わたしは主である

■聖書:出エジプト記6:1-7:7    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。(7節)

 

1. はじめに

 前回は、神の僕モーセと、イスラエルを奴隷とするエジプトの王パロとの最初の対話を見てまいりました。エジプトからの解放を伝えるモーセに対して、パロは「主とはいったい何者か…私は主を知らない」と発言します。彼は自分の手で全てが動かせる、自分こそが主であると思っていました。私は主を知らない、主なんて関係ない。なぜならば自分が自分の主であるのだから。これは彼だけでの考えではありませんでした。神の民、いわばモーセの教える神様を自分たちの神とするイスラエル人もまた、直接ではないにしてもこのつぶやきを持っていました。モーセを送り出し解放の知らせを待っていた彼らでしたが、その期待は脆くも崩れ去り、見えかけていた光明は閉ざされてしまったのでした。それどころか今までよりも重い労働を課せられてしまったのです。主もこのパロの前にはなすすべがないと絶望していたのです。そんな彼らの心の中には、やはり「主とはいったい何者か」という呟きがあったことでしょう。彼らは自分の願いを叶えてくれる神様を神様として待っていて、その願いにかなう知らせをしてくれた時は喜んで迎え、礼拝した。けれどもちょっと風向きが悪くなり、光が翳ってくるとすぐにつぶやくのでありました。パロもイスラエルの民も根本は同じです。前回はそのようなくらい雲に閉ざされつつある5章を学んできました。「主とはいったい何者か…私は主を知らない」という呟きがあふれていた世界です。私たちもまたこのようにつぶやいてしまうことがあります。このつぶやきは今も昔も変わらずに人を縛り付ける罪の姿なのです。

 しかしここにあって、モーセだけは違いました。彼が信仰にあふれていたわけではありません。現に彼の心は怒りや不安や疑いに満ち溢れていました(5:22-23)。けれども、彼もまたその他の多くの人のように、主を知らない、関係ないと言って再び荒野に逃げ帰るのではなく、5:22主の元に戻り、その思いの全てをぶつけたのです。そして主はそれに応えてくださるお方です。

 6:1それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」一度敗れたかのように見えたパロとの対決。それはこの世界、現実の高い壁を見せつけられたようなものでした。これは悪いことになったと誰しもが思ったことでしょう。イスラエルの人々にとって、眼に映る強い手、全てを支配する手は、パロの手に他ならなかった。主を知らないと言い放ち、自分の力を誇るパロの手です。けれども主は言われるのです。本当に物事を動かし、あなたがたを奴隷から解放させるのはパロではない、わたしの強い手なのだと。モーセでさえパロの強い支配に目を奪われ、疑い、諦め、悲しみに沈んでいた時です。しかし主は「今にあなたにわかる」と、人の目には途絶えてしまった道であっても、神様の計画は変わらずに進み続けていることを告げられるのでした。そして、そこかしこに溢れる「主とはいったい何者か」というつぶやきに対して、本日の箇所で神様は「わたしは主である」と、ご自身を指して語られたのでした。

 

2. 「約束の主であるお方を知る」(6:2-8)

 神様の強い御手がパロに勝利され、イスラエルを出て行かせるよう働かれる、そしてそれがあなたにも今にわかるとモーセを励まされた神様は、続けて語られます。司会者の方にお読みいただいた6:2-8を中心に今日は見ていきますが、「わたしは主である」という言葉が最初と最後、そして途中で言われていることに気づかれたでしょうか。まずは前半部分をお読みします。神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、主という名では、わたしは彼らに知らせなかった。またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いてわたしの契約を思い起こした。

