交わりの喜び

■聖書:ヨハネの手紙第一 11-4節   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

(ヨハネの手紙第一1:3

 

1. はじめに 目に見える壁がつくられる世界にあって

 高校生のクラスで、「教会とはどのようなところか」を尋ねました。ある一人の男の子が、「心身ともに温まる場所」と言ってくれたことがとても印象的で、私にとってとても嬉しいことだったんですね。それは私自身がそのように感じて教会で育ってきたからということもありますし、言い換えるならば、ここが自分の居場所、安心していられる場所だと感じてくれているんだとしたら、それはとても素晴らしいことだからです。

 とりわけ、今日の社会を見ますときに、それはとても大きな意味を持っていると思います。アメリカでは新大統領が就任し、壁について、選挙中から大きな問題を投げかけていました。キリスト教会の中にも賛否両論ありますが、やはりそれは誰かを除外し、自分を、自分たちを中心にする生き方の象徴であると言えるでしょう。聖書には隔ての壁という言葉が登場します(エペソ書2章)。人は皆、神に背を向け、神なんて必要ないと壁を建てる罪人であると聖書は教えます。さらにその神と隔たった罪人は、人を本当の意味で愛することができなくなりました。自分を捨てるほどの愛を、どこまでいっても自己中心の人間は持つことができないのです。そう考えると、今日問題となっている壁は、国と国、民族と民族を隔てる壁でありますが、私たちの中にも確かにあり、神を退け、人を愛することができない壁となってすべての人にある者と言えるのではないでしょうか。心から安心できる関係を持つことができない孤独の中に人は置かれているのであります。

 そんな中で、「心身ともにあったまることのできる」教会というのは決して当たり前ではないのです。その交わりの大きな喜びを、みことばから教えられていきましょう。    

2. 目に見える愛、いのちであるイエス様   

 本日の箇所、先程お読みいただいた第一ヨハネ11-4節は手紙の冒頭部分であります。この手紙を書いたヨハネという人は、聖書の中では福音書や黙示録を書いたヨハネで、イエス様の十二弟子の一人でした。元々は兄弟で漁師をしていましたが、兄弟でイエスの弟子となり、イエス様の伝道旅行に同行した人物です。キリスト教会に限らず世間一般的にも歴史や倫理の教科書などで名前は知られているイエス・キリストを、身近な存在として知っていたのであります。そんな人からの手紙であることを頭に置きながら、本日の箇所を見ていきたいと思います。少し分かりづらい文章なのですが、2節は挿入句で、3節前半までが一つの文章となっています。1-3節前半部分をお読みします。初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。私の見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。

 

 少し入り組んだ文章ですけれども、要するに、ヨハネは自分の体験したことをこれから伝えようとしていて、それは、この手紙の読者がともに交わりを持つようになるために伝えるのだというのです。伝える内容は「いのちのことば」についてです。いのちのことば、2節では永遠のいのちと言われています。それはイエス・キリストであると考えられています。ヨハネは福音書の最初、このように語り始めます。「はじめに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」そして14節、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」世界のはじめから神とともにおられ、ことばであるお方は、あのクリスマスの日、人として世にこられたイエス・キリストでした。また同じヨハネ福音書の中でイエス様がご自身を指して言われたことばを思い出します。「わたしはよみがえりです、いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

 まさしくことばであり、いのちそのものであるお方、それがヨハネが伝えようとしているイエスキリストなのでした。このお方が世にこられ、しかも遠いところにではなく、一介の漁師にすぎないヨハネのもとに訪れてくださったのです。ヨハネはその体験を色々な角度から語ります。そのいのちのことばは、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったものである。特に後半の二つは、イエス様を間近で体験・体感したことを表しています。この手紙が書かれた時代は、イエス様が活動されていた時期からおおよそ30年ほどが経っていたと考えられています。読者はイエスのことを話しで聞いただけでした。新約聖書もまだまとまっていませんでしたから、うすぼんやりとしか見えてこないのが実情だったのではないでしょうか。そういう意味では、今日の私たちはイエス様誕生から2000年以上経っていますから、薄ぼんやりどころではない。本の中の人、宗教の中だけの人、あるいは伝説的な人であると考えるわけです。現実味がない、自分とは遠い世界の人物。しかしヨハネの言葉は、このイエス・キリストが実際に存在し、確かに弟子たちとともに生活され、言葉を発し、手で触ることさえできるお方、実在していた人物であったということです。ヨハネはどうしてもこれを、しかも手紙の冒頭で伝えたかったのであります。手紙の最初に描かれる一般的な挨拶も抜きに、語り出している。それはなぜでしょうか。それはヨハネがイエス様と直に接し、その愛を伝えなければならないと感じていたからでしょう。このイエス様の愛を、ぬくもりをともなった愛を知っている者として、その喜びのぬくもりを自分一人で止めておくことを良しとせずに、多くの人に伝えなければならない、ともに味わいたいと願って伝えたのだと思うのです。

