二つの強さ

❖聖書個所 詩篇4篇1節~8節           ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖説教の構成

◆(序)この詩の背景

 詩篇4篇は、イスラエル第二代目の王、ダビデによるものです。3篇と同じ時に作られたものです。3篇の表題に「ダビデがその子アブシャロムからのがれた時の賛歌」とありますように、国民の心が自分に向くように工作し、権力を握った息子アブシャロムによって王の座を奪われ、僅かな家族、家臣たちと厳しい荒野に逃げこみ、大軍勢に追いつめられていた時です。

(「ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼と一緒にいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。」Ⅱサムエル記15章30節)

 この時、ダビデはいくつもの詩を作り、それらが詩篇に収められています。3篇、4篇の他に、62篇、63篇、その他、最も有名な23篇もこの時のものではないかといわれています。

 本日は、通常であるなら心が引き裂かれるような苦しみを感じ、そして、なお続く絶対絶命の危機の中におかれながら、7節~8節「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」と言うことができた、このように平安を保つことが出来た人間的強さではない、主にある強さについて教えられたいと願っています。 

 

 これこそ本当の強さです。人の真価は、苦難を迎えた時に分かると言いますが、ダビデは、精神的にも実際的にも追いつめられていた中で、真の平安を保つことが出来たのです。

◆(本論)人間的強さと神にある強さ

①真の強さ、神にある強さについて考える前に、実際に立場や権力を得たが、もろさを秘めていた強さ、人間的強さについて見て参ります。ダビデは、4篇2節、6節で、人間的強さを求める者たちについて、神がどのようにご覧になっているかを明らかにしています。2節「人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを求めるのか。」6節「多くの者は言っています。『だれかわれわれに、良い目を見せてくれないものか。』主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らして下さい。」

 立場が良くなれば、力を手に入れることができたら人生は幸いになるという者です、しかし、人にとって一番大切なものを無視し、むなしいもの、まやかしものを求める生き方をしている、又自分たちが豊かになり、恵まれれば人生はそれで良いという考えの者である、けれども、その生き方には、真の平安、喜びはなく、希望もないとはっきり言います。

 ダビデを追い落としたアブシャロムもそういう生き方をした人物です。人間的にとても魅力があった人物ですが、彼は、父ダビデが魂の深いところで経験していた主との交わり、主を愛し、主に従うということを重視せず、或いは見逃し、ただ父ダビデが持っていた地位、力、富等、目に見えるもののみに心を寄せていたのです。そして、それを得るために用意周到に準備をし、機会を見て謀反を起こし、遂にダビデの全てのものを奪うことに成功したのです。自分の願っていた通りになりましたが、しかし、アブシャロムの心は平安ではなかったと聖書は記します。荒野に追いやったとは言え、ダビデが生きている限り、いつ勢力を盛り返すのか分からない、いつ再び、国民の心が今度は自分から離れてダビデに戻るかも知れない、いやたとえ、ダビデが死んだとしても自分がしたように誰かが自分を裏切るかも知れないと、最高権力者の立場を手にいれても不安があったのです。自分の願うものを手に入れても大切なこと、神の御顔を仰ぐことが欠けているならばそれはまやかしもの、むなしいものです。

 現代においても、とにかく社会的力を持つようになれば良いのだ、そのためには他人を蹴落としても構わないと思い、うまく立ち振る舞い、人間的成功をおさめているように見える人がいます。しかし、そのような人の内面は少しも深い喜びがないのです。自分が人を見るようにしか、人を見ることができないからです。他人を自分のための道具として見る人は、信頼によってではなく、力を誇ることによってしか、自分の立場を守れないと思っています。安心などないのです。

②今見て来たように、実際の権力、富を手に入れたが根強い不安を持っていた者に対し、裏切られ、全てのものを失い、命を狙われていた側のダビデは、平安に満たされているのです。彼は次のような思いを告白しています。「私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときに、ゆとりを与えて下さいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いて下さい。」(1節 )「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。」(3節) 「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせて下さいます。」(7節、8節) ダビデは、立場や富からではなく、何よりも創造主である主からいつくしみと平安をいただいていたのです。4篇全体を貫いているのは、深い、ゆるぎのない安心感です。7節の「穀物と新しいぶどう酒が豊かにある」とは、人間的に非常に富んでいる、満たされている状態を現しています。現実的には厳しい中に置かれていましたが、ダビデの心は喜びと平安に満たされていたのです。

③何故、ダビデは人間的につらい経験をし、現実的にひどく追いつめられていても、なおも深い喜びと平安に満たされていたのでしょうか。中心にあったのは、幼い頃から主を信じ、より頼んでいたからですが、このように真の強さを持つようになったのは、ある出来事を経験し、人として最も大切なことを深く知るようになっていたからです。

 ダビデの生涯を知っている人はお分かりだと思いますが、その出来事とは、ダビデが全ての面で順境の時に、家臣の妻を不法に奪い取り、しかもその罪を隠すために王としての立場を用いてその主人である家臣を計略を用いて殺害したという律法の中でも最も重要な十戒のいくつも破るという行いをしたことです。それまで心から主を崇め、従って来ましたダビデには考えられない、重大な罪を同時にいくつも犯したのです。神から送られた預言者ナタンによって、それらの罪、何よりも神のことば、神を蔑んだ罪をはっきり指摘され、自分がしたことの重大さを知らされ、ダビデは苦しみ、生ける屍のようになっています。この時のことについて、32篇、38篇、51篇などで思いを告白しています。彼は、王としての立場、力、或いは人々からの評価などは罪の苦しみそして神の裁きの前に何の役に立たない、意味がないことを思い知らされました。そして、心から悔い改めた時、そんな者にもかかわらず、主があわれみを持って罪を赦し、再び受け入れて下さったことを知ることができ、何物にもまさる喜びを感じたのです。人にとって一番恐ろしいものは何か、反対に人にとって一番の喜びは何か、このおぞましい罪の経験によって深く知ったのです。この経験がダビデの心の深くに、この時以来あったのです。

 

◆(終わりに)真の強さこそ恵み

 

 不思議です。相手を倒したアブシャロムが不安に覆われているのに対し、倒されたダビデが深い喜びと平安に満たされているのです。私たちはこのことから人間的強さと主にある強さは違うということを知り得ます。人間的強さは状況によって変化します。しかし、主にある強さは、状況によって左右されることがありません。大切なのは、人の評価や優れた者と認められることではありません。主のもとにあって愛の中に生きることです。そこに何があっても折れない、主にある強さがあるのです。そしてそのような強さこそ廻りの人々にも良い香りを放つのです。私たちは、たとい目ただなくても、この主の強さを与えられている者として一年を送ろうではありませんか。