私のための十字架

■聖書:イザヤ書531-12節     ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:しかし彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ535節)

 

1. はじめに

 週報にもありますように、受難週を迎えております。来週のイースターは巷でも認知され、賑やかになってきているようですが、この受難と十字架の死を抜きにしては、イースターは本当の輝きを放ち得ません。それが受難、イエス・キリストの受けられた苦しみです。教会では古くからこれを教会暦の中で定め、世界中で大切に守ってきました。イースターがそれだけでめでたいのでも光り輝いているのでもなく、受難があり苦しみを受けられたからこそ、それに勝利された復活の意味、喜びがあるのです。さらに言えば、その受難は自業自得のものではなく身代わりとなった受難です。しかも誰かのではなく、私のための受難でありました。先程お読みいただいたイザヤ書53章は、これ全体でメシヤ、救世主を預言している箇所です。本日の箇所から、この受難週、イエス様が歩まれた十字架の道とその苦しみの意味について見てまいりましょう。    

2. 苦しみの本質を解決してくださるお方

 13節をお読みします。私たちが聞いたことを、誰が信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。メシヤ(救世主)、救い主の預言はこのような形で始まります。救世主と聞けば、ピンチの時にカッコよく現れるヒーローを想像するものです。この預言がなされた時代、イエス様から700年ほど前の時代ですが、北イスラエル王国はアッシリヤによって滅ぼされ、イザヤの活躍する南ユダ王国にも言いようのない不安が漂っていました。人々は皆、当然力に溢れる強い姿の救世主が来ることに期待します。多くの人は問題の根源に見える強国を打ち倒し、暗いモヤモヤとした不安を取っ払い、問題の解決を与えてくれる存在を待ち望でいたことでしょう。けれども違った。イザヤは、皆がイメージし期待していたものとは全く違う姿を告げるのです。誰もが待ち焦がれるような強く格好いいヒーローではなく、「彼」には見とれるような姿もなく、輝きもなく、慕うような見栄えもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされていたのでした。だれにも顧みられないような、いやそれどころか、さげすまれ、だれからも尊ばれないような人物が用意されていたのです。華々しいどころか「悲しみの人で病を知っていた」。知っていたとは、単に知識として知るということ以上に、それを自身のものとして関係を持つ、経験するという意味があります。だれもこんな人を救世主、ヒーローだなんで思いません。ここに助けがある、今抱えている問題の解決があるなんて考えもしなかった。ですから冒頭1節の言葉は、人の常識とはあまりにかけ離れた救世主が到来することの驚きを表しているのです。私たちもまた、救いはこのようなもの、物事の解決はこのような方法だと短絡的に願い、それ以外の大切な呼びかけに気付かなくなることはないでしょうか。そのような人たちには、この悲しみの人が負っている痛みや病の本当の意味、その先にある本当の救い・問題の解決の喜びを知ることはないのです。

 次の節で、その痛みや病がどのようなものであるのかが明らかにされます。本日の箇所の中心部分でもあります4-5節、まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。この悲しみの人の病とは私たちの病であり、その痛みは私たちの痛みである。彼はそれを代わりに担っているのだと言うのです。まさしく「身代わり」の病であり痛みであったのです。「私たちの」と言われるのは、預言者イザヤをはじめとするユダヤ人のことが考えられていました。しかし、その苦しみは「私たちのそむきの罪のため」「私たちの咎のため」であります。これを6節では、私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。とあります。羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。これこそ「そむきの罪」「咎」であり、旧約新約を問わず聖書全体が教えている罪人の姿、今日の私たちをも含めたすべての人間が生まれながらに持つ罪に他なりません。まことの羊飼いである神様のもとを離れた羊には平安はありません。無防備な存在には危険がいつでもつきまといます。本当の安心を得ることはできません。自分の好きなように生きるということは聞こえがいいかもしれませんし、そして一時は幸せなのかもしれませんが、本当の居場所にいないということは、実に多くの痛みや悲しみ、不安を抱えながら生きるということなのではないでしょうか。本来の居場所にいないために、私たちにも生きることの苦しみや悩みが生まれたのです。人間関係の中で傷つき悲しむことがあります。愛することができず、愛されることができない私たち。また人生の虚しさを感じることもある。なんのために生きているのか、明確な理由がわからないのです。そして最後には、罪の結果としての死、さらには永遠の滅びがあることを聖書は教えます。神に背いた罪人は、ひたすら転げ落ちていくような存在なのです。

