臆病な神のしもべ

■聖書:出エジプト記41-17節       ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」(出エジプト4:11-12

 

1. はじめに

 エジプトから逃げ出したモーセが神に出会い、新たな使命を与えられる。そんな場面を見ております。前回、そして本日お読みいただいた箇所は、モーセという人物を考えるときに避けては通れない箇所であると言えるでしょう。あの手この手を尽くし、様々な理由を並び立てて、神様の召しを拒もうとする、臆病なしもべの姿がここにあります。海を割り、民たちをエジプトから逃がし、神と顔と顔を合わせて語り合い、十戒をはじめとする律法の書を与えられた、あの偉大な指導者の姿はどこにも見られません。これらすべての素晴らしいわざが、こんなにも臆病な人物によってなされた。それがわかる大切な箇所でもあります。

 そして、彼を臆病にさせているものは、彼だけが持っている特別なものではないということに気付かされます。私たちのうちにもうごめくものであります。主の道に進むことに後込みさせ、神様に信頼することをためらわせ、主にある喜びや感謝を曇らせ見えにくくする何かがあるのです。前回、イスラエルの民をエジプトから助け出すべく、「今、行け」と命じられた(3:10)神様に対して、「私は一体何者なのか」(11)「疑う民たちに伝えるあなたの名前は何なのか」(13)と質問をぶつけてきたモーセを見ました。そしてその一つ一つに答えられた神様。モーセの恐れや不信仰から出て来る質問・疑問・不安に応えられることによって、神様の豊かなご性質が浮かび上がってくるのでした。本日もまた、私たちも持つモーセの弱さと、しかしその中でこそ働かれる神さまの果てしない愛を見てまいりましょう。    

2. 臆病なモーセの尻込み

 本日の箇所、最初の言い訳は、イスラエルの民たちがなんというか…というつぶやきです。4:1モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現れなかった』と言うでしょうから。」エジプトを離れて40年が経っていました(使徒7:30)。世代は変わり、モーセが知っている人々はほとんどいなかったことでしょう。当時のイスラエルの人々がどのように考えるかなんてわかるはずもないのです。しかし彼はこういうだろうと決めつけている。モーセがこのように言うのは、かつての経験があったからに違いありません。虐げられているイスラエル人同胞を助けるため、エジプト人を打ち殺したあの40年前の事件です。しかし事件そのものよりも、彼が助けたはずの同胞が冷たく言い放った言葉と態度がより彼を打ちのめしたのでしょう。「だれがあなたを私のつかさやさばきつかさにしたのか。」(2:14)この時の恐れ、受け入れられない痛みが彼の心には今なお刻みついていたのだと思うのです。それが彼を臆病にし、神様の行けという声に対して身動きできない、彼の枷となっていた。

 人には多かれ少なかれ、このような触れられたくない痛み、できれば忘れてしまいたい経験があります。けれども忘れることができず、何かの拍子がガツンと襲いかかってくる過去の失敗、悲しい出来事、苦しい思い出があるのではないでしょうか。そしてそれは過去のことでありながらも、現在の生活のあちらこちらに影響を及ぼす。一つの棘のように気にはなる、触ったら痛む。けれども、それをどうするわけにもいかず、飲み込みつつ、触れないように触れさせないように生きて行く。ある人は、一度の失敗で自分が嫌になり、受け入れることができなくなってしまった。自分なんて価値がないんだと自暴自棄になる。ある人は失敗を恐れて次の一歩を踏み出せなくなる。いじめられていた経験を持つ人は、周りから疎外されるのが怖くて、自分を殺し周りと呼吸を合わせてひっそりと生きてゆかざるを得ない。モーセもまたそうだったのではないかと思うのです。受け入れられなかった経験があるから、再びそうなることを恐れて重い腰が上がらない。ましてや、彼が開いて取ろうとしているのは当時の強国エジプトです。そういったものを見るとき、モーセが特別に弱く臆病だった、軟弱だったわけでなく、すべての人が持っている、あるいは持ちうる弱さがこの不信仰の背後にはいつもあるのだと気付かされるのです。

