特別に現れてくださった復活の主と会った時から(使徒の働き9章)、生き方が全く変わったのです。今まで先頭に立って教会を破壊し、クリスチャンたちを痛めつけていましたが、復活のイエスとお会いしてからは、逆に先頭に立って、主の十字架の死と復活を力強く語り、これまでと反対に攻撃、迫害を受けるようになっているのです。主イエスの復活が事実であり、それが意味することを知り、長年追い求めてやまなかった神の義、救いが完成、成就したことを知ったからです。使徒の働き26章において、カイザリヤで獄に入れられていた時、自分に関心を持って会いに来たユダヤの一つの地方を治めていたアグリッパ王に対し、自分の証しをしていますが、復活の主とお会いしたことが自分の転機であったと力を込めて語っています。(使徒26章)

 

◆(終わりに)主の復活は扇の要

 主イエスの復活は、ご自分が神であることを明らかにしました。そして、罪の贖い、神の子とされること、命を終えて御前に立つ時、義の冠が授けられ、神のもとに迎えられること、終末、終わりの時に栄光のからだとして復活する約束が真実であることを証明しました。本日の箇所は、そのように主の復活は事実ですから、この復活の希望に堅く立って動かされることなく、今置かれている場で神の民として生き、主のわざ、力の限り神を愛し、隣人を自分と同じように愛する生き方をすることが勧められているところです。

 

 主の復活は、キリスト教信仰の核心です。主の復活は、客観的事実というよりも、特別の状況の中で主の復活を経験するという、曖昧な不確かなものではありません。それは実際の出来事であり、復活がもたらした恵みも実際のものです。よく主の復活は扇の要に例えられます。すばらしい材質が使われ、素晴らしい技術で作られていても、要の部分が不安定ならば、扇はすぐ壊れます。主イエスの復活は、私たちの信仰の要です。この要によって人の人生が新しくなるのです。