救い主誕生は約束の実現

❖聖書個所 マタイの福音書1章18節~25節       ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である、彼にはご自身を否むことができない殻である。                 第二テモテ2章13節

 

❖説教の構成

◆(序)特別の表現

①マタイの福音書を読み始めて間もない頃、不思議な記述があることに気づきました。本日の個所に一番最初に出ているのですが「これは、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった」というような表現です。旧約について何も知らない頃でしたので、とても違和感を感じました。読み続けると同じように言われているところが多くあることに気づきました。

 その後、調べると、マタイの福音書では11カ所、又ヨハネの福音書では3カ所あること、しかも、すべて救い主の地上の生涯の節目において言われていることが分かりました。

 本日は降誕節を目前にして、この「主が預言者を通して言われたことが成就するためであった。」という特別の表現がなされている意味について共に教えられたいと願っています。

 

 そして、神であり、神の御子であるお方が救い主として、この地上にお生まれになったという出来事が、決して偶然に又突然に起こったことではなく、人の理解を超えてはるか以前から予定されていたことであること、計り知れない神の真実の現れであることをご一緒に覚え、クリスマスのすばらしさを今一度味わいたいと願っています。話の進め方として、その記述がなされている個所を見て行き、そして、その意味をともに考えたいと思います。

◆(本論)聖書記者が伝えようとしていること

①その表現が出ている箇所

❶1章22節~マリヤのことを聞き、暗い思いに覆われ、内密に婚約者マリヤを去らせようとしていたヨセフに御使いが夢で現れ、ヨセフがそれを受け入れた場面。救い主誕生の経緯が人間の思いをはるかに超えた出来事であることを明らかにする。

❷2章15節、17節、23節~救い主の地上の母、父であるマリヤとヨセフがエジプトに逃れたこと、博士たちにだまされたことを知ったヘロデが怒り、救い主の可能性があるベツレヘム近辺の男の子を全部殺害したこと、又エジプトから帰った救い主が辺境の地、ナザレに住むようになったことを明らかにし、救い主の誕生は預言の通り、地上の権力者から歓迎されないことを伝える。

❸4章14節~主が御国の宣教を、人の常識と違って、はるか昔、イザヤが預言したように都から遠く離れたガリラヤ、イスラエルの中では最も神の義、救いから遠いと思われていた地方から始めるという預言が実現したことを伝える。

❹8章17節~時が満ち、神の国が到来したという福音を伝えながら、救い主は、預言の通り、多くの悪霊につかれた人や病気の者を癒されたこと、まことに、この方は、イザヤの言うように「悲しみの人で病を知っていた」と言う。

❺12章17節~神でありながら罪と死の支配より人を救うために、人のかたちをとってこの地上にお生まれになり、御国の福音を伝えられた方は、預言されていた通り、王のような方ではなく、徹底的にしもべの姿を持っておられたことを明らかにする。

❻13章14節~神であり、神の御子である方がご自分を無にして、人のかたちを取り、仕える者の姿になって、人の世界に来られたが、預言の通り、人の側はその語ることに対して心が頑であり、聞かないと伝える。

❼13章35節~主が譬えを多く話されたのは、人々の心が固く、真理に対して鈍いため、救い主が誰もが知っている譬えを用いて話されるという預言の通りであったことを明らかにする。

❽21章4節~主がご自分が地上に来られた目的(人の罪の贖い)を成し遂げるために、エルサレムに軍事力、権力の象徴である馬ではなく、庶民の日常生活、労働の担い手であったロバに乗って入るという預言が実現し、救い主は仕える生涯を送られた方であることを伝える。

❾27章9節~救い主が親しい者から裏切られ、売られるとはるか昔に預言されていたが、実際、誰も想像できないようなことがその通りに起こったことを表す。

 

②これらから分かること

 一つひとつ見て来たことから分かるように、この福音書の著者であるマタイは、主イエスの生涯をたどりながら、救い主に関する大事なことがらの殆どが既に旧約聖書の中で、(時代も著者も違う各書において、例えばあることは紀元前8世紀のイザヤによって、又あることは紀元前5世紀のゼカリヤによってというように、全く繋がりがない人々によってそれぞれ言われている) 預言されていること、それが意味することに深く心を留めるべきと言うのです。 

 主イエスが人が思ったことがないようなかたちでお生まれになり、虐げられていた人々と寄り添い、愛し、仕える生涯を送り、最後にはむごたらしい十字架刑まで受けたのは、偶然そうなったのではなく、神がはるか以前から計画されていたことであり、罪と死の支配にいる人に対する神の側の計り知れない真実の現れであると言うのです。

 使徒ヨハネは、このように神の側がなしてくださったことを第一ヨハネ4章10節において「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と言っています。神は私たちを罪より救いだすために深いご計画を持って道を備え、そして「神の時」が満ちた時に、愛する御子を救い主としてお送りくださったのです。今週の中心聖句にありますように私たちは真実でなくても、神は常に真実である方なのです。 

 救い主は、旧約の各書において預言されていた通りの生涯を歩まれたことを見て来ましたが、もう一つ忘れてはならないことがあります。それは、救い主が王ではなく仕えるしもべとしての姿をもって歩まれたことです。考えれば考えるほど、驚くべきことではないでしょうか。栄光に満ちたお方が、罪人である私たちに仕えてくださったと言うのです。そんな主の生涯の要約としてピリピ2章6節~8節がありますので後で読んでいただきたいと思いますが、その仕えるお姿が最も鮮明に明らかにされたのが洗足の場面です。(ヨハネ13章) 主は、十字架刑の前夜、弟子たちの足を黙々と洗われたのです。しもべの仕事です。いや単なるしもべ以上、深い慈しみと愛を示すため、そして一人ひとりのために身をささげることを表されたのです。

 

◆(終わりに)真実と謙卑に満ちた主に対して、我々はクリスマスをどう迎えるか

 アド・ベント(待降節)は、キリスト者にとって特別の季節です。救い主が人に永遠のいのちを与えるためにお生まれくださったことを特別に深く想う時であるからです。そしてそれは遠い昔から計画されていた、人知をはるかに超えた神の側の真実の実現であることを知ることが出来るからです。

 

 今年のクリスマス、一人ひとりを滅びより救うために、主がこれ以上ないまでに真実な愛を示し、又犠牲を受けてくださったことをまず覚えて、神の民として生きることを新たに決意しようではありませんか。そして、以前、私たちがそうであったように、まだ真のクリスマスを味わったことがない人々、人生の意味などない、苦しみと悲しみしかないと思っている人に、ここに本当のクリスマス、神が私たちに新しい人生があると明らかにした、人のために神の御子がお生まれになったという人知を超えた出来事、クリスマスがある、だから罪の姿が溢れている現実ですが、決して諦めてはいけないと伝えようではありませんか。