神は忘れていない

❖聖書箇所 使徒の働き7章17節~38節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたのくすしいわざを思い起こそう。                      詩篇 77篇11節

◆(序)この箇所について

①第一回目の時にも言いましたが、この書は、福音がユダヤから小アジア、そしてギリシャ(ヨーロッパ)、さらに帝国の首都であるローマで宣教が開始されるに至った経緯について記しています。しかし、この書がキリスト教の歴史において重要であるのは、宣教が拡大した状況を伝えているだけに留まりません。すべての時代の、すべての教会が決して忘れてはならない大切なことを明らかにしているという点にもあります。 

 

 具体的には、伝えるべき福音の内容、教会の本質、聖霊の働き、教会の働き人の姿、偽の教えのこと、その他、この世との関係などについて記されています。そのようなことから使徒の働きを丁寧に読むことは、現代のキリスト者たちにとっても、信仰生活を送るうえにおいて非常に有益であると言いました。使徒の働きは、ただ過去の初代教会の姿の記録ではなく、すべての時代、すべての国の教会にとって大切なことを伝えている書なのです。

②本日の箇所は、ステパノの説教の二回目、出エジプトとその中心的役割を果たしたモーセに関するところです。引き続いてステパノは、私たちは、選民とされているが、自分たちの民族を中心として歴史を見るのではなく、あくまで神、主を中心として歴史を見ることが大切という姿勢を強調しています。父祖たちを、とても大事ですが、過大に評価するのではなく、その父祖たちを通して働かれた神の御心を知るべきと言うのです。

 その視点を持って、人々から愛されている信仰の父祖たちであっても美化するようなことはせず、アブラハム、ヤコブ、ヨセフのあるがままについて述べ、彼ら自身は、弱さ、足りなさを持つ者であったが、ただ憐れみによって神の御目にとまり、選ばれ、用いられたということを話したのです。それは、アブラハムが滞在先の権力者を恐れ、妻のサラを二回も差し出したこと(創世記12章、20章)、またヨセフが生来、高ぶる人物であり、そのため兄たちから憎まれた者であった(創世記37章) が、主の御心のために用いられたことから分かります。ステパノは、それらを踏まえ、そんな者たちを神が選び、用いてくださったのは、罪に堕ちた人を救うための、神の一方的な、深い憐れみのゆえであると語ったのです。

 

◆(本論)イスラエル最大の出来事について

①同じように、イスラエル歴史にとって最も重大な出来事、出エジプトとそのために用いられたモーセについて語っています。

 本日の箇所では、エジプトに移り住んだヤコブの時代から約400年後、イスラエルの民たちがエジプトにおいて隷属させられていたこと、元々、イスラエル人であったが、パロの娘の子として育てられたモーセが葛藤や挫折を経て、同胞の救出者として召され、民たちをエジプトからの脱出させることに成功したこと、そして、シナイの荒野において律法を授与された状況について話しています。

 特に変わったこともない、ごく当たり前のことを話しているように思えるのですが、ステパノは、このイスラエルの歴史最大の出来事から、何を、自分を告発、訴えている議会の議員たちに伝えようとしているのでしょうか。それは、我らの先祖は、エジプトに住むようになり、やがてその事情を知らないエジブト王が出現した頃より、奴隷にせられ、虐げられ、その結果、アブラハムに与えられた約束そのものを忘れ、失望の日々を送っていたが、神の側は約束を忘れていず、はるか昔の約束を実現してくださったということです。

 特別の導きのなかで育ち、成長したモーセをエジプトからの救出者、解放者として召し、モーセは最初は固く辞退したが、ついに主の御心に従い、さまざまな苦闘を経て、成人の男子だけでも60万人にものぼる膨大な人数のイスラエル人を、エジプトから導きだした、そして神は、シナイの荒野において、そんなイスラエルの人々と、アブラハムと結んだ契約(創世記12章)を更新するかたちとしてシナイ契約を結び(出エジプト19章、彼らを宝の民、祭司の王国、聖なる国民とした) 、律法を与えた。民の側は忘れていたが、主は、決して見捨ててはいなかった、覚えていたと言うのです。

 イスラエルの民たちが今も毎年「過越の祭り」としてその出来事があったことを大切にしている、あの壮大な出エジプトは、神の真実による、神から出て、神によってなった出来事だと言うのです。 神はアブラハムとの契約、創世記12章1節~3節「大いなる国民とし、地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」を忘れていなかったということです。

 

②二つ目は、現実的にとうてい不可能に見えたことであったが、神は召しに従った人、モーセを通して、その困難なことを実際になされたと言うのです。

 殺される運命でしたが、数奇な導きのもと、エジプト王パロの娘の子として成長し、ある時、エジプト王家を怒らせる事件を起こし、そのためエジプトにいることが出来なくなり、ミデヤンの荒野に逃れ、そこで家庭を持ち、40年、羊を飼いながらその地で隠れるようにしていたが、しかし、不思議な光景に導かれ、民たちをエジプトから連れ出すように召しを受け、はじめは固く拒んだが、苦しむ同胞に対する御心によって心動かされ、立ち上がり、遂に出エジプトを果たし、律法を与えられたと語るのです。 

 ステパノは、神は、このモーセを通して、不可能と思えることをなされたと強調するのです。そして、モーセに目を留めるのではなく、アブラハムに対する約束を忘れず、人間的に不可能と思われたことを実現させた主の真実を思うべきと言うのです。

 

◆(この箇所を受けて、終わりに) 

 このところから、私は人が考える真実と主が実際に示された真実は違うこと、また主は人間的には不可能と思えることを成し遂げられることを教えられます。まず、主の真実ということですが、人が考える真実と、時間と内容において大きく違います。人はできる限り速やかに、また自分が考える状態になることを望みます。しかし、主の真実は違います。期間も内容も人が期待するものとは違います。主の真実は、人知を超えています。あるイギリスの老牧師が、生涯を省みて、働きによって救われた者が少ないことを主の前に告白し、いつも涙ながらに祈っていました。聖書を朴訥に語っていたことから人気がなかったのです。そのため、教会に集う人々が少なくなっていたことから、多くの人々を集めている周りの教会の牧師と比べ、能力がないと思われていました。しかし、実はその数少ない救われた一人がアフリカ大陸の宣教師となり、多くの回心者がその人を通して起こされていたのです。主の真実は、人が期待するものと違うのです。

 もう一つのことは、人の目には不可能なことを、忠実に主に従った人物を通してなされたということです。この二つのことから、私たちも現状は厳しくとも、主が約束してくださった神の国が拡大するように祈るべきであり、そのために私たち自身が主に従うことが大切なのです。

 

 いつも言うことですが、人生は勝ち負けではありません。主は私たちが足りない者にもかかわらず、約束を破る方ではありません。それゆえ、私たちも主にあって生きた人々がそうしたように、主の約束、今、神のこどもとされていること、聖霊があたえられていること、天の御国の希望が与えられていることを心に深くうけとめ、主を仰いで生きることが大切なのです。それこそが幸いな、何があっても決して崩されないキリストにある者の生き方です。主の真実を信じる人生です。