神の恵み、民の行動

❖聖書箇所 使徒の働き7章39節~53節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句  「 夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。-主のみ告げ-」

                             エレミヤ23章28節

❖説教の構成

◆(序)この箇所について

  自治の中で最も権力を持っていた議会でのステパノの説教が続きます。本日の箇所は、これまで話して来たようなイスラエルの歴史において神の側が示した真実、恵みに対して、民の側はそれらに対してどう振る舞ったのかについて語っているところです。この民の側の姿勢について、ステパノは容赦なく、厳しく語っています。では、具体的に見て行きます。

 

◆(本論)民の側の振る舞い

①まず、第一にイスラエル最大の出来事である出エジプト、それは前の箇所で見たように神の側が

民族の父祖、アブラハムに対して与えた約束を忘れていなかった、神は恵みと真実を示されたということに他ならないことですが、その最大の出来事である出エジプトに対して、人の側は、その出来事の意味を受け止めようとせず、不平不満を言いがちであったと言っています。

 それに関して、二つのことを指摘しています。一つはエジプトから民を導きだしたモーセがシナイ山に登り、一時不明になった時に、彼らがとった行動です。この際とばかり、彼らは、もはやモーセに従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、「私たちに、先立って行く神々を作ってください。私たちをエジプトの地から導きだしたモーセは、どうなったのかわかりませんから」と、モーセと共に民たちを導いてきた兄アロンに対して言い、金の子牛を作り、ささげ物をしたというのです。出エジプト32章1節~6節にこの時の出来事が記されています。ここを見ると、民たちは、作った子牛像に対して、主に対すると同じように全焼のいけにえや和解のいけにえを供え、すわっては飲み食いをし、立っては戯れたとあります。神への恐れなど少しも持っていません。自分たちの思うような神々を作り、それを自由勝手にまつり、そして、欲望を爆発させているのです。

 

 自分たちは、どうして、あのエジプト、確かに食べるものには困らなかったが、しかし、神の民とされていながら苦しめられ、隷属させられ、自由が少しもなかったエジプトから脱出したのか、何のためにこの旅に出たのか、この先には何が待っているのか、彼らは大切なこととして受けとめていなかったのです。ただ、指導者であるモーセに率いられて、この旅に出たという思いだったのです。ですから、ステパノは、この出エジプトの旅路全体、それは彼らの不信のゆえに結局約40年になったのですが、総括して、42節、43節にあるようなものだと語っているのです。(朗読) ここで言うモロクとかロンパというのは偶像の神のことです。主は、イスラエルの民たちは、大きな恵みを受けながら不信に走った、それゆえ、主も彼らに厳しい裁きをくだすと言われたのだと語ります。

②さらにステパノは、イスラエルの先祖たちの不信を指摘します。44節から50節です。(朗読)

このところは、幕屋と神の宮について言っているところです。旧約時代、実際に、幕屋を言われた通りに忠実に作り、それを次々に受け継ぎ、時至ってソロモンの時代に宮を作ったのであり、少しも問題がないように見えますが、イスラエルの先祖たちは大事なことを見失っていたというのです。本来は、使徒の働き17章でパウロが言うごとく「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。」と

いう方であるのに、先祖たちは、幕屋を作り、主の宮を作っていたから、自分たちは忠実な主の民と思っていた、幕屋や主の宮を持つ民にとって一番大切な、へりくだって主をみあげる、主の臨在を深く感じて主に従うことをしていなかったと厳しく指摘しているのです。

 

③このように聞いている議会の議員たちの怒りを招くような言葉を続け、最後に、ステパノは、あなたがたはそんな先祖たちとなんら変わらないと激しく責めています。51節から53節です。かたくなで、心と耳に割礼、主の民であることのしるしを受けていない者、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっている者、主にある真理や喜びを奪う者たちと言うのです。そして、さらに先祖たちは主から遣わされた預言者たちを迫害、殺したが、あなたがたは預言者たちが伝えた救い主その方を殺害した、あなたがたは律法が与えられていることを自慢しているが、本当の意味で主の律法を守ったことがないと容赦なく指摘しています。

 先祖たちのことを指摘されただけでもはらわたが煮えくるような思いを持っていたところに、あなたがたも同じだ、いや一層、主の御心を理解しない、鈍い、高ぶっていると指摘されたのです。主の民であることに誇りとプライドを持っているが、主に喜ばれていないと完膚無きまでに、徹底的に批判されましたから、怒りの炎が高く立ち上ったのです。けれども、ステパノが目指したのは、高ぶっていた者たちがへりくだり、主の御顔を仰ぎ見るようになることでした。主の側があわれみ、真実を尽くしているのに、それを受け止めないことをこれ以上繰り返してはならない、心から悔い改めるべきことを伝えることでした。

 

◆(終わりに) 甘えと愛は違う

  私たちは、本日の箇所から二つのことを教えられます。一つは、どれだけ愛する者であっても主の真理を伝える必要があることです。神が一人ひとりのすべてを知っておられ、主の前に立つ時、善であれ、悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになっている、喜びと希望をもって主の御前にたつことができるよう、準備をしなければならない、本当に悔い改めて主の救いを受け入れなければならないと伝える必要があるのです。何でもいいよ、神はそれを受け入れると伝えるのは間違いです。愛しているのではなく、ただ甘やかしているだけです。 

 甘えと愛は違うのです。何でもいいよ、いいよと言うのは甘えです。間違っているならそれを指摘するのが愛です。ステパノは、主の民とされた母国を深く愛していました。ですから、先祖たちの誤っていること、そして現在の者たちが間違っていることを容赦なく指摘したのです。

 この箇所から教えられるもう一つは、主の恵みを与えられている者としての姿勢です。当然だと思ってはなりません。ましてや自分たちを誇ってはならないのです。私たちに与えられている救いの恵みは、私たちが神に受け入れられる清い生き方をしていたからではありません。ただ、主の側の一方的な恵みなのです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」とヨハネが言う通りです。(第一ヨハネ4章10節) 私たちに求められているのは、この一方的な愛、恵みに心から感謝し、賛美し、主を喜び、従うことなのです。

 

  牧師になってから37年間経とうとしています。その間、信じた人々が洗礼をうける場面に立ち会いました。残念ながら、信仰から離れた人々もいますが、今も変わらずに信仰生活を送ったり、クリスチャンとしての信仰の生涯を全うし、天に行かれた人々のことを考えると、この、ただ主の恵みに感謝している姿があるように思います。他の人々との比較ではなく、また救われたのは、あたりまえだと思うのでもなく、罪人であったこんな自分が救われているという驚きを深く持っている人のように感じます。そして、その恵みに心から感謝している人です。その主はいつまでもいつも共におられる方です。これからも、主のよくしてくださったことを忘れない者でいましょう。