 

 ヨハネというのは面白い人物です。ヨハネ福音書の中にはヨハネの名前はなく、「主に愛された弟子」戸書かれているだけです。自分でそれを言うというのはすごい気もしますが、彼がイエス様の愛を実感していた最大の出来事が、絵画などでも有名な最後の晩餐であります。ダ・ヴィンチの絵画でイエス様の右側に座っていたのは、このヨハネでした。おひらきにならなくても結構ですが、この食事のことは四人の福音書記者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)が皆書き残していますが、その中で一番詳しく、分量を取っているのはヨハネです。彼はイエス様の一番近くにいました。右側に座っていたとお話ししましたが、これは「ふところで」、とも翻訳される言葉です。先ほども開きましたヨハネの福音書1章の18節には「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とありますが、この父のふところにおられるひとり後の神、すなわち父なる神様のみうでに抱かれた子なるイエス様を表す場面と、意識的に重ね合わせて、自分の姿を描いているのです。イエス様は父なる神様のうでに抱かれ、そのふところのぬくもり、温かさを知っていました。それは幼子が本当に安心できる場所であり、喜びに満たされる場所です。居場所と言ってもいいでしょうか。その同じぬくもり、温かさ、安心感をヨハネはイエスのふところで感じていたのでしょう。イエス様に出会い、その愛に触れた時、イエス様の身元こそがほんとうに安らげる居場所だと実感したんだと思うのです。その温かさをヨハネは伝え知らせるために、このように書き送っているのです。父のぬくもりを知ったイエス様がその愛を伝えられたように、イエス様の温かさを知ったヨハネが愛を伝える。

 

3. 「私たちの交わり」

 それは、「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるため」でした。イエス様の愛のぬくもりを伝えたヨハネですが、言うならばその温かな交わりにあなたがたも入って欲しいと言っているのです。あなた方の居場所はここであると勧めているかのようです。そして続けるのです。この交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。教会に入るとよく交わりという言葉を耳にします。中央教会でも交わり部があったり、女性の会、コルネリオ会、青年会などの交わりも大切にしています。けれども覚えたいことは、その交わりは何かのサークルのようなもの、気の合う人たち、共通の趣味を持った人たちの集まりなのではなくて、あくまでも、御父および御子イエス・キリストとの交わりであるということです。

 何度も引用してすみませんが、イエス様の愛が残るところなく示された最後の晩餐、その最後にイエス様の祈りが記されています。ヨハネの福音書17章です。イエス様はこのように祈り始めます。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光をあらわすために、この栄光を現してください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」永遠のいのちとは、父なる神と子なるキリストを知ることだとイエス様言われています。知るというのは、聖書では単に知識として知る以上の深い関わりを現しています。夫婦関係の中でも、夫は妻を知る、などの表現がなされているほどの親密な関係を表しています。これはまさしく、み父、および御子イエスキリストとの交わりを持つということでしょう。神様との関係を持つ、それは神様を信じるということでもあります。そこに永遠のいのちが与えられるのです。

 

 思えばこれは、人間が造られた時、人がそもそもどのような存在として創造されたか、ということにも関わってきます。天地創造の最後、神様はいよいよ人を創造しようとされました。創世記126節「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」ここでの「われわれ」は父なる神と子なるキリスト、さらに聖霊なる神の三位一体を表していると言われます。三位一体の神様の、親しい交わりの中に、本来の人間は置かれていたのです。この神様との交わりが本来の居場所だった。

 

 しかし、冒頭でもお話しした通り、私たちは多くの壁を作り、神様から離れようとし、自分が中心の狭い世界の中にいました。その結果、自力で人を愛すことができず、誰かに愛されていると実感することもできずに不安になります。それどころか自分自身を愛し、受け入れ、肯定することもできない。四方を壁に囲まれ、孤独だったのです。もがいても、もがいてもそこから自力で脱することができずにいた私たちは、ほんとうに心休まる居場所を知らない孤独の中にあったのです。いっときの安らぎがあったとしても、それがいつまでも続くことがないことを知っているから、失われることを恐れてビクビクしながら生きていました。

 