 注意したいことは、モーセはここで、民が信じるような何かをくださいと言っているわけではないということです。そもそも、前回の場面では民たちに伝えるということを前提に、名前を尋ね、それに対して「わたしはある」という、神の無条件の存在そのものを表す名前をいただいていました。にもかかわらず、彼は一方的に話を終わらせようとしているのです。この1節は答えや解決を求めた問いかけや懇願ではなく、つぶやきにすぎません。すでに自分の中では答えは決まっていて、それをなんとしてでも神様に納得させるように、諦めてもらえるように言い訳を重ねているだけです。後ほども触れますが、この後も「私はことばの人ではありません」(10)、そして最後には「どうか他の人を遣わしてください」とその思いの丈をいよいよ包み隠さず打ち明けるのでした。これもまた私たちにも通ずるところであります。けれども神は、そんな初めから従う気もないモーセに、しつこいほど声をかけ続け、ご自身の器にしようとされるのです。もう嫌そうな空気はモーセから漂っていますが、空気を読まずにずかずかとくる。時に怖いなあと思ってしまうこともありますが、それが神様のしつこいほどの愛なのです。

 諦めにも悪あがきにも聞こえるモーセの拒絶の声に対して、主はしるしをともなって答えられます。2-9節には三つのしるしがありました。第一のしるしは2-5節。主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。「これらは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」これはエジプトで奴隷となっているイスラエルの民だけでなく、やがてエジプト王パロの前でもなされる「しるし」であり、印象に残っている方も多いのではないでしょうか。まさしく不思議、人間の常識を超えたことがここで起こっています。杖が蛇に変わる。ここで神様は何か特別な武器を新しくお与えになったわけではありません。なんてことないただの杖を用いられたのです。「あなたの手にあるそれは何か」。モーセの目にはただのつまらない日常で使っている杖でした。けれども、神様の目にはそれは無限の可能性を秘めたものであった。もちろん杖が特別なのではなく、杖を蛇に変えるほどの力を持つ神様、といったほうが正しいでしょう。蛇というのは狡猾なサタンを表していますが、ここでもサタンの力に溢れるエジプト王国を映し出していると解釈されています。蛇を掴む。悪の力恐るるに足らず!すべて神様の手中にすでに置かれている、このしるしを通してそれを伝えようとされているのでした。さらに6-7節、矢継ぎ早に神様は語られます。主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。ツァラアトに冒された手が癒される。ツァラアトというのは皮膚の病気であり、古い訳ではらい病と訳され、今日ではハンセン病と呼ばれるものだと考えられています。人々はこれを忌み嫌い、僻地に追いやられていました。宗教的には罪の結果であるとされ、それが治ったかどうかは祭司の判断を仰がなければならなかったようです。ここでツァラアトに冒され、それが癒されるということは、虐げられ苦しめられているイスラエルの民の回復を表している、神様はその力があるということを示すしるしであるのです。不治の病とされていた病を作るのも、癒すのも、創造主である神様の御手であり、その御手を持ってイスラエルの民を回復させるというメッセージでした。

 そして三つ目は、イスラエル解放の前に立ちはだかり、そんなことはできやしないと諦めさせる目に見える困難、強国エジプトをも揺るがすものでした。8-9節「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声にも聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」ナイルはエジプト人にとって命を与える豊かさの象徴であり、一旦氾濫すると人の力ではどうしようもないほどの力を持っているため、宗教的には礼拝の対象でもありました。そんなエジプト人の拠り所であるナイル川さえも、神によっては簡単に変えられてしまう。やはり神様の力を表すのです。しるしとは、何かを表すマークです。それ自体に意味があるわけではありません。そのしるしを通して神様は何をあらわそうとされているのか、これが肝心なのです。この三つのしるしで神様があらわされたことは、イスラエルの民が、モーセを遣わした方を知り信じるため、そして何より、遣わされるモーセの不信仰を打ち壊すためのものであります。この力強い神を信じ、信頼して行け、恐れるな、ということであります。実際に、4章の終わりでは30-31節アロンは、主がモーセに告げられた言葉を皆告げ、民の目の前でしるしを行ったので、民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。とありますから、その通りになったということでしょう。私たちがあれこれ考え、様々な理由を持って自分自身を納得させ、神様に言い訳を並べ立てるものですが、その全てを越えて働かれるお方であるのです。

 

