主とはいったい何者か

■聖書:出エジプト記5章全節   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:「主を恐れることは知識の初めである。…」(箴言1:7

 

1. はじめに 前回までを振り返って

 出エジプト記を連続してみています。かつてモーセはエジプト王室で育つものでありながら、奴隷としてこき使われていたイスラエル人同胞を助けるために、エジプト人を殺してしまいます。しかも助けたはずのイスラエル人からも受け入れられず、それが原因でエジプトの地から逃げ出し、ミデヤンという地で新たな人生を歩み始めていた。彼は大きな失敗を犯し、人生につまずき、失意の中で第二の人生を過ごしていたのでした。けれども、そんな彼に神様は目を留められた。いや彼が生まれた時の不思議を思えば、この事件よりもずっと前、彼が生まれる前から彼を見守り、いよいよ、エジプトからイスラエル人を助け出すために彼を遣わされるのでした。前回までに、しかしそんな神様の呼びかけにもなかなか腰を上げないモーセを見てまいりましたが、いよいよ彼は立ち上がり、兄アロンと一緒にエジプトへ行き、そして王の前に立つのでした。本日の箇所は、いよいよ神様の召しに従ったモーセとアロンが、イスラエルの解放を求めて王のもとへ立つ場面から始まります。しかしそれは、ミデヤンの地から直接向かったわけではなく、まずは苦しむイスラエル人の元へと行くのでした。モーセが神様の呼びかけに素直に従わなかった理由の一つには、このイスラエル人に受け入れられなかったというかつての傷がありました。しかし神様の深い憐れみを聞いた民はその言葉を信じ、歓迎し、そしてともに神様を礼拝するのでした。前回の最後、4:30-31アロンは、主がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行ったので、民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。モーセにとって、イスラエルの民との礼拝は素晴らしいものだったでしょう。みなが同じ神様を見上げ、神様の決して見捨てない愛の眼差しに打たれ、喜びの賛美をささげて、礼拝をしたのです。そして、みなの期待を一身に背負い、王の元へと行くのでした。

2. パロとの対峙

 1節、その後、モーセとアロンはパロのところへ行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」モーセはパロの前に立つ時、御機嫌をとったり、自分の言葉で取り繕ったりごまかして言うことなく、神様がどうお語りになったかをバシッと語ります。当時、イスラエル人はエジプトの奴隷であり、奴隷とは所有物、物同然に扱われていました。生かすも殺すも所有者次第、命を握っていたのであります。当時の世界を見回しても巨大な権力・軍事力を持っていたエジプト。その王パロは奴隷イスラエル人の所有者であり、奴隷イスラエル人は、このパロのために生きている・生かされている存在であると考えられていた。そんな王に対して、「わたしの民を行かせ、わたしのために祭りをさせよ」というのですから、パロ中心の生きかたを強いられた民を、本来の主である神様のもとに取り戻すという強い意志が溢れていたのです。それに対してパロは、本日の説教題にもさせていただきました言葉を告げます。2節、パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」「主とはいったい何者か。…私は主を知らない。」当時エジプトの国内では絶対的な権力を持ち、神として礼拝の対象であった王、パロにとって、自分の所有物であるイスラエル人を「わたしの民」と呼び、奪おうとする神とはいったいなんなのかという気持ちがあったのでしょう。もちろんこれは純粋な疑問として何者かを知ろうとしているのではなく、「主がいったいなんだというのだ」とでもいうかのような挑戦的な言葉であります。それでもひるまずにモーセとアロンは伝えます。今度は、3章の18節で神様が言われた、ほぼそのままを伝えるのでした。すると彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で私たちを打たれるからです。」パロにこれを語るということに大きな勇気が必要であったことは想像に難しくありません。王に意見すること、しかも彼らは奴隷の立場ですし、かつてモーセはエジプト人を殺した罪で命を狙われていましたから、普通だったら、今までのモーセだったら、この場に立ち、ましてやパロに立ち向かうことなんてできなかったでしょう。けれども彼らはあくまで神様の言葉を伝え続けるのでした。「主とはいったい何者か」という嘲り、神を知らずに生きている世界に立ち向かうのであります。