 この前半部分は、神のしもべであるモーセに対して、主とはどのようなお方なのかを知らせています。神様が「主」という名はこれまで知らせていなかったというように聞こえますが、そうではありません。主という名前、ヘブル語ではヤハウェですけれども、この名前自体はすでに知られていました。この箇所を理解するのに大切なのは、ヘブル文化において名前を知る・知らせるということが何を意味するのかということです。それは単に知識として名前を知るのではなく、名は体を表すと言われるように、その名が表す、このお方の性質を知る、いやもっと深く、体験すると言ってもいいような表現です。全能の神として現れたと言われていますが、イスラエルの民は、祖先であるアブラハムに対して神様がどのようなことをしてくださったかをよく知っていました。年老いた彼に一人の息子を生まれさせ、今やエジプトをさえ警戒させるまでに増え広げてくださった神様、まさにイスラエルを生み出してくださった全能の神様を知っていたのです。これは新約聖書の時代でも変わらない認識で、石ころからでも命を生み出すことができると神様について語り継ぎ、その全能の神様が、自分たちのアイデンティティにも関わっていたのでしょう。そんな自分たちの存在にも関わる全能の神が、ここで「主」であることを知るのであります。「主」とはどのような意味を持つ言葉なのでしょうか。三つのポイントがあります。第一に、これはヤハウェと発音されるヘブル語で、3:14で見たように「ある、存在する」の意味であります。天地創造の始まりから天の御国が完成する時に至るまで、神は常に独立して存在するお方、変わることなく存在し続けるお方であるということです。人が忘れれば忘れられてしまうようなものではないということ、それを「主」という名前は意味しています。そしてそれに基づいて第二のポイントは、契約関係においても変わることなく忠実であられるお方であることを示す言葉です。神は全能の神であるだけ、存在し続けるだけで人とは何の関わりも持たないのではなく、人と契約を結ばれ、私たちの方は何度もなんども破ってきた約束に対していつも忠実な方であることを意味します。契約のゆえに神の民を助け出し、神の民の敵を罰し滅ぼされる方であることを示そうと言われているのです。契約の「主」という意味がありました。契約の内容については後半で語られますのでそちらでみることにしましょう。そして第三に、主というのは主人であり、主人の元には仕える僕がいます。ですから「わたしが主である」という時、それは関係を表す言葉であるとも言えるでしょう。僕は主人のために仕え、主人は僕のいのちを所有し、しもべが真に生きられるようにするものです。これは後半部分にも関わることですので、その時もう一度考えたいと思います。いずれにしても「主」とは、常に変わることなく存在し、それゆえに契約においても変わることなく忠実であられ、イスラエルの民を真に生かす、真の主人であるということができるのです。この箇所で「主を知る」とは、特に、契約を必ず果たしてくださる方を知り、その契約が成し遂げられることを経験することなのです。

 5節には、今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。とあります。思い起こすと聞くと、じゃあ今までは忘れていたのか、ということを考えてしまいますが、そうではありません。元々のヘブル語ではザーカル、「心に刻む」というニュアンスを含む言葉で、その時刻んで終わりではなく、刻んだものをいつまでも「覚え続ける」ということまで意味しています。思い出して終わりではなく、その心に刻んだことをいつもなぞりながら生きるということ。以前もお話ししたように、最後の晩餐でイエスさまがお話しになったこと「わたしを覚えて、これを行いなさい」というのはそのような意味を持っているのです。そして神様にご自身に刻みつけた約束は薄れることがなく、いっときもそれを忘れることはないのです。イザヤ書49:15女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」神様がそれを忘れることはあり得ず、私たちの目には主の強い御手が見えず、主との約束を見失ってしまう時であっても、6章の一節でモーセに言われたように「今に」という時が必ず来るのであります。その約束が口先だけの口約束に終わらないことを、まさにこのエジプトからの脱出を通して示そうと言われているのでした。だからこそ神様は、契約の主であることをお示しになり、その上で、イスラエルの民に語るのです。それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。