3. 創造の主への信頼

 それでも動き出すまでに時間のかかる神のしもべはなお拒みます。10節、モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」次に彼が理由に挙げているのは、自身の能力、欠点です。けれども、これについてはすでに語られていました。3章での「イスラエル人をエジプトから連れ出すなんて、私は何者なのか」という問いに対して、神様の答えは「わたしはあなたとともにいる」というものでした。質問に対する真正面からの答えではないように思えてしまいます。しかしこれは、「あなたがどのような存在であれ」、もっと言えば、「どのような存在であると自己評価しているのであれ、わたしがともにいるということが、一番の遣わすことの理由なのだ」ということでありましょう。「あなたがどう思おうと、わたしはあなたとともにいることは決して変わらない。あなたはわたしとともにいる存在だ」とも言えるでしょう。

 さらに直前で与えられたしるしは、何か彼の中に特別なもの、強い部分を探し出し用いたわけではなく、何の変哲もない杖です。「あなたの手にあるそれは何か」とは、何か特別なものを用意せよ、長所を出せ、鍛え上げよと言われているのではなく、今持っているありのままを差し出すということが唯一求められていることなのです。しかし私たちは自分の足りなさ、弱さ、欠けばかりに目を向けてしまうものです。人間的な強さが見えなければ、それは隠しておきたい部分、役に立たない部分だと考えてしまう。かつて失敗をしているならば尚更です。簡単には癒えない傷を持っているのならさらにそうでしょう。しかもモーセがここで「あなたがしもべに語られてからもそうです」、何も変わっていません、あなたは変えてくれませんと言って神様への不満をつぶやいている。しかし神様は、そんな私たちの弱さが溢れ出たつぶやきにも、ご自身がどのようなお方なのかを表し、応えてくださるのであります。

 中心聖句ともさせていただきました、11,12 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」私たちの全ての悩み、とまどい、尻込み、臆病に対しての答えをくださることばではないでしょうか。私が足りないと思っている自分の欠け、弱さや失敗、いまでも痛む傷。しかしそれらを作られ、癒されるのは、神様だけである。この創造の主なるお方を知るということです。単に知識として知るだけでなく、そのお方の中で私は、私たちは、生かされているのだ。愛されているのだ。それこそが私たちが直面している問題の最大の解決の道なのです。私たちは自分の欠けが補われたり、私自身が強くされたり、目の前を塞ぐ壁が崩れたり、そんな解決の道を求めます。けれども、そんな解決は、結局は何も変えることなく悲しみは何度でも襲ってきますし、問題は次から次へと現れて、その度その度に打ちのめされなければなりません。

 

 けれども、イエス様のまなざしは違いました。生まれながらに目の見えない人がいました。周りの人々、イエス様の弟子たちにさえ「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と言われ、勝手にもっともらしい理由を作り上げられていた。そしてこの人自身がそれを飲み込んで受け入れてしまっていたことでしょう。自分は欠点があると、存在の価値なんて考えられもしなかった。けれどもイエス様が言われたのは、彼の目が見えないのは、「神のわざがこの人に現れるため」、言い換えれば、「神様の栄光が現れるため」なのだというのです。人はその目の見えないことをマイナスにしか捉えられません。弱さだとする。しかし神の目には決してそんなことはないのです。私たちは生涯でマイナスに出会う時、痛みや悲しみを覚えます。それは意味なき苦しみや悲しみ、痛みではなく、その人その人に神様のわざは用意されている、その人その人の持っているもの、それは汚くて欠けだらけでつまらないもの、自分では嫌で嫌でしょうがないものかもしれませんが、それをそのまま差し出すことで、神様はそれをご自身の栄光のための器としてくださる。神様のなさることはいつもそうです。5000人以上の人々を満たしたのは、大富豪の財産などではなく、一人の少年のわずかな昼食でした。しかし主はそれを祝福し何倍にも増やしてくださる。それは主こそがこの世界を創造され、支配しておられるから。モーセに限らず、旧約の預言者の多くが、神様に名前を呼ばれた時に躊躇します。まだ若いのですと言ったエレミヤ、唇が汚れていると言ったイザヤ、遣わされるところが敵国ニネベと知って逃げ出したヨナ。しかし神様はそんな人たちをこそ神はご自身の器として用いてくださるのです。私たちの目には足りないところばかりでも、神様は私たちが足りないと思っている部分を用いて、私にしかできないことを計画しておられる。そのための欠けであり、弱さなのです。他でもない、私たちを造って下さったお方がそれを言ってくださる。神様の目に失敗作の人なんて一人もいないのです。すべての人が主の目には高価で尊い。弱ささえも私の大切な一部であり、神様の栄光をあらわすために用いられるのであります。創造主である神様が、そのままでおいでと言ってくださる。弱いところにこそ神様の栄光があらわされるというのはパウロも確信をもって伝えているところです(1コリ1:26-312コリ12:9-10)。この出エジプト記、このモーセの弱さ溢れる記事を書いたのは、他でもないモーセ自身だと言われています。人は皆失敗を隠したがりますし、自分の弱さは見せたくない。けれども彼がこれを書き残したのは、もちろん聖霊なる神のお働きですが、この彼の弱さを通してこそあらわされる神の栄光があるからではないでしょうか。パウロは「キリストの力が私をおおうために、むしろ喜んで私の弱さを誇りましょう」といっています。そして、神は再び「さあ、行け」と、臆病なしもべの背中を押すのでした。

