歴史に誠実に立つ

❖聖書箇所 使徒の働き7章1節~16節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。   ローマ人への手紙 4章2節

 

◆(序)この箇所について

①間隔があきましたが、使徒の働きを見て参ります。このところは、偽りの告発を受けたステパノが、エルサレムで最も力を持っていた議会において行った説教です。使徒の働きの著者、ルカは、このステパノの説教を異例といって良いほど、スペースをさいて残しています。反対者たちに力強く証ししたからですが、それだけでなく、福音、神の義を理解するうえにおいて重要な意味があると捉えたからです。 

 福音、神の御子による罪の贖いの成就、また終末の到来を受け入れない者たちにとって、イスラエルの辿ってきた歴史、13節「この聖なるところと律法」を持っていることを貶めることは決して許すことができないことでした。確かに不信の時期もありましたが、選民であった歴史を軽視されることは、彼らの民族意識にとって最も耐えがたいことでした。

 

 ところが、福音を受け入れたキリスト者たちは、ただ主イエスの福音のみを言い、その民族の歴史を無視しているように見えたのです。それゆえ、エルサレムの多くの人々、とりわけ支配層は、存在基盤であり、誇りであるイスラエルの歴史をなぜ無視するのかと激しく問題にしたのです。聖書は、こういった背景について実際に記していませんが、容易に想像できることです。

②本日の箇所は、そんな人々の誇りに対してステパノが、知恵と御霊によって語っているところです。この7~8章において、ステパノは、そんな歴史を誇る支配層に対して、大切なのは、自分たちの民族を中心として、歴史を見るのではなく、神の御心によって召された者として、歴史を見ることだと言います。人々に対し、その誇りである歴史を謙虚に見直す必要があると言うのです。

 私は、このステパノの姿勢から、現代の私たちが教えられることが多くあると思っています。まず、偽りの告発を受け、不当な尋問を受けていることに対して、決して感情的になっていないことです。そうではなく、告発した者たちよりも、自分たちの歴史を深く洞察することによって語っていることです。貴族階級であるサドカイ人、律法について深い知識を持つパリサイ人からなる議会メンバーは、当時のエルサレムの最高の知識人たちの集合でした。その知識人たちを相手にして、ステパノは、彼らよりもイスラエルの歴史について、彼らが及ばないほど、その歴史の意味、中心をはっきりと語っているのです。

 旧約聖書に深く接していたゆえであり、またその成就としての福音に対する確信のゆえでした。そんなステパノを御霊が導いてくださり、語るべきことばを与えてくださったのです。怒りや感情ではなく、本当に主の福音を伝えたいと願い、誠実に応対するときに、ともにおられる御霊が働いてくださり、人の思いよりもはるかに深い真理を示してくださるのです。(ルカ12章11節~12節) 

 こういったステパノの姿勢は、福音を証しするとき、大切なのは、一人ひとりの福音に対する確信であるということを示しています。

 

◆(本論)ステパノが伝えようとしたこと

①具体的に、ステパノは、議員たちに何を伝えようとしているのでしょうか。一読、本日の箇所を見ても、議会の者たちやエルサレムの多くの人々と変わっていることを言っているように見えません。アブラハムやヤコブのことなど、誰にでも受け容れられる当たり前のことを言っているようです。表面的には何も問題となるような点がないように見えますが、実はステパノは、非常に大切なことを語っているのです。 

 まず第一に、はっきりと歴史のなかで働かれた主を中心としていることです。本日の箇所においても、すべて神、主はこうされた、こう言われたと言っています。自分たちの父祖、アブラハムやイサク、ヤコブが中心ではなく、神、主が中心であるという認識です。

 第二にその主から離れて、アブラハムやイサク、ヤコブを美化するようなことをせず、出来る限り、実際のアブラハム、ヤコブの姿を捉えようとしていることです。これは、大変に難しいことです。再三、話しているように、私たちの国も含めて、多くの国では、国の基となった人物を批判することを一切許さないほど崇め、国の誇り、英雄、そして神として祀る傾向があります。菅原道眞、秀吉、家康、当地では前田利家、みんな神とされています。ここに出てくる議会の議員たちも、神の民イスラエルですから、神として祀ることはしていませんが、アブラハムやヤコブについて、その実際の姿について検証することなく、その有名な存在のゆえに崇め、誇っていたのです。。それに対し、ステパノは、もう一度、父祖たちが主によって召された状況、導かれた状況について、旧約聖書に記されている通りのことを話し、彼らが選ばれたのは、実は、神の深い憐れみであったことを示しているのです。パウロが信仰による義について語る時、ローマ4章1節~4節(朗読)において記すように、アブラハムが選ばれたのは、主の恵み、憐れみであるというのです。

 

②こうしたことから分かるように、ステパノは、旧約聖書に記されている通りの歴史を忠実に受け止めているのです。

 父祖であるアブラハムが神に選ばれたのは、自分たちを特別の民族とするためでなく、神によって創造されながら、背き、罪と死の支配の中に生きるようになった全世界の人々を救うために、まずアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルを通して、全世界の人々に神の救いのわざを示すためであった、すべては神の御心であり、神の恵みであることをはっきりと受け止めていたのです。よく引用します創世記12章1節~3節(朗読)を正しく謙虚に理解していたのです。この7章2節~8節は、こういった背景があって、神がアブラハムに言ったことだというのです。

 続いてここで大切な人物として取り上げられているヤコブとヨセフについても同じです。やはり

イスラエルの歴史にとって重要な存在ですが、英雄視して祀りあげるのではなく、人間的欠点のゆえに二人とも深刻な失敗を経験した者たちであったが、主なるお方は、そんな欠点、足りなさを持つ者にも働いて思いがけない道を開いてくださったと言うのです。自分たちは、特別の民である、自分たちの父祖は特別な人々であると思っていた者たちに対し、実際の歴史、実際の姿を語っているのです。(ヨハネ15章16節、第一ヨハネ4章9~10節)

 

◆(終わりに)この箇所を受けて、ステパノの姿勢から教えられること

 まず、旧約聖書と親しみ、広くて深い考えを持っていたことです。豊富な聖書知識という意味ではなく、聖書の元々の意味、書かれた目的を深く知っていたということです。ステパノは、聖書(旧約聖書)は、罪に堕ちた人に対してあてられた神からの手紙であることを知っていたのです。

 

 ステパノは歴史を美化していません。そうするならば、却って同胞のために良くない、真理から外れることを知っていました。自分たちの歴史の本質、我らが神の民とされたのは、ただ、神の恵みによる、同胞よ、悟れ、神は生きておられる、本来、神のかたちとして創造されたが、罪をおかし、罪と死に支配されるようになった人を救うために、神は、尊敬され、崇められているが、実は弱さ、足りなさに溢れたアブラハムなどの父祖たちを選ばれている、驚くべき恵みではないか。私たちは、ただ、神がそうされた目的、神の愛の深さ 真実を知ろう、そうする時、神の真の御心、イスラエル人だけでなく、すべての国の人を、どんなに大切に思っておられるのかを知ることができるというのです。このように本当に大切なことを捉えていましたから、彼はどれだけ力を持つ者たちであっても恐れないで堂々と立つことができたのです。大切なのは御心を知ることです。