 彼らが求めていることは、自分たちの神に向かって、礼拝を捧げるということです。昨日(211日)は建国記念の日、キリスト教会では「信教の自由を守る日」とされています。かつて礼拝を守ることができず、神を第一とする生き方が当たり前ではなくなったことを受けて、もう二度とそのような過ちを犯してはならないと定めたのであります。私たちの弱さにもこの自由を手放してしまうことがありますし、または国家がこの自由を巧妙に摘み取ろうとする危機的な時代があり、まさに今日のもそのような暗闇に戻りつつある時代であります。しかし、出エジプトの時代、奴隷としてもの同然に扱われていたイスラエルの民には、守るべき自由なんてそもそもありえなかったのです。モーセたちの訴えは、その自由を求めての声のようにも聞こえます。それを言い換えるならば、自分たちは誰の物か、誰に生かされているのかを訴える・告白することでもあります。前回、神様の言葉に従ってようやく重い腰を上げたモーセを神様は殺そうとされた場面を見ました。それは割礼、いわば神様を第一にすることを怠ったからであります。出発に際し、神様はまずそれをただされた。言い換えれば、彼はそこで神を恐れ、神を第一とする生き方、すなわち礼拝の重要性を学んだのでした。だからこそ、神の民とともに礼拝を捧げることは何よりの喜びでしたし、その自由を願い求めたのです。

 しかしパロは全く違うところを見ていました。4-5節、エジプトの王は彼らに行った。「モーセとアロン。お前たちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。お前たちの苦役に戻れ。」パロはまた言った。「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。そしてお前たちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。」礼拝を守らせて欲しいと願うモーセたちに対して、パロは、お前たちは奴隷の仕事をやめさせようとしている、苦役を休ませようとしているとしか見ていないのでした。極めて現実的なと言いますか、数が増えたイスラエル人労働力という現実的な目に見える問題の方が、パロにとっては大きな関心ごとだったのです。彼らが作らされていたのは、パロの偉大さを表す巨大なピラミッドや巨大建造物でしたから、どこまでも自分の権威のためだったのです。それゆえに、「主とはいったい何者か」という先ほどの発言も出てくるのでしょう。「私は主を知らない。」それが自分と何の関わりがあるのか。これは神なき世界、あるいは自分自身が神となっている罪人の言葉であると言えるです。

 エジプトの王としては、そこには恐れがあったのかもしれません。数が増えたイスラエル人は労働力としては捨てがたいものであると同時に、力を増してきていることも意味しています。現に一章では、その反乱を恐れた当時のエジプト王が命令を出し、イスラエル人の家に男の子が生まれたら殺さなければならないと決めました。恐れがこんなにも残虐な命令を下させたのでした。恐れが壁を作り出し、人々を傷つけるとも言えるでしょうか。ここでのパロも本質的には変わらず、彼らをたとえ三日でも自由にしたならば、反逆のきっかけになってしまうと恐れた。だから働かせるだけ働かせ、反逆する力をなくし、そんな考えさえも思い浮かべないように痛めつけるのでした。6節から9節をお読みします。その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。「おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください』と言って叫んでいるのだ。あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りの言葉に関わりをもたせてはいけない。」神を神とし礼拝することを、なまけ者が仕事をサボる理由だとしか考えず、「わたしの民をわたしのために行かせよ」との神様の声を、偽りの言葉と蔑むのでした。

 

 何れにしても、パロの言動は神を恐れず、現実の目に見えるところに心が奪われている姿を表すのです。しかしこれは、今日の私たちの周りにも、いやクリスチャンである私たちの中にさえある考えかもしれません。パロは非常に合理的・現実的です。現実的であることが悪いわけではありません。しかしその現実のうちに、神様を知っているかいないか、神様を見ているかいないかは、大きな違いであります。そして往往にして私たちは、現実・現実的なことと神様を切り離して考えてしまうことがあるようです。現実が神様とぶつかる、といった方がいいかもしれません。教会から出たら、月曜日が始まったら、違う現実生活が始まり、神様をちょっと後ろに追いやって生活する。そんなことはないでしょうか。現実生活と信仰生活を切り離してしまう。信仰的には神様を第一にしたいのは山々だけれど、現実問題を考えるとちょっとそれはむずかしい。このせめぎあいに苦しむ人は少なくないでしょう。しかし、現実の中に神様を見ない者、目に見える所に囚われてしまっている人は、物事の見え方が大きく違ってきます。

 新約聖書のパウロの言葉を思い出します。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1コリ1:18まさしく同じ神様のことば、そして礼拝を見ていても、信じる者とそうでない者には全く別の者であるのです。そして多くの罪に死んだ者にとっては、そのいのちのことばは、神を第一とする生き方は、価値のないもののように映っている。私たちの中でも、いつの間にか神様のことば、神様への礼拝の位置を、現実問題の下に下げていることはないでしょうか。実はパロの厳しい命令を受けたイスラエル人にも、その「主とはいったい何者か」というつぶやきは現れているのです。少し長い箇所ですが、重い苦役を強いられたイスラエルの民たちの反応が描かれる10-19節をお読みします。

 

