聖書の中心

❖聖書箇所 ローマ人への手紙3章21節~26節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。    ローマ人への手紙 3章24節 

❖説教の構成

◆(序)この個所について

①本日の箇所は、聖書の核心にあたるところです。旧い契約、律法によってではなく、新しい契約、主イエスの福音によって、すべての人に対する救いの計画、御技が成就したと告げるところです。私は、この個所は聖書全体にとって神の救いの核心を伝えている極めて大切な個所だと思っています。

 

②このところにおいて、パウロは、人にとって大切な神の義~部分的でない、完全な、また一時的でない、永遠の救い~が実現していることを強調します。(21節) また、その義について詳しく説明しています。それは、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」であり、旧約、律法の民だけでなく、「すべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」ものであると明らかにします。(22節) さらに、そのような神の義が与えられた理由について、説明します。(23節~26節) 

   このところで、義という言葉が何度も出ていますが、人間の一番の問題である罪が赦され、神から義しい者とされ、神のこどもとされ、神の国に生きる者とされていることです。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくされました。」と言われている状態です。(第二コリント5章17節) 主イエスの福音によって、罪と死の支配から神の支配に移ったという恵みが既に与えられているというのです。

 

   ただ、神から義とされたとありますが、完全に罪がない者とされたという意味ではありません。全く罪がない状態、~神学用語で言うならば栄化~は、終末の復活の時に実現するのであり、義と認められることは聖化、主と似た者と変えられる、きよめられることの始まりなのです。

◆(本論)神が与えてくださった義の内容

①主イエスによって実現したこの神の義について、もう少しみことばを見て参ります。それは、次のようなものであると言います。

 第一に、「律法とは別」の「しかも律法と預言者~旧約聖書のこと~によってあかしされ」ている義(21節)だと言います。ずっと以前、旧約時代から預言されていたものだと言います。

 続いて、第二にそれは、「イエス・キリストを信じる信仰による」「すべての信じる人に与えられ、何の差別も」ない義(22節)、民族、国籍、立場、知識や行いによらない、ただ、自分の罪を認めて、主イエスの十字架の死と復活が自分のためであったと受け入れる、1章16節に言うごとく、すべての者に与えられる義であると言います。

 そして、そのような神の義が与えられたのは、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ」ないからであり、それゆえ、「ただ、神の恵みにより」キリスト・イエスによる贖い、価~対価、見合うもの~なしに認められる」義であると明言します。(24節)

   このように、与えられた義は、「旧約の実現として、神の時が満ちて与えられた義」「キリストを信じる信仰によって、すべて信じる人に与えられ、何の差別もない義」「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに認められる義」であると強調します。

 そして、それらをまとめるように「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、(人の罪のための) なだめの備え物として、公にお示しになりました。」世界に対して、はっきりと御子による義を現したというのです。

 

②続いて、その義が与えられたのは、「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られた」からであり(25節)、御心の時に「神ご自身の義を現すためであり、神ご自身が義であり、贖いを成し遂げてくださったイエスを信じる者を義とお認めになるため」であったと説明します。何やら執拗な感じすら受けますが、主イエスによる福音がどれだけ人に対するあわれみと慈しみとに満ちたものであったことを強調しているのです。

 

③硬くて難しい印象がありますが、私は、この箇所は、聖書のエッセンスだと思います。人間の一番の問題は罪であると指摘し、そしてその罪に対して、今までの旧約や律法とは違う、何と神の御子による贖いがなされ、そして、その神の義がすべての人に何の差別もなく、しかも対価なしに、ただ信ずるだけで与えられるというのです。

 この新しく示された神の義は、多くの人々の人生を暗闇から光、絶望から希望へと変えます。例えばルカ7章に出てくる婦人(36節~50節)も人生が変わった一人です。不義と不道徳な生き方のゆえに、町の中で知らない者が誰一人いないぐらいの人でしたから、町の者たちは、特に律法を厳格に遵守しようとしていたパリサイ派の者は、このような生き方をしてきた人は、決して救い、義と認められることはないと心底思い込んでいました。確かに、彼らが信じていた律法を中心とする考えにおいては、この女性が、どれだけ、自分の生き方、過去、現在に対して心から悔い改め、主を救い主、罪の贖い主として受け入れ、又この場面に出ているような献身と従順を現したとしても、神の義を受けるということはあり得なかったし、あり得ないのです。

 しかし、深い神の御心によって、本日の個所にあるような、豊かな恵みに満ちた神の義が実現したのです。この新しい、神の義が実現しましたから、人々がどのように見ようとも、主から「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカ7章50節) と言われているように、完全な救いを受け、新しい人生が実現しているのです。

 

◆(終わりに) 自分や人を見つめる者から主を見つめる者へ

 自分の罪を認め、主イエスの十字架の死と復活は自分のためであったと信ずる者は誰も、ここで言われている義、慈しみに満ちた神の義のゆえに、誰が何を言おうと豊かな救いを受け、新しい者と変えられているのです。

 聖書そのものに聴こうとしない人は、神から義とされること、救いについて自分の考えを当てはめて考えます。そして、神に救われる人は、神についての知識を持ち、正しくて清い生活を送る人だと考えます。これまでいい加減な生き方をして来た者は、決して神の救いを受けることなどないと言います。何と多くの人々が、今でも神が与えておられる救い、義を誤解しているでしょうか。中には、信じている人ですら、主ではなく、自分ばかり見つめて、本当は救われていないのではないかと思っている人もいます。

 神が与えてくださる救いは、いわば法廷における宣告のようなものです。人の意見や感情ではなく、私たちのすべてを知っておられる権威ある神からの公式の宣告なのです。あなたは既に神の愛する子とされています、古いものは過ぎ去って全てが新しく造られているという神の法廷での決定であり、宣言なのです。 もはやいろいろな声を恐れる必要はないのです。

 

   パリサイ派のような考えに惑わされてはなりません。人間的に言うならば、彼らの言うことはもっとものような感じがするのです。しかし、本当は、神が与えた福音を否定し、人を神から遠ざける考えなのです。主イエスもはっきり言われています。(ルカ18章9節~14節) 自分や人を見つめる信仰生活を送ってはなりません。ありのままを愛し、義を与えてくださった主を見上げながら、主よ感謝します。あなたを愛します、あなたを信頼しますと告白し、喜びを持って歩むことが大切なのです。まだの方は、是非この招きを無駄にしないで新しい人生を送ってください。