クリスマスの本質

❖聖書個所 マタイ1章23節           ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) マタイの福音書 1章23節

 

❖説教の構成

◆(この箇所について)

 

 降誕節の本日は、このところからクリスマスの本質、インマヌエル、神は私たちとともにおられるという意味について教えられたいと願っています。この個所にはクリスマスの目的が満ちているからです。

◆(本論)「インマヌエル、神は私たちとともにおられる」二つの意味

①第一の意味は、真の罪の贖いの道が開かれたという意味です。御子が罪の性質を持つ以外、人と同じかたちを持ってこの地に生まれたのは、罪と死の支配の中で、本来の姿を見失っている、的がはずれた生き方をしている人の姿を恵みとまことを持って受けとめるためでした。

 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益なものとなった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3章10節~12節)と言われているように、罪と死の支配の中で生きている者のために、神の側が犠牲になって贖いを成しとげ、赦しを与え、神のもとに買い戻すためでした。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」(ヘブル3章17節)とある通りです。

 現実の罪を贖うということに関して、よくクリスマスの時に話す一人の老婦人のことを思い起こします。日本で最初に本格的にホスピス棟を開設した淀川キリスト教病院に一人の老婦人が入院しました。多くの人々は、病気が重い状態でも、ホスピスに移ってつらい検査や治療の繰り返しではなく、痛みコントロールや気持ちを受け止めることを中心とした日々を送ることによって、気分が和らぐそうですが、この人はいつも厳しい表情をしていたのです。水商売をしていて、裏切ったり裏切られたりという生活を送り、結婚も何度か破綻し、身寄りがない人でした。スタッフも特に気を使っていたのですが、病気の状態もあり、一向に心を少しも開こうとはしなかったのです。

 ところがこの頑な人も毎朝、病院内に流れる短い聖書の話、特に主イエス様の誕生やその生涯、最後の十字架の死と復活のことを聞いたのです。そして、それは自分の生き方、自分の罪のためであり、救いを与えるためであることを知り、主を受け入れ、病床で洗礼を受けたのです。それから二週間、本当に和らいで表情になり、スタッフにもありがとうと言って召されたとのことです。

 私は、この老婦人の姿は私たちの姿だと思います。自分の醜さ、弱さ、汚れを知っていますから、もう取り返しはつかない、死を間近にしてもただ絶望、苦しみしかないと思うのです。けれども「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(第一コリント2章9節)である主の福音を知る時、考えもしなかった救い、すばらしい恵みを知るのです。

 神が私たちとともにおられるとは、全ての罪、そしてそれらの行いの罪の根本である、創造主である神に背いて生きている罪を、主の側が身代わりとなって裁きを受け、罰を支払って、新しいものとしてくださったという意味です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5章17節)と言われている通りです。神の御子の贖いにより、完全なまた永遠の罪の赦しの道が開かれたのです。

 

②インマヌエルの第二の意味は、人が新しく生まれ変わって、豊かな愛の中に生きるようになることです。それは人間関係の場合を考えても分かります。例えば、誰かが大きな犠牲を払って、誰かを困難な状況から救いだそうとするのは、ただ苦しい状態から解放してあげたいというだけではありません。そればかりでなく、その人が今までの困難な状況の中にいた時のような暗い不安な生き方ではなく、本当の喜びを持って生きて欲しいと願うからです。

 救い主がお生まれになったことにより、インマヌエルが実現したということは、神が人に対し、人本来の、神の豊かな愛の中で生きるような道を開いてくださったという意味です。分かりやすく言うならば、この愛を知らない時のように、いつも自分自身の姿に責められていた、おかしてきた罪に苦しめられ、実際の自分と外に現れる姿のギャップに苦しんでいた状態のようではなく、ただ愛され、認められた者として、何があっても決して奪われることがない平安のうちに生きるようになるためです。

 お生まれくださった御子の十字架の死と復活によって実現した救いは、ただ人の過去、今までのことを変えるだけではありません。現在、又これからのことを変えるのです。むしろ、こちらのほうがとても大事なのです。

 それが実現している姿は、私は、有名な詩篇23篇の良き羊飼いのもとにある羊のようなものであると思います。良き羊飼いがともにいますから、守られ、満たされ、慰められ、励まされ、導かれているのです。悔い改め、主を信じた後も、私たち自身は羊のように弱い存在ですが、良き羊飼いである主がともにおられるからどんな時にも恐れることなく、またすべてを委ねて平安をもって新しい人生を送ることができるのです。

◆(終わりに)個人だけでなく、社会も変える力

 第一次大戦の敗戦と多額な賠償責任により、疲弊しきったたドイツにおいて、ヒットラー率いるナチス(国家社会主義)が民族、歴史、大地の偉大性を訴え、力強い国家を目指し、手段を選ばず、反対する者たちに容赦のない暴力を加え、あらゆる領域、政界、言論界、教育界、経済界、労働界、そして教会さえもドイツ国家、ドイツ民族は偉大であるという価値観によって覆い尽くそうとし、殆ど目的を達したとき、自分たちは神のことばに立つことを明らかにし、それに抵抗した牧師、教会の同盟がありました。牧師緊急同盟、告白教会です。ドイツ教会闘争といわれているものです。教会のあり方を考えるうえにおいて、とても大切な歴史です。

 その時の告白教会の牧師たちの説教集が今、日本語で出版されています。

 その中で一人の牧師がルカ2章10節から12節の、御使いが羊飼いたちに御子の誕生を知らせている場面から説教しています。

 クリスマスを迎えていますが、私たちの現実は、戦争のために息子をなくした夫婦である、暴走する権力を批判し、囚われ、孤独な牢獄生活を送っている者である、民族のゆえに殺害されている者である、戦地において銃を構えている者である。どこを見ても悲しみ、苦しみばかりである。どこにもクリスマスの明るい希望などない。

 

 しかし、説教は続きます。このような苦しみの中で、この箇所で御使が語っていることにもう一度目を留めよう。主は、私たちの現実を知らないでこのようなことを言っているのではない。世界の状況、一人ひとりの状況、罪の現実を知ったうえで、救い主を送ってくださっている。救い主がお生まれになり、神がともにおられることが実現している。たとい、世の中の大多数の者たちが否定しても、神はこの罪の世界に愛する一人子を救い主として送ってくださったことは事実である。罪の現実の中で実現された神の真実、愛に目をとめよう。現実のあまりにも厳しさのために失望しがちであった人々は、それを聞いて人々は、あらためて主がなされた恵みのわざを心から仰ぎ、力、希望を得て、神の民として生き続けたのです。クリスマスは我らの力です。今も同じです。神の御子が来られ、インマヌエルが実現しているのです。恐れないで生きて行こう。