失われた人をさがして

❖聖書個所 ルカの福音書19章1節~10節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。ルカの福音書 19章10節       

     

◆(序)この個所の背景

①著者ルカについて(聖書記者の中で唯一の異邦人。医者、歴史家)

 四福音書の中で、この福音書にしかない記事を見ると、ルカがイエス様について特に伝えたいと思ったことが分かります。次のような記事です。「町に一人の罪深い婦人の救い」(7章)「 良きサマリヤ人の物語」(10章) 「救いに関する三つの譬え}(15章)  、そして本日の「取税人のかしらザアカイの救い」(19章)等。これらから分かるように、ルカは、当時の社会において、信頼されない、むしろ除外され、否定されていた、律法を知らず、敬虔でない人々をも主は大切にされ、愛しておられることを示し、神の愛の広さ、深さを明らかにしようとしています。

②ザアカイという人物(名前の意味、正しい者、清い者という意味)

 まず、エリコの町の取税人のかしらであり、金持ちでした。取税人は、神の民であるユダヤ人から見ると、宗教的に汚れた異邦人と見なしていたローマの手先になっているゆえに、 彼らも汚れているとみなされ、忌み嫌われていました。又、取税人は、その立場を利用し、定められている以上を税金と偽り、その差額で私服をこやしていた不正な者が多く、その点からも特別の罪人と思われていたのです。

 ザアカイはそんな取税人であり、社会の中では神の民の道からはずれた者として嫌われ、憎まれていました。しかし一方、取税人のかしらとして力を持ち、金を持ち、富んだ豊かな生活をしていた人物でした。

 そんな生活を送っていた彼が、イエスを見たいと思ったと聖書は記します。メシア(油注がれた者、旧約聖書で何個所も預言されている、来るべき救い主) との評判が高いイエスが自分たちの町に来られたと知ったのです。彼は、それを聞くや、イエスが通られる道に行きましたが、既に大勢の人が沿道を覆い、背が低いため見ることが出来ませんでした。けれども、ザアカイは、イエスを見ることを諦めることができなかったのです。

 聖書は、その理由を記していませんが、この記事全体から見ると、ザアカイは自分の罪や人生の意義、或いは死後のことを考えるようになったと思われます。本来は、神の民、聖なる国民であり、律法があることを知っていながら、富や力を求めて取税人となり、かしらにまで上り、富と力は手に入れたが、一方、心の奥底に虚しさと恐れが増え広がって、出来るならば人生を新しくする機会を得たいと思っていたようです。

 

 そんな心境になっている時に、各地で、絶望していた人々に平安と希望を与え、新しい人生を与えているという評判のイエスが来たというのですから、彼は何としてでも主を見たいと思い、大人げない行動であったが、ふさわしい木を見つけ、登り、人から見えないように、葉っぱに隠れて主を見ようとしたのです。

◆(本論)そんなザアカイに主イエスがなされたこと

①しかし、思いがけないことが起きました。そんなザアカイに、主が、ザアカイがこっそり隠れているところの真下のところで止まり、上を見上げて「ザアカイ」と名前を呼んだのです。これまでに一度も会ったこともない彼に、いきなり「ザアカイ」と名前を呼んだのです。

 聖書の世界では、神が人の名前が呼んでいる場合、その人の全てを知っていることを表します。(参考、ルカ10章41節、ヨハネ20章16節など) 主イエスは、ザアカイに対し、ザアカイ、わたしはあなたのこれまでの生き方、今、何を思っているのか、全て知っていると伝えたのです。

 続いて、主は、驚き、混乱していたザアカイに対し、とても重要な「急いで降りて来なさい。きょうはあなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われました。これは、新約聖書が

書かれた元々の言葉であるギリシャ語本文では「きょう、あなたの家に泊まることは、わたしにとってどうしても必要なことである。」という意味です。主は、わたしがエリコの町に来たのは、ザアカイ、あなたに会い、あなたと話し、あなたに神の救いを届けるためであると言われたのです。有名なヨハネ4章のサマリヤの婦人の記事でも同じことが記されています。(4章4節)

 

②これを聞いて、ザアカイは、大喜びをして主を迎えました。しかし、一連の主イエスとザアカイの会話を聞いていた群衆は、「あの人は罪人のところに行って、客となられた。」とつぶやき、不平を漏らしています。(5節~7節)

 けれども、自分の人生のことを真剣に考えていたザアカイにとって、他の人々の非難、つぶやきは、今や少しも気になりませんでした。彼は、主に、自分のこれまでの生き方、行動を率直に認め、告白し、律法に決められている以上のことをすると表明しました。そして、そんな今までの生き方を悔い改めたザアカイに対し、主は、救いを宣言されたのです。(8節~9節)

 ここで、ザアカイが言っていることは、自分の財産の半分は貧しい人たちに与え、残りの半分でだまし取った分を四倍にして返す(本来は二倍弱で良かった)というのだから、実質的に全てを失うことです。念のため、ザアカイのこの行動は、主の愛を知り、自分のこれまでの生き方を認め、悔い改めて表明したことであり、赦されるため、救われるためではありません。主イエスの側も、ザアカイが大喜びで主を迎えた時点で、彼の心の根底が変わり、神を受け入れ、救われたことを知っていたのですが、明白な彼の行動に対し、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」とあらためて公に宣言されたのです。

③最後に、主は、人々に、救い主としてこの地上に来られた目的を「人の子は、失われた人を捜して救うために来た」と宣言します。主イエスにとって、救いを与えるのに、その人の立場や経歴は関係ありません。真の創造者のもとから離れた、今は見えなくなっている全ての「失われた人」を捜して救うために来たのです 。本当は、ザアカイだけでなく、町の者もまだ救われていない人は、すべて失われている者たちなのですが、まず、ザアカイのように自分の人生について悩み、苦しんでいる人のことを「失われた人」と呼んだのです。主は、民族も国籍も立場も経歴も過去の行動も関係なく、ただ罪の中にいて、生きる目的を見失い、自分の居場所を失っている者を捜して救うために来られたのです。そして、ザアカイのように受け入れる者が救われるのです。

 

◆(この箇所を受けて、終わりに) 主は一人ひとりの中心にあるものをご覧になる。

 この個所は、私たちに希望を与えます。 今も、主は、失われた者を捜し、救いを与えようとしていると知ることができるからです。(ヨハネ15章16節) 

 

 最初に話したように、ルカの福音書には、この福音書だけに記されているものが割合あります。私は、7章に出てくる婦人の救いとか、15章の三つの譬え(百匹のうちの失われた一匹の羊、十枚のうちの一枚の銀貨、二人のうちの弟息子の救いなど) を見ますと、本当に嬉しさが湧いてきます。神の愛、神の救いのすばらしさに目が開かれるからです。神の愛は、こんなにも深いのかと驚かされるのです。そして、同じ愛を今も与えてくださっているのだと思うと感動します。主は、人のように上べを見る方ではありません。自分でどうすることが出来ないで悩んでいる者を招いておられる方です。神の救いは、立場や経歴ではなく、自分の内に罪があることが分かり、そのために神の御子が救い主として来られ、十字架の死を受け、三日目に死より甦られ、罪と死に対する勝利を与えてくださったことを受け入れるだけです。この神の愛を知る時、人生が変わるのです。(第二コリント5章17節) どうすることも出来ないで苦しんでいた人が、ザアカイのように、この福音を知り、生きる喜びと希望を持つようになっています。あなたはもうこの救いを知っていますか。まだの方は、恐れないで注がれている神の愛を受け入れて欲しいのです。