出発の時に

170108礼拝説教

■聖書:出エジプト記418-31節   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ122節)

 

1. はじめに

 新年のはじめ、新しいスタートの時期にこの箇所が与えられたということ、本日与えられているこのみことばから、神様が何を伝えておられるのだろうかと考えながら備えてまいりました。本日の箇所、特に今日は24-26節にある「血の花婿」事件を見てまいりたいと思っていますが、この箇所はなかなか意味が分かりづらいところで、様々な解釈がなされている場面でもあります。連続講解説教をしている中でしか取り上げられない箇所、言い換えれば連続講解説教している以上避けては通れないところとでも言えるでしょうか。しかし、備えている中で、一年の初め、いわばそれぞれの新しい出発のこの時にこそ、改めて共に覚えたいみことばであると感じています。神様からの、今朝語られるメッセージに聞いてまいりましょう。

2. 18-23節、モーセの再出発と神様の愛

 少し前回を振り返りつつ、本日の箇所を見てまいりましょう。18節から20節をお読みします。それで、モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうかわたしをエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」イテロはモーセに「安心して行きなさい」と答えた。主はミデヤンでモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。

 神様とモーセの長いやりとりを前回見たところです。エジプトの地で奴隷となっていたイスラエルの民を助けるためにモーセをつかわそうとされる神様と、いろんな言い訳を持って断ろうとするモーセの姿が描かれていました。それでもいよいよ覚悟を決めて、出発を決意したモーセが本日の箇所には描かれています。彼はまず、義理の父であるイテロのもとへ行き、エジプトへの出発の意思を告げます。しかし、イテロへの暇乞いは、これまでの神様とのやりとりとは関係のないものでした。モーセは、なぜ真実を伝えなかったのでしょうか?結局モーセはすべてに納得して出発を決めたわけではなかったのでしょう。だからこそ、堂々と旅立ちの理由を言うことができず、こっそりと真実を隠して話しているのです。

 そんなモーセに対してのイテロの言葉、「安心して行きなさい」というのは、度々語られます「シャローム」、すべてが満たされた状態を表す言葉です。まさにまだ隙間だらけ、欠けだらけの彼の信仰に対して、語られるべき言葉を、この人は語りかけているのかもしれません。さらに神様がそれを後押しするかのように語られます。「あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」この言葉は、イエス様が誕生したときのことを思い出させます。ユダヤの王として生まれた幼子イエスの命を狙うヘロデ王から逃れるため、エジプトへと逃げていたイエス様一家。そんな家族に語られたことばと同じです。「神様の時」とでも言えるでしょうか、この時を知らせるお告げがここでなされ、モーセの出発を知らせているのです。彼の手には神の杖、モーセの揺らぐ心を支える杖です。しかしこの杖に何か特別な力があるわけではありません。その杖はいわばしるしです。何の変哲も無い杖さえも蛇に変えることのできる、力ある神が共におられることを思い出させるしるし。倒れそうになる時に支え、進むべき道を示してくださるということのしるしです。さらにことばをくださいました。主はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行え。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』これは出エジプト記を読み進めていった時に詳しく見ていこうと思いますが、出エジプト記の一つのなぞに関わることであります。奴隷であったイスラエルの民をなかなか解放させないパロの頑なさは、主がされることだというのです。主が頑なにされたのに、主がそれを懲らしめる。理不尽のように思い、何か釈然としない気持ちになる方もいらっしゃるのでは無いでしょうか。確かに私たちではすべてを納得することはできないことです。けれども、それは主の次の言葉が明らかにされるためだったということはわかります。「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。…わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。」エジプトの地で苦しんでいる、愛する子どもを本来いるべきわたしのもとに取り戻し連れ戻し、なすべきこと、わたしに仕えさせる、礼拝をさせるために、わたしはあらゆることをするのだということです。このことばには神様の深い愛と強い決意が込められているように感じられるのです。

 

