安心して帰りなさい

■聖書:マルコの福音書525-34節   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。(34節)

 

1. はじめに

 本日の箇所は一人の女性がイエス様に出会い、大きく変えられる場面です。教会ではよく知られる箇所で、何度も聞いておられるかもしれませんが、今朝はもう一度、イエス様に出会うことの素晴らしさについて教えられていきましょう。この女性と同じように、私たちは一人一人がイエス・キリストに出会い、変えられました。私たちにもたらされているものを、もう一度覚えたいと願っています。

2. 長血の女の苦悩

 25-26節をお読みします。ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、なんのかいもなく、かえって悪くなる一方であった。一読するだけで、この女性がいかに悲惨な人生を歩んできたかがわかる、そんな箇所であります。名前も出てきませんが、あとでイエス様が「娘よ」と呼びかけていますから、まだ若い女性だったのでしょう。しかしそんな若さにもかかわらず、12年もの間病に苦しめられていたとありますから、それまでの生涯の大半が苦しく辛い病との戦いだったのです。長血というのは、出血が止まらない女性特有の難病だったそうですから、きっとたくさんの医者を頼って、今度こそは、次のお医者さんこそはきっと直してくれるだろうと、期待を持って出て行き、しかし失望して帰ってくる。これを繰り返していたのでしょう。結果は、財産をすり減らして行くだけだった。それでも何らかの光明が見えればよかったのですが、現実にはなんのかいもなく、かえって悪くなる一方。私達は成果を求めて行動しますが、労力にも関わらず得るものが少ないと、虚しくなります。まさに女性はそのような虚脱感を味わっていたのではないでしょうか。当初もっていた希望は何度も裏切られ、失望に失望を重ね、いつしか絶望へと変わり始めていた。たくさんの医者にひどい目にあわされた彼女は人を信頼することができないし、もう騙されまいと肩肘張って生きてきたのでしょう。しかしなすすべなく、あきらめが漂っていた。そんな時だったのかもしれません、風の噂でイエスという人のことを耳にするのでした。27節、彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、後ろから、イエスの着物にさわった。この時、すでにイエス様が多くの病人を癒しているという情報がこの地域一帯にも届いていて、イエス様の周りはいつもたくさんの人でごった返していました。彼女もその一人としてイエス様の前に飛び出せばよかったかというと、そうではありませんでした。ここに、長血という病気の問題があったのです。彼女が医者からもさじを投げられるなん病人であるということはすでにお話しました。しかしそれだけでなく、彼女は宗教的にも汚れているとみなされる病気に犯されていたのでした。これは律法の中に規定されているもので、この病人は汚れていて、病気が治ったら祭司のところに行ってあがないの儀式をしてもらわなければならない、つまり、罪と等しいものだと定められていたのでした。家族はこの女性の存在をひた隠しにしなければならなかったし、彼女自身誰にも相談できず、そればかりか自分の存在の意味を見失っていた。こっそりこっそり生きていた。そんな彼女でした。「群衆の中に紛れ込み、後ろから」簡単に書かれていますが、彼女はイエスの面前に躍り出て、正面からお願いすることなんてとてもできなかったのです。それでもなんとか治りたいから、群衆の中に身を隠し、こっそりばれないように近づく。そのような生き方を強いられて、これまでの人生を歩んできたのです。ばれたらなんて言われるかわからない。イエス様を取り囲む群衆の目が怖い。人を信頼できず、もう裏切られたくないと疑心暗鬼になり、それでも勇気を振り絞り、痛む身体を無理矢理にでも動かしてやってきた理由はただ一つ。28「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。名前さえもわかっていないこの女性、多くの失望を味わってきた彼女がイエス様に出会う。出会おうと一歩を踏み出した、大切な場面です。その最大の理由は、この方こそが私を助けてくれる、直してくれると考えていたからでした。おそらく確実な根拠があったわけではないでしょう。それでも、もうこれまで散々な目にあってきた彼女は、藁にもすがる思いでこのイエスのもとに来たのでありました。

