十字架の本当の意味

❖聖書箇所 ローマ5章6節~8節       ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 ローマ5章8節   

 

❖説教の構成

◆(序)十字架は残忍な死刑の方法

 

 古い歴史を持つ、ヨーロッパの街の大きな聖堂に高く掲げられた十字架は、本当に堂々としていて、威厳を感じさせます。また十字架のアクセサリーは美しさを感じさせます。しかし、ご承知のように、元々の十字架は決して格好良い、おしゃれなものではありません。元来は、犯罪人の手足に直接、太い釘を打ち込んで長時間に渡って激痛を与えて死に至らせる、残忍且つ残酷な死刑の方法でした。実にむごたらしい、犯罪人に対する憎悪と軽蔑に満ちた特別の死刑の方法だったのです。

◆(本論)驚くべき事実 

①ところが、そのような十字架刑を神の御子が受けたことを聖書は一番大切なこととして伝えるのです。栄光に満ちた神の御子、神ご自身でもある方が人として生まれ、この地上に来られたことだけでも驚くべきであるのに、その方が、最後、人の罪の身代わりとして、十字架刑まで受けてくださったと言うのです。しかも「私たちがまだ罪人であったとき」神に背き、自分中心の生き方を送り、さまざまな罪の実を結んでいたときにキリスト、救い主が神の御心、ご計画として最も残忍、残酷な死刑の手段である十字架刑を受けたと言うのです。

 聖書の中心から大きくはずれている異端が言うように、キリストの十字架は敗北、失敗ではありません。聖書は、旧約時代から一貫して、神に背き、罪の生き方をし、完全に罪と死に支配されている人を救うために、神の側が深い御心の実現として十字架の死を進んで受けてくださったと伝えています。(イザヤ53章等)

 主イエスはこの十字架刑により、私たちが受けねばならない罪の刑罰、本質的な背きの罪、そして具体的な罪の実のための刑罰を受け、死に打ち勝って復活され、私たちの罪の代価を完全に、永遠に払って、新しいいのちへの道を開いて下さったのです。始めてふれる人には、そのまま素直に受け入れがたいことだと思います。しかし、これが聖書が伝えることなのです。

 そんな人間の想像を超えた神の愛は、聖書に記されている、主イエス様の生涯からも分かります。主は、当時、汚れていると思われた人々、神の義、救いから除外されていると思われていた人々、アム・ハーレツ「ヘブル語で、地の民、塵の民」と呼ばれた人々がいました。たとえば取税人、遊女などです。最も大切な律法を学んでいない者たちです。従って神の救いを受ける資格がないとされた人々を主イエスは深く受けとめておられます。そして彼らへの愛を示し、救いに導いておられるのです。ルカ15章は、そんな主の御思いをはっきり伝えている箇所です。

 聖書が伝えている神の愛を、人間の感覚、思想によって変えてはなりません。元々の内容を人間の常識にかなう洗練されたものにしてはならないのです。人はとかく、神の愛についても、神と

愛されるような生き方をしている良い人との関係と捉えて、その最も重要な部分を変えてしまいやすいのですが、聖書が伝えるのはそんな立派な良い人を愛する愛ではありません。罪人を受け入れ、愛し、最高の犠牲を払う「目が見たことがないもの、耳が聞いたことがないもの、人の心にうかんだことがないもの」~Ⅰコリント2章9節~なのです。)

 

②なぜ、神は、罪人のために最高の犠牲を払ってくださるのだろうか。一言で言うなら創造主である神の愛は人間の愛と全く違うからです。人の愛の中心には、自分にとって喜び、力になる

何らかの条件があります。親だから、子だから、優しいから、魅力があるから等です。「…だからの愛」です。それに対して、創造主である神の愛は、条件によらない「…けれどもの愛」です。不敬虔な者、弱い者、罪人である者を、一方的に見返りをいっさい求めることなしに、最も大切なものを犠牲にする愛です。何故なら、確かに、人は生まれながらの罪人であるけれども、神によって命が与えられた存在であるからです。全ての人は神によっていのちが与えられ、生かされている存在であるゆえに、人がどのような生き方をしていても、ルカ15章に言うように、神にとって一人ひとり、かけがえがないからです。神と人との関係がこのようなものであるから、神は人(私たち)を愛し、救いの手を差し出され、最終的にその一人子(主イエス)さえも惜しまないでお与え下さったのです。

 

③福音書に出て来る実際の例を見て行きます。聖書に出て来る有名な女性の一人であるマグダラのマリヤは、もともと、中心地エルサレムから遠く離れたガリラヤ地方に住んでいた、生きる喜びとか希望と言えるものをひとかけらも持っていない女性でした。主と会う以前、七つの悪霊に支配された生き方をしていた女性でした。悪霊、すなわち、執拗に罪に誘い、その人の人生から全ての希望や喜び、平安を奪い、反対に自分や廻りの人々に否定的、攻撃的な考えや姿勢を取らせる存在が、マリヤの場合は七つの悪霊とあり、完全に支配されていた人だったのです。

 イエス様と会う前、このような状態でした。聖書は具体的なことを記していないが、恐らく、ガリラヤのマグダラで多くいた遊女の中心的な存在だったように考えらます。当然、自分のしていることについて人々からどのように思われ、又、神様からどのように裁きを受けるのか分かっていたのです。不道徳な、刹那的なその日限りの深い絶望と恐怖の生活を繰り返していた人だったのです。しかし、そんな生き方をしていたマリヤにイエス様が出会い、思ってもいなかった救い、新しい人生を与えてくださったのです。それまでのマリヤの心にあったのは、孤独であり、絶望であり、恐怖でしたが、全てをご存知の上で、惜しみなく愛し、招いておられる方を知ってマリヤの中心が変わり、生き方そのものが変わったのです。生きる喜び、希望、力が与えられたのです。今までの、律法中心の信仰では決して救われない人でした。主イエスによる新しい、信仰による義によって救いの恵みを受けることができたのです。本文は、見てきませんでしたが、ローマ5章6節~8節

にある通りの救いの道が開かれたのです。

 

◆(終わりに)主の十字架は私たちの人生の扉を開いている。

 私は、22才の頃から教会に通い始めました。しかし、教会に通ううち、私の心はかえって暗くなりました。教会の人々を見て、ここは、私のような者、実際の姿と外に現れている姿が大きく違っている者、本当は孤独で、生きている喜びも目的も持たない、不安や恐れでいっぱいになっている者が来るところではないと思うようになったのです。愛されるにふさわしい姿を持っている人々が集うところと思うようになったのです。

 

 そんな思いで教会から離れたり、戻ったりしながら、心の奥底は少しも変わらなかったのですが、友人が示してくれたみことば、ローマ5章8節のことばによって、主イエスの十字架の意味を知ることができたのです。罪人のためだという、その十字架の本来の意味を知ったとき、自分が考えていたこととあまりにも違う内容であり、本当に驚きました。そしてとても感動しました。自分の本当の問題が分かり、そしてそんな一番の問題に対して、神様の側が本当に深い愛によって解決を既に与えて下さっていたからです。このことを知った時に、これで生きていけると心から思いました。みなさんの中に以前の私と同じように誤解している人はいませんか。自分のような者は、神に愛される資格などないと思っている人はいませんか。そうではないのです。主は放蕩息子の父親のように、どんな生き方をしていたとしても帰ってくることを待っておられる方です。