神の機会

❖聖書箇所 使徒の働き8章26節~40節      ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 ヨハネ12章24節

 

❖説教の構成

◆(序)この箇所について

 

①この箇所は、小さなパレスチナの宗教から世界宗教へ発展する第一歩が記されているところです。現在では世界総人口69億のうち、約19億がキリスト教を信じていると言われていますが、本日のところでは、カナンで誕生したキリスト教が世界宗教となっていった最初の様子が記されています。ちなみにエチオピアでは、今でもキリスト教の一派であるコプト教を基礎とするエチオピア正教というキリスト教を国民の多くが信じています

◆(本論)飛躍の背景

①福音が大陸を超えて拡がった背景を見て行きますが、まず、注目させられるのは、ピリポに対してなされた驚くべき命令であり、そしてその命令に黙々と従った姿勢です。聖書は26節、27節で少しも不思議がないようにごく簡潔に記していますが、考えてみると、これは大変に驚くべきことです。 

 というのは、ピリポは、前回のところで見ましたように、大きな成果をおさめたサマリヤ伝道の中心人物であり、立役者であったのです。長い間、反目しあっていたサマリヤの人々が福音を知り、救われたことは、ことさら大きな出来事だったのです。それゆえ、普通は、エルサレムに戻り、あらためて報告し、その意義が評価される筈でした。しかも、反対に、ピリポが直ちに行くように命じられたガザは、当時は荒れ果てて、人々が寄りつかないところだったのです。

 こういったことから分かりますように、福音が大陸を超えて伝えられたという背景に、この世の栄光ではなく、ただ神の御心に従った生き方をした人物がいたのです。  

 明治の頃に、日本の福音派に大きな影響を与えたイギリスの貴族出身であったバックストンという宣教師がいましたが、そのバックストンに続き、日本に来て、後に日本伝道隊を創設したパゼット・ウィルクスという宣教師もまたオックスフォード大学を優秀な成績で卒業し、将来が嘱望されていた人でした。イギリス社会の中で活躍することが期待されていたのですが、主から示されて東方の小さな国、日本に宣教師として来て、福音を伝えたのです。この講壇からよく話します安藤仲市師や多くの若者たちがこのバックストンやウィルクス師によって救われ、日本伝道の働きについたのです。福音派の有力な教団である日本イエス・キリスト教団は、このように当時世界の中心であったイギリスにおいて、とても恵まれていた青年たちが、この世的な栄誉ではなく、主の栄光を求めて、彼らから見て東の果てである日本に来て宣教したことから始まっているのです。

 

②こうして神の導きに従って実際に出かけたときに、ピリポは、荒れ果てていて、全く希望がないと思われていたところで重要な人に出会いました。私たちは全てを知っていますから、あたりまえのように読みますが、これは何を意味しているのでしょうか。それは主の備えた機会をピリポが受けとめたということを現しているのです。

 どういうことかと言いますと、ピリポが前述のように、とにかく一旦はエルサレムに行かせて欲しいとか、ガザは今は荒れ果てているではないか、或いはもう少ししてから行きますと言っていたならば、このところに出てくる巡礼から帰る途中のエチオピアの宦官に会うことはなかったのです。誰もが思うように、御使いが前もってこの宦官のことを明らかにするならば、ほとんどの者は従うのですが、主は、人の思いと違って事前にその全容を示さないのです。なぜなら、重要な役割を託す者を見定めるためです。ピリポは、主の導きを受けた時に、事前に何も知ることは

なかったのですが、その理解不能な導きに従ったことにより、主が備えた機会を捉えることができたのです。これは、神が用意してくださった機会を捉えるために必要なものは何かを示していると思います。神は、ご自分の計画を実行に移すに際して、人間的な力や能力を軽視されませんが、何よりも主の栄光、すばらしさが現れることを求める、主、みことばに従う従順な人を必要とされているのです。 

 それは聖書に出ている人物からも、また教会の歴史からも明らかです。実際は、主に用いられた人物たちよりも人間的にすぐれた者たちが多くいるのです。その知識、経験のゆえに人間的魅力に溢れた人々が、聖書のなかにも、2000年の教会の歴史においても溢れているのです。けれども、そのすぐれた人々は、神のご計画のために用いられることはありませんでした。用いられやすい器ではなく、神の栄光よりも自分の評価を求める、用いにくい器であったからです。この場面において、ピリポがイスラエルの大きな祭りに参加して帰る途中であった、エチオピアの女王の信頼が高い、(女性王族に仕えるために去勢されていた)宦官に出会い、個人伝道をすることができたのは、主がご自分の計画を実行するうえにおいて、最も重要な条件、主の栄光を第一として、主に従う生き方をしている人物、ということを満たしていたからです。

 

③これらを踏まえて、いよいよ、具体的な宦官の救い、洗礼のことになるのですが、この宦官とビリポの会話を通して感ずることは、はるか離れたエルサレムに巡礼に行くほど、熱心な異邦人改宗者である宦官は、ピリポとの会話から分かるように、聖書、この場合は旧約聖書ですが、聖書の中心を真剣に考えていた、求めていたということです。

 ここでイザヤ書53章を読んでいたとありますが、これは偶然ではありません。聖書全体を通して明らかにしている、人間の根本問題である罪よりの救いをはっきりと示している箇所であるからです。このことから分かるように、この宦官は人生の真理、罪の贖いを求めている者でした。自分の人生や人々の姿を通して、人の罪を深く感じていたのではないかと思います。そのような思いをもっていた彼は、このイザヤ53章から突然出会い、問いかけてきたビリポに、ここで言われているのは誰のことかと心から尋ねたのです。

 その宦官の真摯な求め、思いが伝わって来ましたから、ピリポは、この聖句から始めてイエスのことを宣べ伝えたのです。どんなことを伝えたのでしょうか。それは、先週、開いたローマ3章21節~25節でいわれているようなこと「律法によらない、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いを信じる信仰による義であり、すべての人に与えられ、なんの差別もない義であり、ただ、神の恵みにより、価なしに認められる義」です。選民を中心とした律法による時代が終わり、全世界に対して開かれた福音の時代が到来したと伝えたのです。その言われたことがよく分かり、自分にも救いの恵みが、エゼキエル47章9節のように(朗読)届いていることを心底信じることができましたので、彼は躊躇なく、信仰の表明としてバプテスマを受けたのです。

 

◆(終わりに)神の栄光を求める人

 

 私たちは、この箇所から、ピリポは、人間的栄光よりも神の栄光を求める者であったゆえに、神が備えた機会を捉えることができたということを知り得ます。最初に話したバックストンやウィルクスは、階級的考えが強いイギリスにおいてエリートの地位が約束されていたのです。引退したバックストンの家を訪ねた人があまりに宏大な敷地に驚いたそうです。そんな現実社会において恵まれた人たちが日本に来て、日本人のためにイエス・キリストの福音を伝えた結果、多くの青年たちが救われ、そして伝道者として立ち、今日まで広く影響を与え、その流れがはっきり残っているのです。この世的には多くを捨てたのですが、決してなくならない福音を人々に残したのです。昔も今も、神の栄光を求める人を、神様は豊かに用いてくださるのです。