悔い改めと中身

❖聖書箇所 使徒の働き8章9節~25節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。            詩篇51篇16節、17節

 

❖説教の構成

◆(序)聖書がシモンについて特別に記す理由

 この箇所では少し変わったことが記されています。普通は、反対した者についてあまり詳しく言っていないのですが、ここでははっきりと名前をあげ、またしようとしたことも詳細に記しています。おそらくサマリヤの中で、それまで人々に与えていた霊的影響から恐れられていた人物であったゆえに、特に注目したものと思われます。

 使徒の働きの著者、ルカは、この人物のことを詳しくとりあげ、行動では悔い改めをしたが、表面的な、かたちばかりのものであったことを明らかにし、主の御前で真に悔い改めをしていない者の実態、特に力や金で神の賜物を得ようとする愚かさを指摘しています。

 

 なお、ひとこと説明しますと、ここで言うところの聖霊が与えられたことは、誰でも聖霊によらなければイエスを主と告白することができないと言われているように、実は既に聖霊の働きがあるのですが、使徒2章のように聖霊が与えられたことが明らかになる、見えるようになることを示しているものと思われます。

◆(本論)悔い改めの中身

①さて、シモンという人物については、9節から11節にありますように、街の片隅にいて、知る人は知っているという程度の人ではなかったことが分かります。サマリヤの街の人々全体に対して、強い霊的影響力を持っていた人でありました。こどもからおとなまでが、シモンこそ、人生に対して大きな力を持っていると恐れたのです。言うまでもなく、悪霊の働きですが、実際に人の過去や将来のことを言い当てるとか、病気の癒しなどの不思議なわざなどを行い、恐れられ、崇められていたのです。

 そんなシモンの霊的力が及ぶ中、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名、福音を宣べ伝えたのです。その結果、多くの者たちがシモンから離れ、主イエスの福音を信じ、男も女も信仰の表明としてバプテスマを受けたのです。そして、なんと多くの人々から恐れられていたシモン自身も、その詳細を記していませんが、信仰告白としてのバプテスマを受けたというのです。 

 しかし、シモンの場合、バプテスマを受けた理由、信仰の中身、特に悔い改めの中身が問題でした。聖書が記すところによると、13節、彼はバプテスマを受けた後、いつもピリポについて歩き、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていたとあります。罪と死の支配の中に生きていた者が福音を知り、生まれ変わり、人生が新しくされることよりも、しるしと奇蹟にばかり注目していたのです。また18節からのシモンとペテロの会話が伝えるように、彼は金で神の賜物を得ようとしたのです。それらから分かるのは、シモンは、確かに信仰の表明としてバプテスマを受けたけれども、それは表面的なかたちばかりのものであり、真の悔い改めによるものでなかったということです。

 

②シモンの悔い改めとはどんなものだったのでしょうか。想像するのは全くの偽りの思いというわけではなかったように思います。しかし、主イエスの福音による、人のうちにある罪の本質に気づき、またそれゆえに罪の実を結んでいることを受け入れたものではなかったものです。恐らく、キリスト者たちが自分も持っていた不思議なわざができるという霊的力を豊かに持っていることに対する驚きから信仰告白を行い、バプテスマを受けたものと思われます。

 悔い改めとは、よくお話しますように、自分の罪を認めて、生きる方向が変わることです。今まで、まことの神、創造主などいない、神によって生かされているのではない、自分で生きているのだ、自分こそすべての中心と思って生きていたことから、まことの神がおられ、神によっていのちが与えられ、生かされ、実は深く愛されていた、しかし、私はそのお方を無視し、背を向けて生きて、自分を中心としてさまざまな行いをして来た、何という生き方をして来たのだろう、これではいけない、この罪の状態から出て神のもとに帰ろうと方向をがらりと変えることです。勿論、それは、自分の力でできるのではありません。聖霊が働き、神が、そんな罪の生き方をしている者を最高の犠牲を払ってくださっているほどに愛しておられることに気づかせてくださるゆえです。このように、真の悔い改めは、自分の罪を知り、また罪の生き方が神の前に粉々に砕かれ、これからは神にすべてを委ねることです。

 神に愛され、神を愛し、いつも神とともに歩んだイスラエルの第二代目の王、ダビデが欲望によって、それまでのダビデには考えられない罪をいくつも犯したということがありました。部下の妻に対する姦淫の罪、またその事実を隠すために、その主人である部下を計略を用いて殺害した殺人の罪、何より神をさげすみ、神の栄光を汚した罪です。自分のしたことを指摘されたとき、歴史上、多くの絶対的力を持つ王たちがしているように、それらの罪をもみ消すこともできましたが、ダビデはそうしなかったのです。彼は、ひどく心が刺され、立場も栄誉も関係なく、真剣にそれらの罪を悔い改めたのです。いくつかの詩篇がこの時、作られていますが、中でも51篇が有名です。その16節、17節でこう言っています。「たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」直接的には部下やその妻に対する罪ですが、何よりもすべてをご存知であり、すべてを裁きたもう神に対して罪をおかした、自分の罪深さを認めて、心が粉々に砕かれ、もう一度、神にあって歩ませてくださいと願っているのです。これが悔い改めです。かたちばかりのものと全然違うのです。

 

◆(終わりに)この箇所が私たちに伝えるもの

 かたちばかりの悔い改めとともにシモンのもう一つの問題は、金で神の賜物を買おうとしていることです。こんな愚かなことをしないと言うのですが、歴史上、実際におこなわれているのです。例えば、免罪符という言葉を聞いたことがあると思います。プロテスタントの宗教改革のきっかけにもなったものですが、カトリックの教えの中に煉獄というものがあります。死後、天国と地獄が決められる前の中間状態のことです。亡くなった人のために、家族が寄付をしたり、善行をすることによって天国に行けるという考えです。金で神の賜物を買おうとすることです。また、今も金ではありませんが、善行によって、神の賜物、救いを得ようとすることです。 

 このところでシモンがペテロから厳しく咎められているのは、そのような人間の力によって神の恵み、賜物を得ようとしていることです。この考えほど、主に嫌われるものはありません。自分を中心に置く、基準とする罪そのものの現れであるからです。それは聖書が言う信仰による義と真逆のものです。信仰による義もまた個人の決断によるものですが、そこには自分の力によって救いを得るという考えはありません。自分の罪を認めて、砕かれて、そんな罪人に対する救いの御手をただ受け入れるだけです。シモンは、この福音の中心を知らず、むしろ自分が神を操作しようとし、それゆえ厳しくその誤まった考えを厳しく指摘されたのです。

 

 この箇所は、悔い改めの中身と信仰生活の喜びや希望が深い関係があることを伝えています。シモンのような中途半端な悔い改めは、信仰生活そのものが却って苦しくなることを伝えています。何か別のもの、それは結局、自分が認められることに他ならないのですが、それを求めることから離れられないことを示しています。私たちの悔い改めは自分が本当に砕かれたものでしょうか。