 私たちがイエス様の元に行く時、いやそれに限らず、誰かに助けを求めるということについて、邪魔しようとする様々なものがあります。周囲の目であったり、自分自身のプライドであったり、まだ大丈夫、そんなひどくないという根拠のない自信かもしれない。でも、いざという時私たちはどこに助けを求めるのでしょうか。自分の財産や持ち物、過去の経歴でしょうか。この世の権威あるもの、あるいは近しい人でしょうか。本当に助けてくれるお方を知らずに、いくら地上での、目に見える助けを追い求めても、「なんのかいもなく、かえって悪くなる一方」ということになるのです。それを私達は知っています。私達もそのようにして、すがる思いで、救いを求めてここに集まるからであります。教会とは、罪を犯したことのない、聖い人たちの集まりと言われることがあります。だから敷居が高いというのです。しかしそれは全く違います。

 繰り返しますが、必ず助かるという確信を彼女が持っていたかどうかはわかりません。けれども、すべてをかけてイエス様というお方にしがみついた。すがりついた。そしてそれは、確かな結果をもたらしたのです。人目を避けて群衆に紛れ、ビクビクしながらも後ろからそっとイエスの着物に触った。29節、すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。すると、すぐに。他の理由なんて考えることさえできないほど、明らかにイエスに触れることによって彼女の痛みはなくなった。大勢の群衆が押し寄せる中、人知れず癒された一人の女性。これまで何をしても消えなかった痛みがきれいになくなったのでした。

 

3. 病の癒し、魂の救い

 しかし、これで聖書は終わりません。病がイエスの不思議な力で癒された。奇跡が起こった。めでたし、めでたし。では終わらないのでした。普通でしたら、宗教的指導者の偉大な力を表すのには十分な記述です。しかし、イエス様は単に肉体の痛みを直し、彼女のこれまでの苦しみを直して終わりではなかったのです。それは、ここでの肉体の癒しがイエス様の計画の終わりなのではなく、ここから先にこそ、イエス様の真の恵みがあるのです。それを伝えずに、去らせるわけにはいかなかった。先には彼女からイエス様に触れましたが、今度はイエス様から彼女に触れようと手を差し伸べておられる。真の意味で、この一人の女性と出会おうとされているのです。

 そのためにイエス様は驚くべきことを言い出します。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」「すぐに」と言われていますから、女性がイエスの着物にさわってすぐに痛みが直った、それと同じ瞬間だったのでしょう。それを知っているのはさわった当人、癒された女性だけでした。その時の状況を考えれば、急に何を言いだすんだこの人は、と思えるような発言です。実際イエスをよく知り、イエスの間近で旅を続けていた弟子たちも言います。31-32節そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。なぜここまで執拗に、さわった人物、すなわちイエスの力が出て行った先にいる人物を探し出そうとしておられるのでしょうか。初めての方が読めば、まるで犯人探しをするかのようです。周囲の人々もざわざわしてきたことでしょう。顔と顔を見合わせ、それぞれに問いただすような目線を送り合っている。イエスの眼差しは、ちらりと見渡すなんてものではなく、ひとりひとりじっくりと覗き込み、見ていくという強い意味がありました。それは、常識ではそんなことできませんというようなことでしたけれども、イエス様にはどうしてもしなければならないことだったのです。

 さわってすぐに気づかれたイエス様をごまかすことはできないと思ったのでしょうか、彼女はいよいよイエス様の前に出るのです。癒された喜びにあふれ堂々と、ではなく、震えながらビクビクしながら前に出ました。女は恐れおののき、自分の身に起こったことを知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そもそも、人前に出ることが禁じられていた病人でしたし、長年の病のために自分自身が、他者に対して劣等感を持ち、孤独を感じ、人を信用できなくなっていたことはすでに見てきたとおりです。そんな人が、大群衆の好奇の目にさらされる。耐えられないことだったでしょう。それでも、彼女は前に進み出るのでした。

 ここでは「自分の身に起こったことを知り、イエスの前に出て」とあります。先ほどの29節では「血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、体に感じた」とありましたが、これは文字通り感じた、癒しがあったことを実感したということです。12年間も苦しめられていた痛みがなくなったのでした。そしてこの33節では、それが単なる癒しで終わるものではなかったことを、頭で理解したのです。その間にあった、イエスがこれほどまでに真剣に探し出そうとしていることの意味を悟ったのだというのであります。イエスの真剣に自分を探し出そうとしている様子を見て、その真剣な眼差しを見て、単なる体の癒し以上のことが自身の身に起きたのだということが彼女は分かったのだと思うんですね。言い換えるならば、イエスは私に出会おうとされているんだということに気づいたのです。イエスが探した理由はまさしくここにありました。彼女と出会うために、しっかりと体の癒しだけではない救いを与えるために、探しておられ、その眼差しを彼女は知った。だからこそ、正直に自分の全てをさらけ出したのです。