 ここには主が結ばれた契約がどのように実現するのかが後半部分で明らかにされています。現実の壁にぶつかり、やっぱり無理だったと失望、意気消沈しているイスラエルの民に対して、ご自身が契約を守られる主であることを示し、それを根拠に、約束されているものの素晴らしさを改めて教え、励まそうとされるのです。それは具体的にはエジプトによる虐げからの救出であります。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。「贖う」という言葉は聖書では重要な意味を持っています。ただ連れ出すだけでなくそれに必要な代価が支払われたということです。買い戻すと訳したほうがいいかもしれません。何が支払われたかについては、これから読み進めていく時に改めて教えられたいと思いますが、わざわざここで「贖う」と神様が言われていることは覚えておきたいと思うのです。あがないと聞いて思い出すのは、やはりイエスさまの十字架であります。イエスさまを信じるものに永遠の命が与えられ、救いがもたらされる。罪に支配されていた罪の奴隷が、神様の懐の内に入り、取り戻されるのでした。しかしそれには、イエスさまの十字架の血という代価が必要だった。それほどまでに愛されていることのしるしです。聖餐式はそれを心に刻み、その愛を覚えて生きはじめる。私たちは弱く、現実の壁にぶつかり、先の見えない問題の中でもがき苦しみますけれども、全能の神が、約束の主が、共にいてくださり、覚えていてくださり、驚くばかりの愛をもって、その御手で私たちを救ってくださる。これはすべての民が願っていたことです。

 けれどもそれだけではありませんでした。5節の内容はいわば解放と自由が与えられるというものです。しかし神様の契約はそれだけではなく、6節、わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。というところまであるのです。よくお話ししますが、苦しみからの解放は確かに嬉しいものです。けれども、同じような問題は生きている限り続くでしょう。苦しみの根本から解放されなければ、一つ一つの問題が過ぎ去ったとしても本当の解決にはならないのです。イスラエルの民にしても、エジプトからの解放が根本的な解決ではありません。いや、彼らはそれを求めていましたし、それがモーセによって明らかに遠ざかったように見えたので、失望し怒ったのです。しかし神様の計画でのゴールは違った。エジプトの奴隷であり罪に囚われていたイスラエルの民を解放させ、さらにご自身の元へと取り戻す。主とは何者かとつぶやき、自分が自分の主になっていた罪人は、まことの主人を知り、そのお方に属するものとされるのです。迷子の羊は、羊飼いの元でこそ本当の平安を見出すのであって、食べ物があればいいとか、危険なことがないとかではないということを忘れないでおきたいと思うのです。神に敵対する罪人ですが、神様はそんな罪人を招き、「わたしの子」と呼んでくださる。これらは全て「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」ということなのです。

 「わたしは主である」という言葉が3度出てきました。最初と最後、そしてイスラエルに言えと言われた言葉の最初にあります。この言葉が私たちのあらゆる不安や抱えている問題を解決する真理であると言えるのではないでしょうか。「わたしは主である」このお方こそが私たちを本当に生かしてくださるお方なのです。

 

3. 約束の主と私たちの弱さ

 モーセはこの言葉に力を得て、再び民の元へ訪れます。しかし結果はというと、9節、モーセはこのようにイスラエル人に話したが、彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。神様が素晴らしい約束を再び与えられても、神様ご自身が契約を必ず守られる主であることを表されても、民たちは聞かなかったのです。落胆と激しい労役のため、とあります。これは私たちにもよくあることではないでしょうか。神様がなんどもなんども語ろうとされているのに、気落ちした時、あるいは日々の生活・働きに忙しくしているとき、み言葉を後ろに置いて神の声に耳を傾けないということがあります。現実を理由にして顔を背けるならば、本当の祝福を受けることができないのです。このような民の反応は、再びモーセの心を砕きます。10-13節、主はモーセに告げて仰せられた。「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」しかしモーセは主の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」

 この箇所は、14節から27節の系図のあと、28-30節でも同じことが語られています。間に系図が挿入されて中断されていた神様とモーセのやりとりが再び始まるということでしょう。系図の意味についてはいろいろな考えがありますが、それは、どこを開いても神様が共におられ、助け、導いてくださった歴史の証明でもあります。全能の神が年老いた子供のいないアブラハムに約束を与え、契約の主が、あなたの子孫は空の星のように多くなるとの約束を果たされたのです。まさしくモーセは、そしてイスラエルの民一人一人が、神様がおられ、いつも自分たちを見捨てずに導いてくださったことの何よりの証拠なのです。系図はあまり面白くないものかもしれませんが、この人間の歴史の中でこそ主は働かれ、今日の自分がいるということを明らかにします。そのような系図を経て、28-30で再び恐れるモーセとのやりとりが始まり、そして71節から、そんなモーセを励ます神様の言葉が続いているのでした。

