キリスト教と日本

❖聖書箇所  使徒の働き17章22節~31節      ❖説教者 川口 昌英 牧師

 

◆(序)なぜ、このような主題で話すのか

 本日は、キリスト教と日本ということについて話したい。なぜ、2017年度の最初の礼拝において、このことについて話すのか。それは私たちの信仰がただ内面に関するものでなく、現実社会での実際の生き方でもあるからである。それゆえ、自分が今生きている文化、時代を抜きにして、信仰生活を考えることができない。本日は、そのようなことからキリスト教は、この国に合っているのか、皆さんと共に考えたいと思う。話の進め方として、とても分かりやすく書かれている

内田和彦師とネットランド師による一つの書物を参考にしながら見て行くことにする。

 

◆(本論)キリスト教と日本

①まず、キリスト教信仰の骨子は次のようにまとめることができる

❶永遠にして無限の神、ただひとりの神、聖書を通して自ら啓示される方、全てを創造された 方。人をもご自身のかたちとして創造された神から始まる。

❷しかし、最初の人間がこの神に自分の意志で背き(罪を犯し)、悲劇的な事態を自ら招いた。その最大のものは、神と人間の間に生じた決定的な断絶である。人間は神との親しい交わりのうちに生きるように創造されたのに、人間の罪はこの交わりを破壊し、自らに死を招くようになった。

❸そのように罪をおかしたにもかかわらず、神は私たち人間を限りなく愛し、人が神ご自身との正しい関係に立ち返ることができるように、御子イエス・キリストを救い主としてお送りくださった。キリストは、完全な神であり、完全な人であった。そして最後には、人間の罪を贖うために十字架刑を受けられた。しかし、三日目に死より甦られ、ご自身が神であり、罪の贖いのための死が真実であったことを証明した。

 

❹その結果、キリストを自分の救い主として受け入れる者はだれでも、罪が赦され、神の子という立場が与えられ、新しいいのちを持つ者とされるのである。そして、そのいのちは、私たちが死を乗り越えて、永遠に神との交わりのうちに生きることを可能にした。

②日本の多くの人々の反応

❶科学の発達したこの時代に神を信ずることは、時代遅れの世界観への逆行と捉える。

❷人間を罪人とみなすことに対して、抵抗を覚える。

❸そもそも聖書という書物は信頼するに値するか、古代の宗教の教典の一つにすぎず、神話や伝説が入り混じったものとして見る。特に、イエスについての新約聖書の福音書は歴史的に信頼できないという。

❹さらにキリストについて、歴史上存在していたひとりの人物を神と信じるのは、常軌を逸したことではある。

❺宗教について根本的に、どの宗教も同じ、目指すところ、達するところは同じと考える。

❻日本は特別の風土の国であり、唯一神であるキリスト教はその風土に合わない。日本の中で、クリスチャンとして生きていくのは難しい。

 

③日本人の神理解

❶日本の宗教思想は、神道と仏教の影響を受けて来た。特に「カミ」という言葉の意味については、神道の影響が強い。本居宣長(18世紀)の理解。「さて凡て迦微とは古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐御霊(スミタマ)を申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など其餘何にもまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微と云うなり。」 

❷日本の伝統的なカミ理解と、聖書の神観の違いは大きく二つある。一つは、聖書の神が唯一神であるのに対し、日本のカミは多神教である。二つ目は、聖書の神は、永遠に存在する創造者であり、被造物とは別の存在である。それに対し、日本のカミは、自然とカミははっきり区別されない。カミは自然を超越した存在ではなく、自然のうちに(自然の延長として)存在する。この考えは現代でも日本社会の中では強い。(参考:各地で祭りが今なお盛んに行なわれている。むしろ、祭りに中に自分たちのアイデンティガある。故郷と祭りが一体化している状況がある。) 

 

④聖書が明らかにしている神 (使徒17章、パウロのアレオパゴスでの説教から)

❶創造の神~この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神。天地万物の創造主であり、永遠に存在する神。神と宇宙は別の存在である。宇宙は有限であり、神がある時点で創造されたものである。宇宙は偶然生じたものでも、無秩序に生み出されたものでもない。神の意志と力によって生じた。神が目的をもって宇宙を創造された。又、神は人間をも創造された。

❷人間とかかわる神~神は私たちから遠く離れてはいない。人格的な神。神は測り知れない愛を持って人間を愛しておられる。全ての人がご自分と親しい交わりを持つのを望んでおられる。聖書は、神が人間とかかわるために驚くべき手段をとったことを示す。神が人となったことである。永遠に存在する神である方が人となって私たちの間に住まわれた。(神学用語の受肉)

❸さばきの神~罪を裁く聖なる神、義なる神。神のきよさや神の義は、聖書が伝える神の性質の重要な部分。神は絶対的にきよい方、神のうちにどんな悪も見いだすことが出来ない。このゆえに神は罪をみのがすことはない。悪を必ず罰する。

 人は本来、神との親しい交わりを喜び、楽しむように創造された。しかし、みずから罪を犯し、神との交わりを失った。それいらい、すべての人がその性質を受け継ぎ、被造物全体も罪によって損なわれた。またあらゆる悪が出現し、苦しみが蔓延している。又、存在自体の意味と目的を見失っている。聖書の神について語る時、罪を嫌い、正しく裁く神に言及し、神が悔い改めを命じておられることを欠くことは出来ない。誠実であるなら良いという考えがあるが、悔い改めなしに創造主であり、全てを裁く権威を持っておられる神のみまえにたつことは出来ない。

❹救い主を送られた神~神は、救い主、イエスを人の罪の贖いのため、十字架に渡し、またイエスを死の中から復活させたことにより、イエスの神である権威を証明された。主がもたらした救いは、人を神との正しい関係の中に入れる。人のかたちをとり、地上においで下さり、人の罪の身代わりとなり、十字架の死を受け、三日目に死より甦られたことによって、罪の赦しと死に対する勝利が実現してくださった。

 聖書の神は、ただひとり永遠に存在し、万物を創造した主権者、聖にして義なる神、人間を深く愛する神。

 

◆(終わりに)確かに異質だが、人が生きるために絶対に必要

 先ほど見たように、今も多くの人は、キリスト教は日本という国に合わないという。なぜなら、日本社会は古来より、自然との一体性を重視し、自分が属している集団を大切して生きているからという。そんな中に創造の神、裁き、救いの神を届けようとしても人々の心に響かない。キリスト教はそれを認めよという。それに対し、私は、驚くかもしれないが、その通りである。キリスト者たちもまず、そのことを認めるべきと思う。日本という国とキリスト教は合わないと。

 

 しかし、これが結論ではない。問題は、ではそんな日本主義の中に救いがあるかということである。生きていてよかったと言えるものがあるのか。人生を苦しくさせているものの解決があるのかである。ない。それがあるのは、キリスト教、聖書だけである。だから問題は国の風土、大勢の人々の姿ではない。そこに生きるに値し、死ぬに値するものがあるかどうかである。