3. 24-26節、割礼を守ること、主を礼拝するということ

 しかし、そんな神様の姿とは正反対に思える言葉が続く箇所に登場します。これまでどんなにモーセが駄々をこね神様の呼びかけを拒んでも、諦めずに語り続けた神様でした。モーセは決して欠け一つ無い立派な器としての働き手ではありませんでした。口下手ですし言い訳が多いですし、ここに至ってもイテロに真実を告げられないほどの臆病さがあった… けれどもそんな能力などは神様の召しを妨げる理由にはなりませんでした。それどころか、わたしが共にいるから恐れるな!といって励まし続けられたのです。しかし続く箇所で、愛するイスラエルを取り戻すための大切な働きを担うモーセを殺そうとされるのでした。24-26節、さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。割礼をめぐっての出来事でした。神様は心変わりをしてしまったのでしょうか。そうではなく、神様の怒りが割礼のゆえであったと考えることが鍵になっているということに気づきます。繰り返しになりますが、これまで散々弱さ、あるいはずる賢さを見せてきたモーセです。なんとかして召しを拒否しようと頭をフル回転させていたモーセ。しかし神様はここまでの怒りを見せることはありませんでした。ところが、いざ出発するや否や、せっかく重い腰を上げたモーセを殺そうとされた。それほどまでに、この割礼の有無が大きな問題であったと言えるでしょう。言い換えれば、個人の資質や能力は神様がいくらでも補って余りあるものであるけれども、この「割礼」というものだけは、まさに命をかけて守らなければならないほど重要な事柄であるのです。

 割礼とはなんでしょうか。これは、当時の中東では一般的なもので、男性の包皮を取り除くことだと説明されます。今日は成人祝福式がありますが、ある文化では成人の際の通過儀礼として行われていましたし、あるいはある民族を表すしるしであったとも言われています。しかし、聖書が教えている割礼というのは、それら以上に重大な意味を持っています。割礼の最初は、創世記17章、アブラハムに対してでした。17:6-11、わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。この箇所を読みますと、そもそも割礼というものは契約のしるし、神様が与えてくださった約束を覚えるためのしるしであったことがわかります。目に見えるしるしとして、それを見るたびに、神様の素晴らしい約束を思い出し、苦難の時も迷ったときにも立ち上がり再び歩み始めることができる。そのようなサインだったのです。これがなければ救われないという、契約の条件ではないのです。神様が一方的に祝福を与える恵みの契約を結んでくださり、それをいつも覚えることができるように、いつもそこに希望を見出せるようにと与えてくださった、これもまた主の民に与えられた恵みなのです。その意味では、先ほどの神の杖が果たす役割と近いかもしれません。しかし、いつしかこれは、選ばれた民イスラエル民族と異邦人とを分けるしるしのように、イスラエル民族が自分たちの特別さを誇るためのものとして考えられていきます。神様からの一方的な恵みを思い出すためだったものが、それがなければ救いはない・仲間ではないという排他的な人間中心のしるしに変わってしまった。言い換えれば、単に形式だけになっていったのです。

 

 本日の箇所、また割礼と聞くと、何か難解な箇所・遠い世界の話のように考えてしまいがちではないでしょうか。自分には関係のない世界、古い時代のものだと思いがちです。パウロも割礼の有無は救いに関係がないと言っています。けれども、私はこの箇所と向き合い準備をしている中で、今日の私たちも聞くべきみことばであると強く感じました。なぜこれほどまでに神様が怒られたのかを知ることが、私たちにとって自分自身を見直し、自己点検する大きな意味を持っていると思わされたのです。本来の割礼は、神様の一方的なめぐみの約束を覚えるしるしであるとお話ししました。私たちもまた、神様の一方的なめぐみを与えられている者として、それをいつも覚えていたいと願う者であります。困難や問題にぶつかった時に、私たちは神様と、神様の与えてくださった素晴らしい約束を忘れてしまいがちだからです。

 そうした時に、自然と私たちの礼拝、あるいは本日持たれます聖餐式というものを考えずにはいられないのです。新約聖書コロサイ人への手紙、先ほどパウロは割礼を否定したというように話をしましたけれども、それは形だけになってしまった割礼を否定しているのであり、いまはキリストによる新たなる割礼、いわば霊的な割礼を受けているのだと言われています2:11〜、キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉の体を脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、またキリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

 ここで明らかにパウロは、イエス様の十字架によって罪に死に、イエス様の復活によって新しいいのちに生きる者はみな、キリストの割礼を受けた者であると言っているのです。今日は聖餐式がありますけれども、私たちがすでにイエス様の十字架の血と肉によって贖われていること、新しいいのちを与えられていることを、これを守るたびに覚えます。そのためにイエス様が定められているのです。何のためなのかといったら、弱い私たち、地上での大きな誘惑や戦いに負けそうになる私たちを助けるため、支え励ますために他ならない。イエスさまは最後の晩餐の席で、「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われました。わたしを覚えて、わたしを心に刻んでと言う意味です。イエスさまの十字架が何のためであったのか、今朝もしっかりと心に刻みつけたいと思います。