 

4. 弱さのうちに全うされる本当の強さ

 しかしこれに対しても、この時のモーセは拒絶します。しかも、もうなんの言い訳も挙げずに13節、すると申し上げた。「ああ主よ。どうか他の人を遣わしてください。」結局のところ、彼は最初からこの言葉を秘めていたのでしょう。「私は嫌です。行きたくありません」。もっともらしい理由を並べ立てても、つまるところは神様への不信頼、自分の思うところを突き通したいという願いがある。私たちの思いが神様の上にあるということは、本来あるべきところにいない、罪人の姿であります。先ほど、私たちの弱さを用いて栄光と変えてくださるというお話をしましたけれども、弱さや足りなさと不信仰を一緒にしてはなりません。弱さや足りなさは、それを含めて造られた神様がいくらでも補い用いてくださいますが、そんな補い用いられることさえも求めないことは、創造の主への不信頼・不信仰であり、それは罪なのです。だからこそ神様は怒られた。

 神様はモーセの思いをここで初めて知ったとか、もう堪忍袋の緒が切れた、ということではないでしょう。彼の拒絶的な思いは既にご存知だったはずです。その上で、あえて空気を読まない神様。それは、何よりも信頼を求めておられることを明らかにされるためだったのです。言い換えれば、目に見える自分の足りなさや直面している問題の大きさに心奪われるのではなく、神を見上げ信頼することこそ神は求めておられる。14節以降をお読みします。すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。私は彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出てきている。あなたに会えば、心から喜ぼう。あなたが彼に語り、その口に言葉を置くなら、私はあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」この箇所でアロンが加えられたということは神の怒りの結果、罰であるという人がいます。モーセのかたくなな不信仰に怒られた神様は、モーセ一人で受けるはずの祝福をアロンと二分されたのだというのです。けれども、それはちょっと違うのではないかと思います。確かに神様は不信仰を好まれず、怒られます。けれども、それによって罰を与える方ではないのではないか。私たちの不信仰は砕かれ変えられなければならないが、それで罰するようなお方ではない。というより、もしそのようなお方なら、これほどまでにふさわしくないモーセという人に固執することはないんじゃないでしょうか。全てをご存知の上で神はモーセを選ばれ、一人では歩めない者のためにその不信仰を戒めながらも、助け手を与えてくださっている。なんとかして神のしもべとしてたち、祝福に入ることができるようにと。しかも「今、彼はあなたに会いに出てきている」と既にセッティングされているのです。だからこそ、モーセがあーだこーだ言う前に、すでにアロンを助け手として召していてくださり、口の重いモーセを変えるのではなく、その弱ささえも用いて神が共におられることを何度も強調して教え、励ましているのです。

 

5. まとめ

 「あなたの手にあるそれは何か」と尋ねられた時、私たちは何を差し出せるでしょうか。神様の栄冠に続く計画は一人一人にあります。かつて失敗し、大きな傷を負い、臆病になっているモーセにさえそうでした。神様はご自身の栄光を何か特別に立派な人ではなく、弱く欠けの多い器にすぎない私たちを通してあらわそうとされます。自分でさえ自分が嫌になることがあったとしても、「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか」という、私たちに必要なものをすべて備え用いてくださるお方にお委ねし、それぞれが遣わされているところへ、神の栄光へと向かってまいりましょう。