約束されたクリスマス

■聖書:イザヤ書91-7節   ■説教者:山口  契 副牧師

■中心聖句:

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

                                   (イザヤ書96節)

 

1. はじめに

 クランツのろうそく一本一本に光を灯し、主の誕生を待ち望むアドベントを過ごしております。本日の聖書箇所、イザヤ書はイエスの誕生から700-800年前に書かれたものであると考えられています。イエス様が生まれるまでの長い期間、彼らはどのようにその日を待ち望んでいたことかと思います。当時メシヤを待ち望んでいた人々には明確にいつそれが起こるということはわかりませんでした。いつなのか、どのように起こるのかがわからないものを待つのは非常に辛いものであります。700年とは比べものにもなりませんが、私たちにとってもわかることである。私たちの願っていることがいつ実現するのか、抱えている問題がいつ解決するのか、それがいついつに起こるとわかることなんてほぼありません。先はいつも暗いまま、見通せないままのことの方が多いのではないでしょうか。さらに、イエス様がすでに誕生されたことを私たちは知っていますが、主が再び来られる日がいつなのかはわかりませんし、その日を待ち望んでいる中にあります。

 本日は、イエスキリストの誕生は、救い主が来てくださったという大きな喜びに終わるものではなく、主は約束を必ず果たされるお方であるという証明でもあったのだということを見ていきたいと思っています。みことばの一つ一つが、確実に実現すること、私たちのために必ず実現する。ここにこそ、私たちの喜び、何物にも揺るがされない本当の喜びがあるのではないでしょうか。イエス様がどのようなお方として世に来られたのか、約束はどのように実現したのか。本日のみことばから教えられていきましょう。    

2. やみについて

 本日の箇所はこのような言葉で始まっていました。しかし、苦しみがあったところに、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。この箇所の背景には、ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けていた、やみがそこにはあったというものがあります。8章の終わりにはこうあります。地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。背景には、深い暗やみがあったのでした。

 

 この暗やみは、歴史的に言えば当時の北イスラエル、そして南ユダ王国の混沌とした、不安定な状態を表しています。ここに出てくる地名、ゼブルンの地とナフタリの地というのは北イスラエル王国の領地で、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされるということを預言しています。その背後には北イスラエルの堕落がありました。神の民、神の国としてこれまで神様に何度も助けてもらったのにもかかわらず、神ではないものを神とし、偶像崇拝を続けていたのでした。これは、まことの神様が一番忌み嫌われることです。そこに神様は厳しい裁きを与えられたのでした。

 一方で本日の書を記したイザヤは、北イスラエル王国の片割れ、南ユダ王国の預言者です。ではこちらの南ユダは、滅ぼされる北イスラエルに比べて、神に信頼していたのか、正しい歩みをしていたのか、暗やみはなかったのか。そうではありません。南ユダは力を増していたアッシリヤ帝国に対して、主に助けを求めることをせず、それどころかこれと手を組み、北イスラエルを滅ぼすようにと促すのでした。イザヤは世の権力ではなく神に信頼せよと何度も警告しますが、その声さえも聞こうとはしないほど、南ユダ王国もまた腐敗していたのです。その結果、北イスラエル王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南ユダ王国もまたその時は無事でしたが、後にバビロン帝国によって滅ぼされてしまうのでした。多くの民は囚われて行き、何もかも奪い去られ、希望さえも見えなくなっていた。まさにやみがここにあるのです。重い重い苦しみがのしかかり、もう自分ではどうしようもない。救出の道など、見い出し得ない。これは、イエス様の誕生からさかのぼること700年ほど前、つまり今から2700年以上昔のしかも遠い中東での出来事です。

 しかし、今日でも同じ「苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒」があるのではないでしょうか。いやもちろん、捕らえられ、故郷を奪われてしまったなんて人は、この日本においては少ないかもしれません。多くの人はこの「やみ」なんてことは考えることもなく生きていることでしょう。けれども、このやみは、神から離れたところにいつもある「やみ」であります。なぜ神から離れて生きることがやみなのか。それは、私たちが神様に造られ愛されていながらも、その愛から離れ、神を知らずに生きているからです。私たちに命を与え、生かしてくださるお方は、私たちがどのように生きれば本当の幸せを受けることができるのかを一番よくご存知です。私よりもそれをよく知っておられる。それは、このお方を信じ、頼り、このお方と共に生きることでした。