 そんな私たちが、イエス様の愛を知るヨハネによって招かれている。いや、この招きはイエス様の招きそのものであります。聖書には、イエス様の十字架が私たちをぐるりと取り囲んでいた敵意の壁、隔ての壁を打ち壊し、神と和解させ、人と和解させるということが書かれています(エペ2:16)。それは政治の世界に見られるような、お互いの利益だけによって成り立つ和解ではありません。あるいは手を握りながらもお互いの顔色をうかがっているような見せかけだけの和解でもない。和解について書かれた箇所のすぐ後には、「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」と喜びにあふれて伝えるのでした。神の家族、神様をお父さんとする交わりが、ここに生まれたのです。イエス様の愛のぬくもりを伝えようと手紙を書き始めたヨハネですが、その愛は十字架によって最も明るく輝きました。十字架は当時の最も残虐な死刑の道具ですが、イエス様が罪を犯し、自業自得で磔になったわけでありません。罪を犯すことがなかったのにもかかわらず、私たちの身代わりとなって十字架にかかられたのです。その十字架で裂かれた肉、流された血は私たちのためでした。私たちに命を与えるために、ご自身はいのちを捨てられた。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰ももっていません。」これは十字架を目前とした最後の晩餐でのイエス様の言葉です。このお方は、壁を作って神様を遠ざけ、人を遠ざけていた私たちを友と呼び、その友のためにいのちを捨てるほどの愛を注いで下さっている。

 

 イエス様の十字架は死では終わりませんでした。三日目に死人のうちよりよみがえられた。あのご自身を指して言われた通り、よみがえられ、死に打ち勝たれたのです。ここに永遠のいのちが明らかにされました。私たち人間が避けては通れない死を打ち破られたそのお方のいのちが、イエス様を信じるすべてのものに与えられているのです。いや、この永遠のいのちを与えるためにこそイエス様は世にこられ、私たちが負うべき十字架を負い、死んで下さった。やはりヨハネは福音書の中で言うのです。聖書の中の聖書ともいわれる箇所。ヨハネ3:16神は、実に、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」イエス様の十字架によって私たちに永遠のいのちがもたらされたのでした。それは父の愛であり、友と呼んでくださるイエス様の愛です。ヨハネの手紙では「神は愛なり」とシンプルに、しかし力強く言われていますが、まさしくその愛の交わりの中に私たちは招かれている。

 

 本日の箇所、「交わり」という言葉には「コイノーニア」というギリシャ語が使われていて、元々は「共に分かち合う、共有する」という意味を持っていました。そういうところから共同体、交わりと訳されているのでしょう。一般的な当時のギリシャ社会でも使われる言葉で、時にこれは結婚を示していたそうです。今週土曜日には教会の姉妹の結婚式がありますが、ヨハネの時代、結婚する二人は「人生のkoinwni÷a」、すなわち全てのものを分かち合って共に人生を送る存在と呼ばれていたのです。ヨハネの願いは「あなたがたも私たちと交わりを持つようになる」ことでした。一体何を共有する、分かち合うのでしょうか。それは、先ほどまでに見てきましたように、イエス様の十字架によってもたらされた永遠のいのちです。友のためにいのちを捨てるほどの愛によってもたらされた、このいのちを共有する、いのちの共同体、まさに家族と呼ばれるのにふさわしい交わりがここに生まれたのです。

 

4. 教会という、イエス様との交わり

 四節をお読みします。私たちがこれらのこと書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。「私たちの喜びが全きものとなるため」。あなたがイエス様を信じ、私たちのいのちの共同体に入る、交わりに入ることで私たちの喜びは完成するのだと言っています。交わりは共有を表し、時に夫婦関係を表すと先ほどお話ししました。夫婦は健康な時も病の時も、まさに苦楽をともにし喜ぶ時にはともに喜び、泣く時にはともに泣く交わりです。そこにあなたがたも加わって欲しいというのですから、まるでプロポーズのような言葉のように聞こえないでしょうか。

 教会を見回すと、本当に様々な方がいます。幼子からお年寄りまで、その育ってきた背景はそれぞれですし、置かれた場所もそれぞれです。けれども、ともにイエス様の愛に触れて、そのぬくもりに心があたためられ、壁を壊され、居場所を知ったお一人お一人ではないでしょうか。喜びの時だけともにいるのではなく、辛い時悲しい時苦しい時にこそ、ともに神の前にひざまずき、祈ることができる。いや、元々の壁に囲まれた人間にはできることではありません。自分が中心の世界では、喜ぶものを妬み、悲しむ人を心から同情することはできません。でもイエス様の愛が注がれ、そのいのちが与えられ、新しい人生が始まった者にはそれができるのです。本当に素晴らしい交わりが与えられていますし、ここにこそ、本当の喜びがあるのではないでしょうか。

 

5. まとめ

 もう終わりにしますけれども、壁を造ろうとする時代にあって、改めてイエス様がこの地上にこられた意味を覚えたいと思います。そして壁を打ち壊されたお方によって私たちは一つにされたのであり、そんな私たちの礼拝、この存在自体に「交わりの喜び」が表されているのではないでしょうか。大人も子供も共に主を見上げ、声を一つにして賛美をささげ、心を一つにして礼拝を捧げる。決して当たり前のことではありません。イエス様がいてくださるから、その温かい愛が注がれているから、その交わりに招き入れられているから、この喜びを味わうことができるのです。本当に素晴らしい交わりの喜びが与えられていることを感謝し、それに励まされ、それぞれの場所での新しい週の歩みを始めて参りましょう。