3. 人夫がしらたちのつぶやき「これは、悪いことになった」

 モーセとアロンが王の前に立った時から、事態は悪化するばかりでした。しかし、苦役が悪化した理由は、最初イスラエル人たちには伝えられていなかったようです。ある日突然、これまでにも苦しかった仕事がより一層厳しくなった。理不尽な苦役を強いられるようになったわけであります。これまで与えられていたれんが作りの材料、今度はそれさえも自分たちで集めるようにと命じられたのでした。ある人はわらを探しに、ある人は今まで通り煉瓦造りを。しかし人数が二分されたからといって、れんがのその日その日の数を減らしてはいけないと言われているのですから無理難題です。人夫がしらは、あまりに理不尽な命令に対して皆を代表して王に直訴します。しかしそこで言われたのは、「私たちの主にいけにえをささげに行かせてください」というモーセとアロンのことばでした。パロは明らかに意図してこのように言ったのでしょう。

 

 これは冒頭でも見ましたようにイスラエル人皆の願いであり、同意であったはずです。しかし最後にお読みしました519節、「これは、悪いことになったと思った」という言葉は、モーセとアロンに対して余計なことをしてくれたな、とも取れる怒りの言葉でもあります。現に人夫がしらは強い口調で、心配だったのでしょう迎えに来た二人に言います。20-21節、彼らはパロのところから出てきたとき、彼らを迎えに来ているモーセとアロンに出会った。彼らはふたりに言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたはパロやその家臣たちに私たちを憎ませ、私たちを殺すために彼らの手に剣を渡したのです。」この人夫がしらたちもまた、パロと根本は同じで現実の目に見えるところだけを見ていたと言えるのではないでしょうか。彼らは主の言葉と助けを信じ、礼拝してモーセたちを送り出したのですが、その目は、目に見えるところの現実がすぐさま変わるということだけを願っていたのでしょう。すぐに現状を打破してほしい。そう願うことは当たり前かもしれません。しかし、それにとらわれて神様の計画を忘れ、見失ってしまうことがよくあります。自分の願ったことをかなえてくださる神様を作り出しているということになる。これはイスラエルの民がずっと持ち続けている弱さであります。出エジプトが実現した後、彼らは食べ物に困ると、エジプトの方が良かったとつぶやき不満を口にします。彼らは目に見える自分たちにとって良い神様の像を作り上げました。それは神様が願っている礼拝、神様を第一とした生き方ではなく、自分たちの願う神様を形にした偶像礼拝です。自分たちの願う結果を与えてくれる神、そしてそんな良いニュースだけを告げる神の使者を求めるのでした。そのような目に見えるところしか見ていない人夫がしらたちは、イスラエルの民の真の幸福が何かをわかっていなかったのです。彼らは確かに神様の言葉を喜んで受入れはしたけれども、それが今の生活を悪くするや否や、現実にしがみつき始めたのでした。民のかしらたちは、物事の根本的な解決よりも、現状が悪くならないように、なるべく苦しまないようにすることを願っていた。しかしモーセやアロンは、現状のままであることが不幸なのであり、現状から解放されない限り、本当の幸福はないのだと考えていたのです。モーセたちの要求によって、確かにイスラエル人の重労働は一層厳しいものとされました。しかし、そのことなしに彼らの救いはなかった。神様の計画は進まなかった。私たちも含め、人間は一般に保守的で現状肯定主義者であります。悪くなるより現状維持を求めてしがみつきます。しかし、しがみついている現状は本当に神様が喜ばれるものでしょうか。そうではない場合、それは「主とはいったい何者か」というパロのつぶやきと同じように、まことの神を「私は知らない」ということと同じなのです。しがみついているものが罪であるとき、一時的には苦しむようなことがあっても根本的原因を解決しない限り、本当の救いも幸福もないということを覚えたいと思うのです。さらなる喜びのために、いっときの痛みを受けることはあります。けれどもその先には、いっときの苦しみをかき消してなお余りあるほどの喜び、祝福があるのです。エジプトの奴隷とされていたイスラエル人にとってそれは自由が与えられること、神の民として神を第一とする生き方ができるようになることですし、私たちにとっては罪の奴隷から解放され、神とともに歩み、新しいいのちに生きる喜びであります。しかしパロも人夫がしらも、そのようなことには目もくれず、目に見えるところに囚われており、「主とはいったい何者か」とのつぶやきを漏らすのでありました。

 