 私たちはいつも問題の本質を見失ってしまいます。本質である神様から背いた罪を悔い改め、方向転換をすることはなかった。そむきの罪、咎を抱えてながら、別のものを頼りに生きているのです。ユダヤ人たちもそうでした。目に見える脅威に対して、目に見える解決を求めていました。だからこそ、こんなにも弱々しく見とれるような姿もなく、輝きもなく、慕うような見栄えもない人を蔑み、除け者にするのでした。ここに救いはない、あるはずがないと判断し、目に見える強そうな者、頼りになりそうな者に従っていく。それは権力かもしれませんし、財産かもしれません。学歴なども人生を良くするものと考えられ、そこに頼り、それで人の価値を判断していくのです。しかし、それらの先には本当の救いがあるのでしょうか。満ち足りるのでしょうか。何にも恐れることなく生きることができるのでしょうか。決してそんなことはないということは、この世界を見回しても明らかであります。自力ではこの問題を解決することはできないのでした。

 

 しかし、そんな私たちのために彼は来てくださった。「刺し通され、砕かれた」という言葉は、新約聖書を通して、イエスさまの十字架において実現した成就されたことがはっきりと分かります。イエス様の受難が何かご自身の罪の結果なのではなく、私たちのそむきの罪、咎のためであり、私たちを助けるために、私たちの身代わりとなって捧げられたものであることが明らかにされたのでした。しかも私たちの目の前の問題を解決するなんていう方法ではなく、私たちのすべての苦しみの根本にあったそむきの罪、神様から離れ自己中心に生きていた罪の刑罰を代わりに引き受けてくださったという、まさに想像を超えた方法で解決の道を示してくださったのです。いやこれ以外に私たちが救われる道、抱えている苦しみから解放される道はありませんでした。自力では神様のもとに立ち返り、ごめんなさいと言えない私たちです。そんなかたくなな私たちが受けるべき懲らしめを、一方的にイエスさまが受けてくださり、平安が与えられるのでした。しかし多くの人はそれを知りません。自分の罪に気づいていなければ、その罪の身代わりとなって死んでくださった方を知り、この方の深い愛を知ることはできないのです。

 

3.  イエス様のヴィア・ドロローサ「苦難の道」

 7-9節。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、誰が思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者ととともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口にあざむきはなかったが。お気づきになった方もいらっしゃるかもしれませんが、実はこの箇所、先週礼拝の説教箇所にも登場する御言葉です。使徒の働き832-33節でしたけれども、エチオピア人の宦官とピリポというクリスチャンが出会う場面です。宦官は馬車に揺られながらイザヤの書を開き、それを朗読していました。彼が読んでいた聖書の箇所が、このイザヤ書537-9節です。彼はここを読み、そしてピリポに尋ねます。宦官はピリポに向かって言った。「預言者は誰について、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれか他の人についてですか。」その問いかけに答え、ピリポは言います。ピリポは口を開き、この聖句から初めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。十字架はローマ時代の残虐な死刑の道具です。イエスはそれにかかって死んだ者であり、さげすまれていました。ユダヤの律法でも木に吊るされたものは神に呪われるとありますから、宗教的にも汚れていた。しかしその十字架の意味が、この宦官にははっきりとわかったのだと思うのです。初期のキリスト教は、十字架にかかるほどの極悪人を神としていると言って迫害されたそうです。しかしそうではなかった。十字架にかかるほどの極悪人は、他でもない私自身であり、その罪の罰を代わりに受けるためにイエス様は十字架にかかられた。しかもそれは700年も前にすでに預言されていたことを、この宦官は知ったのであります。なんの反論もせず、イエス様は引かれていきました。イエス様が通られた十字架への道は、ヴィア・ドロローサ「苦難の道」と呼ばれます。重い十字架を背負い、人々の蔑みの目にさらされながら歩かされる。いや、それは実際に十字架に続く道だけではなく、もうあのクリスマスの時から始まっていた苦難の道でもあります。神のみ姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質を持って現れ、自分を癒しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました(ピリピ2:6-8)。人は、人の上に立ち率先して導く救世主を期待しますが、イエス様は正反対に、底の底、どん底にまで降られたのでありました。その墓は悪者どもとともに設けられたとありますから、十字架刑にかかるほどの犯罪者と同じように扱われたということです。罪を犯さなかったにもかかわらず、まさにご自分が罪人となって死なれたのでした。このようなことを思う時に、イエス様の知らない、わからない、私たちの痛みや悲しみはないということを改めて覚えます。ヘブル書4:15-16私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。あらゆる苦しみを身に背負い、私たちの現実の只中へと降られたお方は、これからの私の歩みの中で受ける苦しみをも共に負い、共に悲しみ、そして慰めと助けをくださるのです。

