死の陰の谷を歩む時にも

❖聖書箇所 詩篇23篇1節~6節             ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、わたしはわざわいを恐れません。あなたがたわたしとともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それがわたしの慰めです。(詩篇23篇4節)

 

◆(序)より深く23篇を理解するために

 詩篇の中で最も知られている23篇ですが、内容をより深く理解するために、この詩がつくられた当時のイスラエルにおいては、羊だけでは安全に過ごすことができなかったということを知ることが大切です。というのは、飼われている所は、水も草もない岩地であり、また当時多くいた野獣に襲われる危険があり、雨風にさらされても身を隠すところがない荒野であり、何よりも羊自体が見た目と違って、頑固で臆病で自制できない動物であるからです。

 

 けれども、そんな厳しい環境でも日夜、羊を守り、労を惜しまない良き羊飼いが共にいたならば、羊はすべてを委ねて安心して生きることができたのです。ダビデは、自身がそうであった羊飼いの経験を思い起こしながら、人も同じである、創造者である神から離れているなら、荒野の羊のように、たえず虚しさ、恐れ、不安に襲われるが、しかし良い羊飼いのような神のもとに帰り、その方のもとにいるなら真の平安、喜び、希望があるというのです。

◆(本論)私たちは羊、主は真の羊飼い

①表面には出しませんが、多くの人は、自分は本当に必要とされているのだろうか、犯した罪は赦されるのだろうか、死とはいったい何なのか、死の先はどうなっているのかという不安や恐れを心の深くに抱いています。そしてこれら人としての根本問題に加えて、人はさまざまな具体的試練に出会い、それゆえ倒れることも多く、ときには本当に絶望的な状況に追い込まれるのです。まるで荒野に生きる、羊飼いがいない羊のような存在です。

 しかし、そんな厳しい中でも、良き羊飼いのような主、創造主であり、生きておられ、一人ひとりを深く愛しておられるまことの神を知るとき、人生が変えられるのです。

 この詩篇の作者、ダビデは言います。羊のすべてを知り、命がけで守る羊飼いのように、人を深く愛し、御目をもってすべてをご覧になっている方(詩篇139篇)がともにおられるから、厳しい人生のなかでも乏しいことがない、何かが足りない、これで本当に良いのだろうかという思い、どこか変だという人生の欠乏感がない、また、この方はどんな時にも私に生きる力、糧、愛と希望を与え、又心の渇きをいやし、さらに試練の中で倒れるときでも、そばにいて再び起き上がらせ、滅びないようにしてくださり、私を神に喜ばれる、神とともなる生き方を歩むよう励まし、導いてくださると言います。

 また、このお方がともにいますから、人生の中で死の陰の谷のような、絶望を経験をする時にも、災い、悪い結果を恐れないと言うのです。さらに、その方は、これから先もいつまでも私とともにいてくださると約束してくださっていますから、心からの平安と幸いがあると告白するのです。驚くべき恵みです。神を信じて歩んでいる者の生涯は苦しいことがあっても豊かな生涯であると心から言うのです。

 

②しかし、それは、良き羊飼いのような主がともにおられる人生とは、夢のようなバラ色の人生という意味ではありません。そうではなく恐れの思いを持ったり、現実から逃げたりせず、出会うさまざまなこと一つひとつと真摯に向き合うことができるようになるということです。現に、この詩の作者であるダビデもその生涯において幾度も「死の陰の谷」を通る経験をしています。苦しみのない、ほんわかとした夢の中にいるような状況どころではありませんでした。人間的には、仕えた王の妬み、自分が犯した大きな罪、さらには息子の裏切りなどによって、何度も絶望的な状況に追い込まれているのです。けれどもそんな中でも主を見上げ、あるいは心から悔い改め、すべてを委ねていましたから、その生涯は主によって支えられ、日々を平安と希望のうちに送ることができたのです。

③実はこの詩篇23篇のように、神と人との関係を羊飼いと羊に例えて、神が人を深くかえりみておられることを伝えているところが聖書のほかの箇所にもあります。

 父祖アブラハムの時代から、羊を飼うことがイスラエルにおいて生業(なりわい)の一つとされて来たことがその背景にあると思われます。 

 一人の神学者が実際に羊を飼うという経験を通して神と人との関係を論じている書があります。

 それを見ると、驚くべきことですが、普通、羊飼いは、羊の一匹一匹を見分けることができるそうです。また絶えず、群れを見守っており、倒れている羊や病気の羊を見つけたならば、速やかに起き上がらせ、あるいは迅速に手当をするそうです。とにかく、羊のために日夜労するそうです。そして著者は、結論として、良き羊飼いがいるなら羊が心底安心することを身をもって知ったそうです。そして詩篇23篇でダビデが述べている、創造主である神が羊飼いとしてともにいてくださることは、とても幸いな、恵まれた人生であると言うのです。

 

④その他、神が私たちの羊飼いといっている大切な箇所がいくつかあります。ルカ15章、ヨハネ10章などです。

 まずルカ15章4節~7節ですが、この個所は、1節~2節にあるように取税人、罪人たちなど律法に従っていない者たちは神の救いにあずかることができないと決めつけていた律法学者、パリサイ人たちに対して、どのような歩みをしている者であっても、神にとっては一人ひとりはかけがえのない者であり、それゆえ大切に思い、愛され、そして神のもとに帰ってくるようにどこまでもいつまでも探し歩き、見つかったならば親しく抱え、大喜びをすることを明らかにしているところです。人々にまことの神とはどんな方であるのか伝えるためにこの譬えを話されたのです。

 主イエスがご自分について語っているヨハネ10章1節以下も見て行きます。主は、ここにおいても羊飼いと羊の譬えを用いて話しています。このところにおいて主イエスは、ご自分は一匹一匹の羊のすべてを知っている、又羊が本来のいのちを得、それを豊かに持つために来た、更に、ご自分は羊のためにいのちさえも捨てる良い牧者であると言います。

 神は遠くにおられる方ではない、羊にとっての良い羊飼いのように絶えず、心を配り、世話をする、そしてご自分が犠牲となって人を守り、新しくする存在だと言われるのです。その他、Ⅰペテロ2章25節「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」においても神は羊飼いであり、人は羊であることが言われています。こうしてあちこちにおいて、ご自分が羊飼い、あなたがたは羊である、わたしはあなたがたのたのすべてを知り、守り、そして羊のために命を捨てると言うのです。

◆(終わりに)このようなことを受けて

 このように、本日の詩篇23篇を始めとして、聖書が全体に渡って、神と人との関係を羊飼いと羊の関係に例えていることに、そして主がご自分が良い羊飼いであると言われていることにはとても深い意味があるのです。まことの神は、遠くにいる冷たい方ではなく、羊のために労や犠牲を惜しまない、たえず見守っている羊飼いのようだと言われているからです。

 

 人は、一人の例外もなく、罪に支配されているゆえ、羊飼いのいない羊のように、どこに真の生きる糧があるか分からない、心の渇きを常に持っている、いつも危険にさらされてどこにも安住の地を見いだせず、不安と恐れを持っているのです。しかし、真の羊飼いである主によって探し出され、抱かれて神の群れに入り、日夜、神のもとにあって生きる者とされる時、根本から変わります。たとえ絶望的状況になったとしても神が共におられ、支えてくださるのです。良き羊飼いである主は、今日も、羊飼いのいない羊のように恐れや不安を覚えて生きている人に本当の豊かな生涯を与えるために探し続けています。まだの方は、悔い改めて、主のもとに帰り、詩篇23篇のダビデのような人生を歩もうではありませんか。