 イスラエルの民はモーセとモーセが伝える神様の言葉を受け入れませんでした。モーセの心はボロボロになっていったのでしょう。彼の本音が聞こえてきます。同胞であるイスラエル人でさえ、もはや私の言うことを聞こうとはしない。ましてどうしてパロが言うことを聞くだろうか。まさしく正論です。私は口べたであると、自分の能力を見ていては、こんなことはできっこない、解決なんてありえないと弱気になってしまいます。しかも相手はエジプト王パロ。一度完全に退けられた人物です。「主なんて知らない、関係ない」という罪人の代表のような存在です。しかし先ほどから見てきましたように、神様は「わたしは主である」とご自身を指して励まされたように、勝利のポイントは私たちの内側や周りにあるのではなく、神様にこそあるのです。

 

4. 命じられた通りに、生きる

 だからこそ神様は告げます。7:1-5節、主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。わたしはパロの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行おう。パロがあなた方の言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真ん中から連れ出す時、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」特に新しいことが言われているわけではありません。あえて言うならば、これからのことを通して、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。と言われています。先ほどイスラエル人に語れと言われた言葉の中には、7あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。とありました。ここではさらにエジプトが、主を知るようになるということが言われています。「私は主を知らない」と言っていたパロが、エジプトが、そしてイスラエルが、このお方を知る。このお方がイスラエルをどれほど愛し、このイスラエルを取り戻すためにどれほど力強く働かれるかを目の当たりにするのであります。その時、信頼していたものには祝福があり、さまたげようとしていたものには裁きがある。

 

 そしてモーセとアロンは三たび立ち上がる。6-7節、そこでモーセとアロンはそうした。主が彼らに命じられた通りにした。彼らがパロに語った時、モーセは80歳、アロンは83歳であった。主が彼らに命じられた通りにした。わかってはいるけれども、なかなかできないことは多くあります。ちょっと勇気を出して立ち上がっても、少し失敗するや否や簡単に怯えもうやめてしまうことは多くあります。物事が悪化するや否や、やっぱりこれじゃダメだとこの世の生き方をしてしまう。それどころか、立ち上がるまでもなく、現実はこうだから、自分にはこれこれがないからといって足りなさを数え、もっとふさわしい人がいるからといって、神の民として生きることを隠しながら生きるということだってあるのではないでしょうか。しかしモーセと言う人物はクリスチャンじゃなくても知っている人が多いと思いますが、決して強い人ではありませんでした。今日の箇所でもそうですが、何度もくじけますし、何度も恐れますし、何度も尻込みをします。しかし神様がそんなモーセを持ってあの大国エジプトに立ち向かわせ、勝利を与えられたということは、それ自体が私たちにとっての励ましではないでしょうか。私たちは弱く臆病です。けれども、約束を決して破らない「主」が私たちを愛してくださり、必ず勝利を与えてくださる。それに対して、「主が命じられた通りにした」というところにこそモーセの信仰者としての姿がありますし、そのような人には本当に多くの祝福が与えられるのです。

 

5. まとめ

 もう最後にしますけれども、この説教の後の賛美を新聖歌336「日暮れてやみはせまり」という賛美歌にさせていただきました。日が暮れる時、私たちの心は騒ぎ、闇が迫る時、見るべきところが見えづらくなることがあります。そうすると不安はどんどん大きくなり、家路を急ぎたくなるものです。しかし、だからこそ私たちは、主に頼るのです。いや頼ることができるし、神様もそれを求めておられる。主よともに宿りませ。宿ってください、ともにいてくださいと繰り返し歌いますが、本日与えられたみことばから考えるならば、どこかにいる神様を呼んでいるのではないことを思わされます。いつも変わらずに存在し共にいてくださるお方、にもかかわらずそれを忘れ不安になり恐れる私たちが、あなたが共にいてくださることを忘れずにいられますように、いつも覚えていられるように助けてくださいという賛美ではないかと思います。主の約束に信頼し、「わたしは主である」と繰り返し語りかけ励まして下さる神様と歩んでいけるよう、祈ります。