 そんな人夫がしらの言葉を聞き、モーセはかつての辛い出来事を思い出します。エジプト人にこき使われていたイスラエル人を助けようと、モーセはエジプト人に手を挙げ、殺してしまいます。しかし助けられたイスラエル人が感謝したかというとそうではなく、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか」と言われたのです。「あなたがたはパロやその家臣たちに私たちを憎ませ、私たちを殺すために彼らの手に剣を渡したのです。」これはまさしくあのときの、受入れられなかった辛い痛みを思い起こさせたでしょう。かつてのモーセはその言葉を聞き、恐れてミデヤンの地に逃げ隠れました。主に行けと言われてもなかなか立ち上がらなかった、立ち上がれなかったのは、その痛みがあったからかもしれません。それども神様に出会い、何度も励まされてようやくやってきた。恐れていたイスラエル人にも受け入れられ、みなの期待を背負ってパロの前に立ち、神の言葉をまっすぐに伝えた。けれども、事態は良くなるどころか、悪化するばかり。あのときのようにイスラエルの民からも冷たい目を向けられている。神様、話が違うじゃありませんかと叫びたくなるのもわかります。22-23節、それでモーセは主のもとに戻り、そして申し上げた。「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。なんのために、私を遣わされたのですか。私がパロのところに行って、あなたの御名によって語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。」モーセもやはり神様に怒りをぶつけているようであります。強いことばで「少しも救い出そうとはなさいません」ということは、彼自身が失望していたからでしょう。5章は全体として暗い雲が立ち込めているような印象受けます。人夫がしらのつぶやく「これは悪いことになった」がまさしくぴったりのようです。

 けれども、そんな暗雲の中でも一つの光が見られるのです。それは人夫がしらとモーセの決定的な違いにありました。人夫がしらは神の使いであるモーセとアロンに怒りをぶつけましたが、モーセは「主のもとに戻り」、主に対して想いをぶつけているというところに違いがあります。かつての彼でしたら、先ほどもお話ししたように、大きな失敗を犯してしまった時、仲間に受け入れなかった時、身の危険を感じた時、一目散に逃げ出しました。それは彼が自分の想いで立ち、自分の力に頼ったからであります。しかし今度は違う、彼は神と出会い、神の声を聞き、決断して行動していたからであります。立たせてくださったのは神様でした。そのような人は、たとえ困難にぶつかったとしても、遣わしてくださった主のもとに戻り、祈ることができるのです。確かにモーセのことばは怒りや失望に満ちています。けれども、主はそれについて不信仰なものだ、弱いものだと言って跳ね返したりすることはせずに、それを受け止め、答えを与えてくださるのです。これはすでに言われていたことですけれども、それを再度、強調してお与えになる。次回詳しく見ますが、6:1それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」

 物事は何一つ良くなりそうにもない暗闇の中で、唯一の光としてモーセが主に祈ったことで与えられた、希望の言葉です。わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。私たちには、現実の困難さの前に立たされた時に、その意味がわからずに苦しくなり悲しくなることがあります。時に誰かにその怒りをぶつけてしまったり、あるいは「主とはいったい何者か」といって神様の前から離れてしまうこともある。信仰的にはそうだけれどと、現実問題とは区別して考え、この世の目に見える解決に頼ってしまうこともあります。けれども、主に祈る時、必ず答えを与えてくださるのです。神様のご計画のすべてを知ることは私たちにはできません。今の苦しみの理由をすべてわかることなんてないのかもしれない。けれども神様は、私たちを決して見捨てることはないのです。そして、「今に」と言われる時が来れば、それまでは刺繍の裏面を見る時のように何かぐちゃぐちゃしていたものが、きれいな模様、神様の素晴らしい御手によって織り成された栄光を見るようにされるのであります。主のなさることはすべて時にかなって美しい。その神様が、私たちの想像をはるかに超えて美しい「今」という時を定めていてくださる。その時までいっときの苦しみがあったとしても、私たちが主の元に戻り祈る時には何度でもその日の来ることを、その希望を教えてくださるのです。

 

4. まとめ

 長い箇所を駆け足で見てまいりましたが、パロもイスラエルの民も、形は違っていても同じ現実の、目に見えるところに囚われていた者たちでした。神様のこと、神様の言葉、神様を礼拝することよりも、現状を守るためにしがみついているものです。しかしそこに本当の救いはありません。本当の自由はないのです。本日の箇所は私たちに、私たちがどこを見て生きるのかを教えているのではないでしょうか。特にこの時代にあって、現実的なものが神様の上に置かれることが多い時代にあって、しかし神様は確かに歴史の現実に生きて働かれるお方であります。私たちは目に見えるところにではなく目に見えないところにこそ目を向け、いっときの苦しみや悲しみの中でも絶えず主の元に帰り続け、主を礼拝することを第一にしていきたいと願うものであります。「主とはいったい何者か」という世界に対して、主を恐れ礼拝することから始める者でありたいと願うのです。その時にこそ主は、決してなくなることのない希望を与え、本当の自由といのちを与えてくださる。四方八方が塞がれているような現実の中にあっても、いつも開かれている天の父なる神を見上げつつ、新しい週も歩み始めて参りましょう。