後退に見えても

❖聖書箇所 使徒の働き8章1節~8節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句   神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 ローマ8章28節

❖説教の構成

◆(序)この箇所について

 この箇所では、キリスト者、教会を迫害したパウロと、迫害を受けた側のエルサレム教会の人々の様子が記されています。具体的には、迫害を受けた、使徒たちを除くエルサレム教会のみながエルサレムからユダヤとサマリヤの諸地方に散らされたこと、またパウロがステパノを殺すことに賛成していたばかりでなく、教会の人々の家々まで押しかけ、男だけでなく、女性たちも無理やりに引きずり出し、次々に牢に入れ、教会を破壊したという暴力を働いたことが記されています。

 続いて、その後の様子として、散らされた者たちが各地でみことば、主イエスの福音、第一コリント15章1節~3節(朗読)に言っているようなことを伝えながら、ユダヤ、サマリヤの各地に行き、しばらく滞在し、また旅をしたことにより、福音が一挙に広がった、福音を信ずる者たちが各地で多く起こされたというのです。

 中でも6章に出て来る特別に選ばれた一人、ピリポがユダヤの人々と長い歴史的因縁があるサマリヤの町に行った時のことが詳しく記されています。ピリポがその町において、キリストこそ、すべての人の救い主であると語り、神の恵みのわざ、特に7節にあるようなことを行うのを見て、人々は、非常に驚き、彼の語ることに熱心に耳を傾けたというのです。そして、信ずる者たちが多く起こされ、この町に大きな喜びが起こったと強調します。 

 

 著者、ルカは、この箇所において、人の目には後退に見えたことが、実は神の目には確かな前進となったと言うのです。どんな苦境の中でも神とともに歩む時、主はその中でも働いてくださると明らかにします。では、内容を見て行きます。

◆(本論)危機は好機になった

①まるで升の中の豆がばらまかれたように、使徒たちを除くエルサレム教会のみなはユダヤとサマリヤの諸地方に散らばりましたが、しかし、散らされた者たちが行く所々において、みことば、主イエスの福音を伝えた結果、エルサレム近辺に限られていた状態からユダヤ、サマリヤの全土にまで福音が一挙に広がりました。

 拠点だった教会が破壊され、人々も散らされたわけですから、人の目には後退にしか見えなかったのですが、キリスト者たちが行く先々で、自分たちの喜びであった福音を証しした結果、大きな変化が起こったのです。

 特に、ピリポが、何百年にも渡って反目しあっていたサマリヤに行き、主イエスの福音を伝えた結果、サマリヤ人たちも福音のすばらしさを知り、又、恵みのわざを見て、その街において、大きな喜びの声があがったというのです。これまでのユダヤとサマリヤの関係を知る者には、考えられないことが起きたのです。

 今日でも世界のいたるどころで、元々は同一民族であった人々が激しく憎み、争っている状態が続いていますが、ユダヤとサマリヤもそんな関係だったのです。しかし、そのサマリヤの中に主の福音が入り、多くの人々が主を信じたというのです。エペソ2章14節にあるごとく、福音により、隔ての壁が取り除かれたのです。

 こうして、人間的には後退に見えた出来事が、前進の機会となったのです。ある書の中にこんな箇所がありました。「私たちは冬を嫌う。寒い冬などなければ良いと思う。しかし、冬こそ私たちにとって必要である。樹木は、冬の間には上にも伸びず、また外にも太らない。しかし、冬の間に下に向かって根を張る。また肌をさす寒風はありがたいものではない。しかし、この寒風こそ実は地中の害虫を殺し、来たる豊作の準備をするのです。冬こそ、土にとっては安息の時であり、その間に来たる年のめざましい活躍のための復活の力が蓄積されるのです。」寒い、厳しい冬こそ木々が芽吹く準備をする時であり、土が力を蓄える時だと言うのです。

 本日の箇所は、生まれて間もない教会が追い込まれ、突き放されたようになった、厳しい冬の時代でした。しかし、この厳しい経験が使徒の働き1章8節(朗読)の主のことばのように、却って福音の前進となったのです。

 

②私は、この時、迫害を受けたエルサレム教会の人々は、迫害を受け、エルサレムにおられなくなったから仕方なく、よその地方に言って福音を伝えようとしたのではないと思います。深く考えた末の行動だと思います。もはや安心してユダヤ人社会の中で生きることができないようになった、それどころか、命そのものも危険になった、主を信じる前と大きく変わってしまった。これから先、どうしたら良いのだろうと考えたと思います。

 当然、この先の不安や恐れを感じて教会の交わりから離れた人もいたと思います。けれども、大多数の者は、冬の間に樹々が、下に向かってしっかりと根を張り、大地を捉えて強くなっていったように、主を信じる以前と生きる状況は大きく変わったけれども、やはりこの福音は何にも代えがたい、福音を捨てることなどできないという内側から湧き上がってくる力と、ともにおられる聖霊の励ましによって新しい出発をしたのです。今まで経験したことがない、厳しい状況に立たせられた時に、福音がそれぞれの人生に与えてくれた力をあらためて思い、どんなことがあっても主の証人として立って行こうと深く決心したのです。勿論、それは聖霊の働きであり、その聖霊によって強い不退転の思いが与えられたのです。中でも、そのうちの一人、ピリポは、何百年も反目しあっていたサマリヤに行き、始めは警戒していた人々に、主イエスの救い、福音を伝えたのです。福音によって人生が変えられという内側から湧いてきた確信による行動でした。その主の愛に満ちた伝道活動が祝福され、その町に大きな喜びの声があがるまでになったのです。

 

◆(終わりに)この箇所が現代の私たちに伝えるもの

  終わりに、この箇所から教えられるもう一つ大事なことは、ここに出て来る人々は、確かに、ピリポは、6章で選ばれた人の一人でしたが、大多数はエルサレム教会の名もなき人々であったことです。しかし、その名もなき人々が、福音宣教の証しのために豊かに用いられたことです。

 ギボンというローマの歴史家が次のように言っています。「初代のキリスト教が急激に拡まっていったのは、一人ひとりのクリスチャンが熱心に個人伝道したからである。新たな回心者がその受けた無限の恩寵を友人間に伝えて歩くことを、彼らの最も尊い義務であり、喜びとし」たゆえであると言っています。社会について深い洞察をした歴史家が、キリスト教拡大の原因を探った時に、クリスチャン一人ひとりの生き方に突き当たったと言っているのです。これは傾聴すべき声ではないでしょうか。社会的地位とか栄誉、評判ではないのです。一人ひとりの、主イエスと結びついた生の姿、生の声が大きな力を持っていたというのです。この時、エルサレム教会の人々は、命の危険を感じていましたが、やはりこの主の福音から離れられない、それどころか、この福音は自分の人生を暗闇から光に変えたという確信を持っていましたから、それぞれは名もなき者でしたが、各地に行き、福音を伝えたのです。そして、その証しが用いられたのです。

 

 淡々とただ事実だけを記しているように見える箇所ですが、見逃してはならない重要なことを伝えています。散らされた人々が本当に主イエスと深くつながっていたことです。これは当たり前のように思うかも知れませんが、信仰生活において本当に重要なことです。それがありましたから、どんなものをもってしても彼らが持っていた主イエスの福音による平安、喜び、希望を奪うことができなかったのです。後退にみえた状況でしたが、その証しにより、却って前進になったのです。