 目的を果たしたからこっそり帰ろうと思ったのではなく、正直に前に出てひれ伏す。これは礼拝の姿勢です。まことの神の前に全面降伏する姿勢でした。さらに自らに起こったことを正直に告白するのでした。ルカという人も同じ出来事を書き記していますが、彼はこの時の様子をもう少し詳しく書いています。「女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころに癒された次第とを話した。」(ルカ8:47)たちどころに癒された次第だけならば、良いこと嬉しいことですので、話すこともそんなに苦ではないでしょう。群衆はイエスの奇跡を求めて集まっていましたから、彼らにとっても受け入れられやすいことだった。けれども、イエスにさわったわけ、理由を告白することは、特別に勇気のいることでした。彼女の隠しておきたい過去をさらけ出すということだからです。彼女自身12年間もの間それを自身の胸の内にしまいこみ、誰にも話すことができず、人目を避け、肉体の痛みを抱えながら心もボロボロにされながら、歩んできた。それを話すということは決して簡単なことではありません。助けを求める時に様々なものが邪魔をするというお話をしましたけれども、ましてやそれを明るみに出すということがどんなに大変なことかは私たちの想像にも難しくありません。けれども彼女は、このことの意味の重大さを知って、イエスの眼差しに刺されて、震えながらも正直に、真実を余すところなく打ち明けたのでした。それを言うようにイエスに促されたわけではありません。イエスの力を知った彼女は、その真剣なまなざしを知った彼女は、それを告白せずにはいられなかった。

 するとイエス様は言われます。34そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」「娘よ」という呼びかけは、とても優しい響きを持っていたようです。あなたの信仰があなたを直したのです。聖書の下には脚注がありますが、この直すという言葉、直訳では救ったとなっています。これは救い主、救世主という言葉と同じ「救い」です。彼女の病が癒されたということは、ただ一人の病人の回復という以上に、「救い主」の力の表れであると言い換えることができるでしょう。病気が癒されただけでしたら、勿論それもすごいことですし彼女が願っていたことですけれども、やがてまた別の病、別の困難が生まれきて、やがては死へと向かっていきます。結局は「何のかいもない」人生の繰り返しにすぎません。そうではなく、聖書が救いという時、何からの救いなのかといえば、それは「罪」からの救いに他ならないのです。すべての苦しみ、不安、恐れ、それらの根本にあるものからの救い、それがあなたに与えられたものであるとイエスは優しく語りかけるのでした。  

 あなたの信仰があなたを救ったのです。この女の信仰とはなんだったのでしょうか。彼女は罪の救いを求めていたわけではありませんでした。ただ現実の生活でボロボロになり、疲れ、悲しみを経験してきた彼女が、もうこのお方しかいないと、すがりついたあの姿であります。信仰を信頼と言い換えることがありますが、自分の体重をすべて預けることのできる存在に、安心して身を委ねること。それこそが信仰に他なりません。目に見えるあらゆる助けを求めてきたが、それはすべて「なんのかいもなく、かえって悪くなる一方」だった。それでも最後の拠り所としてイエスさまを求めていた、あの姿こそが信仰の姿だと思うのです。そしてイエス様はそれを不十分だ、間違っていると言って追い返したりはなさらない。繰り返しますが、彼女はすべてを理解して、イエスさまを求めていたわけではありませんでした。彼女の信仰は、とても幼く不十分なものだったかもしれない。罪の救いなんて考えもしなかったでしょう。けれどもイエスさまにはそれで十分なのです。助けてくださいというその姿勢こそ、イエス様が求めておられる信仰であり、救いに必要なものなのです。だからこそ、イエス様は彼女を探し、それは常識的に言えば途方もないことでしたけれども、その一人の女性を探し出し、体の癒しだけを与えて帰らせはしなかった。イエス様に出会うというなににも勝って素晴らしい喜びが、今、与えられたのです。その信仰が、この地上の何物でもなく、ただまことの救い主なるイエス様に向けられる時、イエス様の力が注がれ、救いはもたらされるのです。

 