 

 そして10-12節。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のための生贄とするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。なぜイエス様は、ほふり場に引かれていく羊のように、苦しみながらも口を開かなかったのか。それは、その十字架、苦しみの道こそが主のみこころであったからです。そのためにイエス様は来られたのです。イエス様の十字架は、このイザヤ書の預言の成就であり、そして神様が確かに私たちを愛してくださっていることのこれ以上ないほどのしるしであります。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。ある説教者は、この満足するという言葉を微笑んだと読み替えています。もちろん意訳なのですが、十字架上のイエス様の表情はどのような物だったのかということは興味深いところです。聖書には書いてありませんから想像でしかありません。そもそも十字架は死刑の道具、しかも重大な犯罪を犯した犯罪者に対する刑罰で、見せしめの意味も持っていました。すぐには死なず、自分の体の重みで磔にされた両手足は引き裂かれて痛み、やがて支えられなくなって呼吸することができなくなり、地上にいながらも窒息死してしまう。当たり前のことですけれども、とても苦しいのです。しかしイエス様は十字架で息を引き取られる前、まさに苦しみの絶頂の中、「完了した」と叫ばれます。人々を罵倒するのではなく、自分の無実を訴えるのでもありません。それは不本意な死ではなく、まさしくこのために自分は世に来たのだということを含めた言葉でした。最後だけではありません。十字架にかけた人々について恨み言の一つも言わずにこのように言われます。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」その十字架の道は、そのご生涯は、どこを切り取っても、私たちへのとりなし、ご自身を憎み殺そうとしている人々をも赦されるようにとの愛の祈りに満ちているのです。そしてそのイエス様が負った苦しみ、痛み、悲しみ、そして死によって救われる私たち一人ひとりを思い、十字架上で満足された、微笑まれたのでありました。

 

4.「私のための十字架」

 私たち一人ひとりが、このイエス様の大きな愛を受けているのです。受難週はまさにそれを覚える時であります。それでも、自分は関係ないと思われるでしょうか。私のための十字架であったと告白することは難しいでしょうか。最後にこの十字架が今日の私たちにもたらした大きな恵みを覚えて終わりにしたいと思います。私たちは皆罪人です。神様から離れ自分勝手にさまよい、傷つき、果てていく者です。その罪ゆえに大きな苦しみ、満たされない飢え渇き、どうしようもない不安を抱えている者でもあります。人との関係においては、愛することができず、また愛されているという実感が持てず、自分で自分をさえ受け入れることができずに苦しむ人も少なくありません。「自分なんて」と、自分のいのちを軽んじるのです。成果主義の価値観の中で、自分を評価し他人を評価し、比べて一喜一憂することもある。他人も自分も傷つけ生きていました。でもその傷の全てをイエス様の十字架、そしてそこにあらわされた愛が癒し、本当の平安を与えてくださるのです。

 その生き方も大きく変わります。自分自身が愛されていることを知った人は、目の前にいるあの人、感情的にはどうしても受け入れられないあの人にもイエス様の愛は注がれているということに気づかされます。人のつまずきになることを禁じるパウロが教える箇所で、このような言葉があります。ローマの教会に宛てた手紙ですが1415節、もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。私はこれを読んでハッとするのです。さらりと描かれていますが、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」それは、私であり、ここにお集まりの皆さんお一人お一人です。いや、イエス様は全ての人が救われることを願い、その罪の身代わりとなるために十字架にかかられました。私のための十字架は、あなたのための十字架でもあり、そしてまだ主の救いを知らない、しかし知らなければならない全ての罪人のための十字架でもあります。

 受難週のこの時、自らの罪を深く覚え、しかしそのためにこそイエス様が来られたということ、苦しみの道を通られたということ、十字架にかかられたということを深く覚えたいと思うのです。その先に、あの光り輝く復活の勝利と喜びがあるのです。