けれども、人間はその神様から離れ、自分の好きなように、自分が自分の人生を決めて最善の道を歩んでいるのだと錯覚しています。エペソ人への手紙2章には、人は皆、罪と罪過の中に「死んでいた」者だったと言われています。またこの世にあって望みもなく、神もない人たちだったとも。

 自分の力で頑張り汗を流して道を切り開くことは、とても素晴らしいことのように聞こえます。しかし、そのゴールが見えなければ、あるいは間違っていれば、結局はどんなに努力をしたとしても虚しいだけ、苦しいだけです。暗やみですから助けを求める相手もわかりません。人を愛することができず、愛されていると実感することもできず、孤独の中をあてどなく生きている。それこそ的外れな生き方、すなわち聖書が教える罪でした。様々な困難の中で、それに気づき、これまで自分がしてきたことはなんだったのか、あんなに頑張ってきたのはなんだったのかと、空っぽなことに気づくことがあります。見るべきところ、神様を信じていなければ、2700年前のイスラエルも、今日の私たちにとっても、そこにあるのは深く暗いやみなのです。

 

3. 光について

 しかし、です。イザヤを通して語られる神様は、この暗やみの重苦しいさばきの言葉だけで終わらせはしませんでした。しかし、苦しみがあったところに、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。これまで神を知らずに生きる「やみ」を語ってきましたが、本日の中心は、そのやみがなくなる時が来るという、希望にあふれた約束であります。これはイザヤが神様から与えられた言葉、預言であり、そのような兆しなんて全く見えないほどの混沌としたやみが辺りを覆っていました。にもかかわらず、しかし苦しみがあったところにやみがなくなる。と高らかに宣言されたのです。なくなるだろう、とか、きっとなくなるなどとは言わずに、言語のヘブル語を見ますと、完了形で書かれています。将来のことについて言われていますが、それはすでになされたこととして断定して語られている。主のご計画が成し遂げられないはずがないというようなニュアンスなのです。さらに2-3節をお読みします。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の影の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分ける時に楽しむように、あなたの御前で喜んだ。先ほどの暗やみとは一転、大きな喜びの歌が続いています。やみから光に、悲しみから喜び楽しみへの大転換点です。喜びを増し加えられたとは、喜びをさらに喜んだ、どんどん喜びが広がっていく様子を示しています。先ほどの暗やみは、神なきゆえの暗やみでした。そんなイスラエル民が、あなたの御前、神様の前で喜ぶことができている。神様の前に帰り来て、祝宴がなされているような場面なのであります。その理由が、続く箇所で明らかにされていくのでした。

 

 4節、あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。まず一つ目の喜びの理由は、イスラエルの民を不自由にしてがんじがらめにしていたものがすべて打ち砕かれ、解放が与えられたということでした。これはあのアッシリヤ、さらにはバビロンからの解放を第一に意味しているのでしょう。しかし、それだけではありません。先ほどのすべての人が苦しむ闇について考えたのと同じように、これはいつの時代のどの人に当てはまる、苦しみからの解放であります。人は皆、多かれ少なかれ困難を抱えています。全く問題のない、波風のない人生を過ごしている方なんていません。でもみんな、そういうものなんだと受け止めながら生きている。時々受け止めきれずにつまずき倒れそうになることだってある。疲れ切っていろいろなことが嫌になることがある。そのような、私たちに重くのしかかる重荷や鎖を、粉々に打ち砕かれるのです。

 あまりに重く、自分の力ではどうしようもない重荷に押し潰れさそうになることがあります。諦めてしまうのです。しかし、神様はそのような諦めからも驚くべき救出の道を見せてくださるのが神様なのです。ミデヤンの日とありますが、これはイスラエルが経験したかつての出来事のことです。当時まだ国王もいなかったイスラエルの人々は、ミデヤンという民族に虐げられていました。それを救うべく神様に召し出されたのがギデオンという人物がいました。この出来事については士師記6-8章にありますのでまたお開きください。このギデオンという人物、イスラエルを救い出すために選ばれた人でありましたが、彼は屈強で勇敢な若者などではありませんでした。それどころか、ミデヤン人が攻めてきたときには臆病にも逃げ、隠れていたような人であります。しかもミデヤンの大軍に対して、たった300人の軍隊で戦いを挑んだ。人間の常識で考えるならば、とてもとてもお話にならない。結果は火を見るより明らかであります。このような大軍、あるいは、自分自身ではどうしようもない壁に直面したとき、私たちは尻込みするものです。ギデオンが臆病だったことに、立ち向かう仲間が300人しかいなかったことに、不安になるでしょう。けれども、そこに神様がおられるのならば、恐れることはない。結果は大勝利でした。人間の想像をはるかに超えた出来事が、主によってなされたのでした。ここで表されていることは、神様に不可能なことはないということです。アッシリヤがどんなに強国だろうと、私たちが今抱える問題がどれほど重くどうしようもないものであろうとも、主がそれを成し遂げられる。それが、喜びの第一の理由でした。