 

 さらに言うならば、新約の時代を待たなくても初めから神様が望んでおられたことはここにあったことがわかります。旧約聖書の中では度々「心の割礼」と言うものが登場します。モーセの記す申命記、30:6「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」「心を尽くし、精神を尽くして、主を愛する」それは、私たちの本来の姿、死んでいた私たちが「生きるようになる」ということであります。しかし罪にまみれた私たちにはそれができない。主を愛することができず、この箇所にはありませんけれどももうひとつ大切な、人を愛するということができなくなってしまっている。さらには自分自身を愛することもできず、自分の存在を肯定できずに苦しい日々を過ごしている人は少なくありません。「心を尽くし、精神を尽くして」と言われていますから、表面的な愛し方ではなく、すべてをもって嘘偽りなく愛するということです。そのために、心を包む皮は切り捨てられなければならない。古いものを取り払われなければならない。そして心に刻みつけなければならないのです。自分勝手に生きていた私たちが、「心を尽くし、精神を尽くして、主を愛する」とはどういうことでしょうか。私たちの礼拝がその何よりの表れと言えるのではないかと思います。自分を神とし、自分中心に生きていた私たちです。そんな者が、主の呼びかけに応え、主のみ声を聞き、主の御名を賛美する礼拝。むりやり引きずられてくるわけではありません。神様の溢れる愛を受けている者として、その愛に応えて神様を愛そうとする思いで、ここに集まり心からの礼拝を捧げるのです。

 

 イスラエル民族にとっての割礼にしても、今日の私たちの礼拝や聖餐式にしても、いつしか形式的になってしまい、その価値をそれにふさわしく覚えることができなくなっているのではないでしょうか。なぜモーセが息子に割礼を施していなかったのか。彼はもうエジプトに、同胞の元に帰るつもりはなかったからでしょう。イスラエル民族同胞から離れていたので、その必要を見出せなかったのかもしれません。異邦人である妻チッポラの反対があったのかもしれない。それは本日の箇所でのチッポラの「あなたは血の花婿である」との怒りの発言を聞いていても感じ取ることができます。何れにしても、モーセはそこに意味を見出していなかった。そんな彼に対して、これまでどんな弱さも包み込み、それに余りある助けを与え励ましてくださった神様でしたが、殺そうとするほどに怒られたのでした。他の何は無くとも、この一点、神様との契約のしるし、神様の溢れる祝福を覚えていること、それにふさわしく心からの礼拝を捧げるということを大切にしたいと、一年の始まりであるこの時に思わされています。

 

4. まとめ 〜出発の時に覚えたいこと〜

 27節以降の出発後の歩みについて、以前にも話したことなので簡単に触れるだけにしたいと思います。27-31節。あれほど恐れていた、様々な心配をしていたモーセでしたが、神様が用意してくださったアロンと出会い、民に語りしるしを見せるや「民は信じた」のでした。これまでの神様とモーセの問答を考えると、結果がなんとあっさりしたものかと驚かれるのではないでしょうか。この書を記したのはモーセ自身だとされていますが、モーセは、言い方は悪いかもしれませんが、結果よりもこの最初の場面こそ重要だと考えたのではなかったかと思います。

 

 説教の備えをしながら、なぜ神様はこの時、モーセがようやく重い腰を上げて出発したこの時に殺そうとされたのかを考えていました。もう少し経ってから、少し落ち着いてからでも良かったのではないか。助け手としてのアロンと合流してからでも良かったのではないかと考えたのです。でも、これはあくまでモーセ個人が自分で点検すべき事柄だったのでしょう。肝心なのは、出発の時、礼拝を捧げること、神様を覚えて生きることであります。それを下地にして、その上にそれぞれの人生が鮮やかに描かれていくのではないかと思います。始まりということで私たちは先を見て、様々な目標を新たに抱いて歩み出そうとします。もちろんそれらは良いことなのですが、もう一度、神様との関係を静かに覚え、神様の恵みと愛を注がれている者としてのふさわしい礼拝を捧げ、その上で前に目を向け新しいスタートを切っていきたいと願うのであります。中心聖句にさせていただいたみことばは、ローマ122節、この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。私たちはキリストの割礼を受けたものであり、新しいいのちを生きているものであります。目には見えませんけれども、確かに刻みつけられたイエスさまの愛のしるしを、今日もしっかりと覚え、礼拝から始まる歩みを続けて参りましょう。