4. 「安心して帰りなさい」

 そして続けて言われるのです。「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」聖書をなんども読まれた方なら、おやと思われるかもしれません。イエス様がこのような言葉をもって、出会った人、救われた人を送り出すということは何回かありました。けれどもその時はいつも、「安心していきなさい」と言われています。実は先ほどお読みしましたルカも、本日の同じ場面を描く中で「安心していきなさい」と書いています。翻訳の違いかと思ったら、ギリシャ語でも別の言葉が使われていました。マルコはなぜあえて、「帰る」という言葉を使っているのか、説教準備の中で考えていました。正しいところはわかりませんので、想像に頼ることになるのですが、彼女にとって帰る場所とは、これまで嫌な思いしかなかったあの家であります。医者に出向くことくらいしかできなかった彼女にとっては、帰り道はいつも病院からの、暗く失望にうなだれた帰り道だったことでしょう。人々と関わることを避け、誰に信頼して相談することもできずに閉じこもり逃げ込んでいたあの家、孤独の象徴のようでもあったあの場所こそ彼女が買える唯一の場所だったです。思い出したくない、もう病が癒された今となっては仕舞い込んでおきたい過去かもしれません。孤独であり悲しみであり痛みであり疲れであり、そういった辛い現実です。しかしイエス様と出会った今、それらの暗く寂しく苦しみを与えていた場所は、180度姿を変えている。もうかつての虚しく辛い失望の帰り道はそこにはなく、明るく照らされた道、新しい生き方が先には伸びているのでした。場所は、見えるところでは同じであっても、安心して生きることができる。

 私たちは簡単に安心を失ってしまうものです。少し風が吹けば、ちょっと困難があれば、簡単にぐらつくものではないでしょうか。しかしイエス様に出会い、その力を注がれ、救われたと宣言された私たちは、もうかつての恐れふらふらぐらぐらしていた自分とは違うのです。これまでの行き方とはまるで違う人生が、このイエスとの出会いから始まるのです。安心という言葉は、ヘブル語では挨拶にもなっているシャロームという言葉です。これがイスラエルの人々にとって単なる安心ではなく、神様の祝福が満ち満ちているという意味を持っています。かけたところが何一つない、満たされた状態です。彼女にとって、今まで失ってきたものが取り返されるわけではありませんし、あの苦しかった12年間をやり直せるわけでもない。でも、もう何者にも奪われることのない、揺るがされることのない、傷つけられることのない安心が、神様の祝福が、与えられたのでありました。帰る場所は同じでも、今までとはまるで違った安心が与えられ、新しい歩みができるのです。

 

5. まとめ

 もう最後にしますけれども、この安心はどのようにして与えられたのか。それは、イエス様と出会ったこと、イエス様を求める信仰によって、イエス様の力が与えられたことで与えられた安心でした。救いが彼女にもたらされた時、イエス様の力が外に出て行った、とあります。少し誤解を与える言い方かもしれませんが、神の御子であるイエス様ですが、この地上でのご生涯になんの苦しみも痛みもなかったわけではありません。私たちと同じ真の人となってくださったイエス様は、やはり疲れを覚え、苦しみ悶えることがありました。人々を救う時にもスーパーマンのようになんの疲れも痛みもなく人々を救われたわけではありませんでした。駅前のティッシュ配りのようにそれをばらまくものではなかった。そこには犠牲があるのです。聖書中の聖書と呼ばれるヨハネの福音書3:16神は、実に、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあり、同じヨハネは、最後の晩餐の席でイエスが言われた「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」という言葉を伝えます。イエスがいのちを捨てるほどの愛が、私たちにもたらされていることを明らかするのです。本日の箇所、癒しを与える時には力が出て行かれたとありますが、その最たるものは、やはり十字架にあります。イエス様はご自身を信じるすべての者に永遠のいのちを与えるために、ご自身を犠牲にされたのであります。それほどのずっしりとした愛が私たちにはもたらされているのです。イエス様に出会うというのはこの愛を受けることであります。信仰を持って、この愛を受け止めていきたいと願います。

 安心して帰りなさい。私たちの日常には多くの困難があるかもしれません。けれども、イエス様と出会った私たちは、そのいのちをかけて愛をいただいた私たちは、その帰る場所でも平安が与えられています。新しい一週間が、神様の祝福で満ちたものでありますように、お祈りを持って終わりにします。