 

 さらに第二の理由は、5節、戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は焼かれて、火のえじきとなる。にあります。争いはもはや過ぎ去ったということで、喜びが増しに増しているのです。一般的には、戦いは戦いによって解決することがありません。新たな憎しみが生まれ、戦いが生まれ、血が流される。平和なんてどこまでも夢物語のように感じられる現実があります。けれども、それが終わる日が来るのです。この平和について、続く節、有名なあの聖句で、どのようにもたらされるのかが明らかにされます。この平和もまた、私たちの想像を超え、常識をはるかに超えた方法でもたらされるのでした。

 

 6-7節、ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。クリスマスの時期に教会では何度も開く箇所であります。イエス・キリストの誕生は、700年前のこのときすでに約束されていたのです。これはヘブル語を見ますと、3節で描かれていた喜びの第三の理由に位置付けられています。苦しみや束縛からの解放があり、平和がもたらされる。それをもたらすのは、この6節で約束されているひとりのみどりご、ひとりの男の子、イザヤの時代から700年後に実現したイエス・キリストの誕生によっているのです。ここで注目したいのは、ここで救い主は誰のために生まれたのか、誰の元に与えられたのか、ということが明らかにされているということです。「私たちのために、私たちに」与えられたのでした。四つの名前によってこのひとりの子、暗闇を光に変えてくださるお方が表されていますが、本日はその中でも一つの名前に注目したいと思います。それはこれまでにも明らかにされてきたことと深い関わりのある、「平和の君」という名前です。先ほどの5節には、争いが遠ざかり平和がもたらされた場面が描かれていました。それをもたらすのは、平和の君、まさしくこのひとりの男の子によってなのです。

 

 この幼子、イエスキリストがもたらす平和とはなんでしょうか。ここでの平和という言葉はヘブル語でシャロームという言葉で、イスラエルでは日常の挨拶にもなっている言葉です。平安があるように、とも訳されていることからもわかるように、単に争いがない状態、戦争が終わった状態というだけでなく、もっとずっと大きな意味があることに気づきます。元々の意味では、「すべてが満たされる、何一つ欠けがない状態」です。イエス様も出会い救われた人々に対して「安心していきなさい」と言われていますが、これも同じ言葉でありました。安心や安らぎと言った方が、馴染みがあるかもしれません。私たちは様々なことで心が騒ぎ、満たされることなんてどこまでいっても無いのではないでしょうか。足りないところばかりに目が行き心が奪われてしまいます。ですが、このひとり子によって、本当の安心がもたらされる、すべてが満たされるのです。幼子イエスは、成長し、苦しみの道を通られて十字架にかかられます。そのために世にこられたとさえ言われている。交読文で先ほどお読みしましたイザヤ書53章には、苦難のしもべとしてのイエス様のお姿が預言されています。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。それは、私たちの罪、暗やみの中でひたすら死に向かっていた私たちの身代わりとなるためでした。死んでいた私たちにまことの命を与えるために、暗やみに囚われていた私たちに光を与えるために、イエス様はこられ、十字架にかかられたのです。この平和、平安、満たしは一時的で、すぐにまた失われてしまうようなものではありません。その平和は限りなく、とこしえまでと言われているのです。

