わたしの民がたくさんいる

❖聖書個所 使徒の働き18章1節~11節   ❖説教者 川口 昌英 牧師

 

◆(序)キリスト教と現代

①人権を尊重し、人間理性を中心として、繁栄を追求する西欧型文明が、最近まで、文明の最も発達した状態、目指すべきものとされていました。しかし、近年、その考えが急激に変わって来ています。 

 自然を征服し、また優れた者が生き残ることが中心にある西欧型文明は、地球温暖化などの深刻な環境破壊を招き、又世界の紛争、飢饉などの著しい不平等や不公正の誘因となり、現代の状況に合わない、特に、東西のイデオロギー対決が終了し、それに代わって各民族の独立意識が非常に強くなっている現代では、なおさら、その文明の役割は終わったと言われます。

 

②そして、その根幹にあると思われているキリスト教も、排他的な、対立を招く一神教であり、価値観が異なる者が共に生きる、多元化社会に合わないと言われています。なぜなら、一神教は、異なる神、価値を認めず、危険である、これからは、多神教が求められていると言われます。しかし、世界の歴史、状況を見るとその考えは根拠がないと分かります。確かに、宗教戦争と言われているものがありますが、その争いの中心にあるのは、神ではなく、自分たちこそ正しいという思い、他の存在を憎み嫌う人間の罪です。一神教か多神教かが問題ではなく、人のうちにある罪なのです。罪のゆえに人は対立し、戦い、相手をなき者にしようとするのです。

 

 

③現代、キリスト教を否定する意見が強くなっていることを承知しながら、本日「恐れないで語り続けなさい。黙っては行けない。……この町には、わたしの民がたくさんいるから。」という個所に注目していますのは、現代思想がキリスト教をどう理解しようと、全ての人に、福音、聖書の救いが必要であると思うからです。いや、もっと言うならば、この福音以外に本当の救いがありませんから、黙ってしまわないで、福音を語り続ける大切さを一同で覚えたいと願うからです。

◆(本論)主の民がたくさんいる

①始めに一言説明しますと、キリスト教は、上記のように西欧型文明と同質視されていますが、聖書の根本は自然を征服し、優れた者が勝つという考えではありません。むしろ、今日の西欧型文明の中心にあるのは、キリスト教ではなく進化思想創造主、神を否定する人間中心主義です。一部の識者は、西欧型文明とキリスト教を同じものとして見ていますが、その理解は正しくありません。勿論、大きな影響を与えましたが、今日多くの人々が問題と思っている「強者生存自然征服」のような考えは、むしろ、人が聖書から離れた、人間中心思想から出ているのです。そのことを確認して、聖書本文を見ることにします。

 

②さて、他の書簡で、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(ピリピ1章21節)、私の人生のすべてはキリストである、そしてそのキリストのゆえに、死さえもむしろ良いことだと言っているパウロが、このコリントの町の中では恐れを持ったというのです。

 「恐れないで語り続けなさい。」と言われているのは、正にパウロが恐れたことを意味しています。彼自身が、その時の様子について、「あなたがたといっしょにいた時の私は、弱く、恐れおののいていました」と明らかにしています。(Ⅰコリント2章3節) 

 不思議です。どこでも、誰に対しても堂々と福音を語り続けた人が、恐れおののいたと言うのです。コリントでの出来事を記す使徒18章では、それは当時のコリントにも居留していた、福音を否定する同胞ユダヤ人からの激しい攻撃が一つの理由だと思われますが、それだけでなく、

コリントの町の人々の反応も無関係ではありません。パウロは、人間的なもの、経済的繁栄、文化を誇り、更に大きな偶像の神殿を誇り、不道徳な生活を送っていた人が多くいたこの町の中で、人々には愚かに見える十字架のことばを語ることに意義を感じ(Ⅰコリント1章18節~23節)、それゆえ堂々と宣教し、その結果、使徒18章にあるように多くのコリント人が信じ、洗礼を受けましたが、しかし、緊張感を持って、偶像の町の人々に向き合い続けるうちに疲労が重なり、弱さを覚え、いつしか恐れおののくようになったと思われます。(旧約聖書のエリヤを思い起こします。第一列王記19章1節~4節)

 

③そんなパウロに、主は、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。……この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われたのです。(18章9節~10節)  福音を伝えることは主の働きであり、又主ご自身がいつもともにおられ、守られることを示され、何よりも主の民がたくさんいるゆえに語り続けなさい、黙ってはいけないと言われたのです。

 ここで言う「わたしの民」は、(ヨハネ15章16節に言うように、主によって選ばれる人のことですが)、表面的には分かりません。表立って、そのような表情を見せなくても、実は、心に深い渇きを覚えている、生きる目的、意味をみいだせずにいる、またおかした罪、自分の弱さに苦しんでいる、死の恐怖に覆われている、他の人を受けとめられない、赦せない、愛せないで苦しんでいる人々です。

 他の神々、哲学的な教えでは決して、それらの思いを埋められない人々です。まことの神、創造主そして救い主によらなければ埋められないものだからです。ですから「わたしの民」とは、切に福音を待ち望んでいる人々のことです。主は疲れを覚え、弱さを感じていたパウロでしたが、福音を待っている人々がいることを知らせ、語り続けなさいと励ましておられるのです。

 

◆(おわりに、この箇所を受けて)、昔も今も、人を本当に救うのは福音のみ

 始めに話したように、私たちの国ではキリスト教に対して否定的に考える傾向が強くなっているように思います。現代社会、何よりも日本という国に合わないというのです。

   しかし、昔も今も、これからも又どこにおいても人を本当に救うのは、主の福音のみです。何故なら、人は神によって創造され、それゆえ、この主のもとに帰らなければ決して救われないからです。ですから、私たちも又、周りの人々に福音を語り続けましょう。人の心を開かれるのは、聖霊です。後のことは委ねて、この福音のうちにこそ、救いがある、新しい人生、永遠のいのちがあると伝えて行きましょう。

 以前に、大学教授をしていた方から、もしクリスチャンになっていなかったら、どこかでのたれ死んでいたか、或いは、自死をしていたに違いないと聞いて、驚いたことがあります。学部を最優秀で卒業し、最短の27歳でドクターを取得した、また人格的にもとてもバランスがとれた、すごい人だと思っていたところに、そう言われたので本当にびっくりしたのです。

 私たちも、この人ほどではないにしろ、救われる以前はそうだったと思います。少しも表面には出さないのですが、心の深くには深い孤独、本当に自分は生きる意味があるのだろうか、或いは、私の人生はこれで良かったのだろうか、これまでおかして来た罪はどうなるのだう、更に、死ぬとはどうなることなのだろう、死の向こうはどうなっているのだろうかという思いを持ち、恐れていたのではないのでしょうか。そして、生きることに虚しさを感じていたのではないでしょうか。

 

 主イエスは、どの時代であれ、どの民族であれ、どんな生き方をしている人であれ、人を救い、新しい人生を与えるために救い主としてお生まれくださったのです。ですから、恐れないでこの福音を知らせようではありませんか。この福音こそ、人を本当に救うことができるのです。