十字架と世

❖聖書個所 マタイの福音書27章32節~44節   ❖説教題 「十字架と世」

◆(序)この場面について

 本日の個所には、十字架を見つめる三様の人たち、人間像が記されています。第一は、十字架につけられた主をからかっているローマの兵士たちです。彼らは裁判の時から徹底的に主を蔑み、からかっています。(27節以下) 

 第二は、頭を振りながらイエスを罵り、「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救って見ろ。十字架から降りて来い。」と言った人々です。(39節~40節) 

 第三は、群衆たちといっしょになって主をあざけった祭司長、律法学者、長老たちです。(41節~43節) 

 

 私は、十字架を見つめるこれらの三様の人々は、どの時代でもどの国でも変わらない、今日でも人々は十字架をめぐって同じ反応をしていると思います。

◆(本論)十字架に対する人間像

①まずローマの兵士たちです。一言で言うと現実の力しか信用しない人たちです。彼らは、主が裁判を受けた時から、この男は、ユダヤ人の王であるとからかい、面白がり、蔑んでいます。 

 この人々は、ローマの兵士として、ユダヤ人に対する優越感を持つ者たちでした。彼らは、この国がはるか昔から唯一の神を信じ、礼拝してきたことを知っていました。けれどもいくら宗教的に特別な民族だとしても、目に映る実際の姿はローマ帝国に支配されている姿であったのです。それゆえ、兵士たちはユダヤ人を自分たちより価値が低い人間とみなしたのです。犯罪人として処刑される者についてはなおさらでした。そのため、どれだけ神の真理を示す、人を救う方と言われても真面目に受け止める姿勢はさらさらなかったのです。彼らにとって人生の真理、基準、価値は、自分たちの偉大な国、ローマ帝国であり、実際の力であったのです。そんな彼らから見るならば、「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞きしたがいます。」(ヨハネ18章37節)という主は、最も蔑み、からかいの対象でありました。

 これら兵士たちから、どんな人間像が見えるだろうか。自分が属している立場、自分が持っている現実の力しか信じない人々です。現代でも多く見られます。聖書の福音を聞く機会があっても、世に置ける立場や持っている力のゆえに、ここに出てくる兵士たちと同じように恰も自分が一段高く立っているかのように神のことばを信ずる者を蔑み、嘲る者たちです。

 しかし、人は、社会的立場が全てではありません。人生の意味を問う霊的存在でもあります。社会的立場ばかり考え、自らの霊的状態を無視し続けるならば、必ず手痛い報いを受けることになります。誇りとしていた仕事、人間関係が終わり、また老いて死に向き合う時になって、自分の人生は何のためであったのか分からなくなったと言う人が大勢います。

 

②続いて十字架を巡る第二の人間像は、頭を振って主を罵りながら道行く人々です。(39節)

 処刑場は特別の場所ですから、この人々は、たまたまそこに通りかかった者たちではありません。イエスという人物が処刑されると聞いて、わざわざ見に来た人々です。最近エルサレムに堂々と現れたイエス、これまでの宗教の指導者と全く違うことを語り、不思議なわざを行い、各地で評判となった男がどんな最後を迎えるのか見に行こうと思って来た者たちです。この人々は、主がつけられた十字架をただ黙って見ていたのではありませんでした。主を正気を失った者のように見、主のすべてを否定し、悪態をつき、罵っています。 

 この人々から想像できるのは、流されやすい、また人の表面しか見ない人々です。誰かがイエスという方は律法学者、祭司たちとは違い、上よりの権威を持っている、またどんな生き方をしている者であっても真の平安と希望を与えることが出来る方だと言えば、主のおられるところを熱心に探し求め、反対に実はイエスという男はこの国において良からぬことを企み、各地で騒ぎを起こしている人物だと言えば、以前に聞いた主のことばや見たすばらしい御わざをすっかり忘れ、扇動されて一緒になって主をあざけり、罵る人々です。

 福音書の中に記されている主と出会い、救われた、真正面から主のもとに行った者たちと違い、一歩も二歩も離れて主を遠巻きに見ている者たちです。自分がどこから来て、今、どこにいて、どこに行こうとしているのかということよりも、人の目を恐れる者たちです。それゆえ、主が十字架におかかりになっている意味など知ろうとはしない、自分に関係があることだと考えようとはしないのです。

 現代でも主イエスの十字架の死について同じような反応をする人が多くいます。自分も真の希望も平安もない生き方をしていながら、神の御子の十字架の意味、目的を伝えると嘲り、罵る人々です。周りを恐れ、周りに流され、自分自身を見失っている姿です。

 

③十字架を巡る第三の人間像は、41節にあるように十字架につけられているイエスを見上げて嘲っている祭司長、律法学者、長老たち指導者たちです。主が神の国の到来を宣べ伝え始めて以来自分たちの語っていることが否定されたと思い、また主が神の子と名乗ることに対し、神を汚していると非難し、激しく憎む者たちでした。

 そのような思いを持ち、十字架を見上げていた彼らには憎んでいた者を処刑することができる、邪魔者を葬り去ることができるという勝利感があったのです。そんな彼らから想像できるのは、自分たちこそ人生の真理を知っていると高ぶっている、活躍し、人々から評価を受けている者たちに多く見られる姿です。立場も知識も経験もあるが、福音に触れる機会があってもこの国にはこの国の伝統、価値観がある、聖書は外国のものであるとはじめからはねつける人々です。賢く、思慮深く、人々と良い関係を持って生きているから評価され、成功者となっているが、実は、真の平安も希望を知らない人々です。

 

◆(この箇所を受けて)我々は十字架を誇る生き方をしよう

 以上、人は、神が与えてくださった御子の十字架という究極の恵みに対しても、本当に頑なであることが分かります。

 そんな中で是非、知って欲しいのは、こんな人の姿に対する神のお姿です。同じ十字架の場面で、主は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分で分からないのです。」と祈っておられます。直接、手と足に太い釘を打ち込まれているという苦しみの中、ご自分をからかい、嘲り、罵った者たちのために、彼らは自分たちがしていることの本当の意味を知らない、わたしは、彼らのそんな態度の中心にあるもの、人間の一番の問題、罪、彼らの人生を暗いものにし、不安にし、恐れをもたらしている罪と死の支配から彼らを救うために来て、身代わりとなっていると言われたのです。

 使徒パウロは元々、人間的に誇るものがいっぱいあった人物です。(ピリピ3章) しかし、主の十字架の死と復活を知って以来、自分にはこの十字架以外に誇りとするものがないと声高く言います。(ガラテヤ6章14節)なぜなら、主が受けてくださった十字架(死と復活)は、真に新しい人生をもたらしたからです。(第一ペテロ2章22節~25節) 

 

 今も多くの人々が追い求めている人の幸福は移り変わります。しかし主の十字架がもたらした神の祝福は、決して変わることがないのです。人の世がどう言おうと、私たちは、十字架を誇る者、また伝える者でありたいのです。この日本においてもです。この十字架の意味を知る時、私たちの心の奥底が変わります。一人ではないこと、主がともにおられることが分かるからです。