 それを成し遂げるのは、私たちの側の努力、良い行いなどではありません。ただ万軍の主の熱心がそれを成し遂げるのです。ここで熱心と訳されている言葉は、ねたみなどとも言われている言葉です。ねたむほどの強い気持ちがここにあるのです。イエス様のたとえ話の中に、イエス様が羊飼いとして迷子の羊を探し回られる話があります。羊飼いは、迷子になった一匹を探し出し連れ戻すために、99匹の羊を置いて歩き回られるのでした。人間の常識では、そんな馬鹿げたことはしないでしょう。数の論理で言えば、99匹を危険にさらしてまでして1匹を取り戻すなんてハイリスクなことはしないのです。けれども、主はそのような熱心をもって、一人一人の失われた魂、暗闇をさまよい、死の陰の谷に座り込むようなイスラエルの民、そして私たちを救おうとされるのです。それほどまでの熱心をもって、一人一人に平和、本当の安心を与えるために、独り子を与えてくださった。それがイザヤの時代に約束され、700年の時を経てイエス様の誕生を持って実現し、今日の私たちの喜びとなっている。これがクリスマスの本当の喜びです。私たちの苦難や重荷から解放し、本当の平和、安らぎをもたらす君としてイエス様は来てくださいました。闇は濃くなる一方ですが、だからこそこの光が輝きわたるのです。

 

4. 約束の実現について

 注意したいことは、この光がいつイザヤを通して人々に語られたのかということです。これは神様から与えられた預言であって、この時代、少しずつ回復の兆しが見え始めてからこのように宣べ伝え始めたのではないということです。回復の兆しどころか、ますます国が傾き、人々は神様から離れて世の権力、目に見えるところばかりに頼っていった、そんな時代です。そんな時代にこの大きな喜びが約束として与えられたのでした。たかが約束といってしまうでしょうか。ここにすべての信頼を置くことは、多くの人にとっては馬鹿げているかもしれません。暗やみにいると、罪と罪過の中に死んでいる人だと、本当に見るべき者がわからないのです。

 しかし同じイザヤ書、54:10にこのような言葉があります。「…たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。まだ解決の糸口、わずかな光明さえ見えない暗闇の中、絶望の淵にあって、しかしなおも喜ぶことができるのは、この、何が起ころうとも決して変わることのない愛と、その愛に根付く約束を与えて下さったお方を知っているからに他なりません。私たちがクリスマスを祝うのは、過去の出来事を記念してだけのことではなく、この約束を実現してくださったお方を知り、そのお方が今日も生きて私たちと共におられることを知っているからではないでしょうか。このみどりごによって与えられる本当の平安が約束されていて、今はなお苦しみの多い世の中かもしれませんが、このお方にすがりつき信頼すれば必ず救われるのだ、神様は決して約束をやぶることはないのだということを確信させる、そのようなしるしの意味もあったのであります。あの途方もない約束を主は果たして下さった。ならば神様は、その一人をも見捨てない熱心をもって、この小さな私にもよくしてくださらないはずがない!だからこのお方に心からの感謝と賛美をささげ、約束されたものはすでに実現が確証されているということを喜び、この日を祝うのではないでしょうか。

 

5. おわりに

 クリスマスの時期によくお話しすることですが、街はこの季節、本当に華やかにきらびやかに賑わいます。美しいイルミネーションに彩られ、心踊る音楽がそこかしこに響いています。けれども、それらは一時的なものであり、極端な話1225日の夕方にはもうなくなってしまうものであります。人々の心にしても、この一時だけの楽しさ、輝きであることを知りながら、その光の中に出て喜び楽しんでいるようであります。再び自分の暗いところ、いわゆる現実に戻るということを知っていて、それでもその現実を忘れ、逃げ込むようにこの「非」現実の楽しさをこの時期に見ているのではないでしょうか。しかし私たちは違います。暗闇の中に光が与えられたように、死んでいた者に命が与えられたように、私たちの苦しい現実の中でこそ、このクリスマスの本当の喜びは輝きを放つのです。クリスマスの時期は終わっても、この喜びはなくなるどころかますます強く光を放つのです!イエス様が生まれたのは、私たちの様々なくびきを打ち壊して解放させるため、そして神様の深い愛による約束が実現したことの大きな印であります。その同じ神様が、今日も生きて私たちと共におられる。私たちはこのお方の約束が必ず実現することを信じて、たとえ目に見えるところはたくさんの困難があろうと、闇が迫り来て苦しみや虚無感が襲いかかろうと、主の熱心が私たちを守り、約束の実現の日まで導いてくださることを信じ、歩んでまいりましょう。