生ける水の川

❖聖書個所 ヨハネの福音書7章37節~39節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも

渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

                          ヨハネの福音書 7章37節~38節

◆(序)このことばが語られている場面

 

   多くの人々に生きる力を与えているこの主のことばは、深い御心によって語られていることばです。その理由は、これから見て行きますが、私は、主が誰も想像していなかった特別な時に、このことばを語っておられることに真実な愛を感じるのです。具体的に見て参ります。

◆(本論)このことばによって主が伝えようとしていること

①まず、主がこのことばを言われたのは、「祭りの終わりの大いなる日」でした。そのことは、このことばの意味を知るうえにおいて、とても大切です。

 というのは、この祭りというのは、旧約時代から行われていた重要な祭りの一つ、「仮庵の祭り」と呼ばれる、大事なイスラエルの三大祭りの一つでありました。(レビ記23章34節~37節) 収穫の時期に行われることから「収穫祭」と言われることもありますが、イスラエルの全ての男性が参加し、七日間を粗末な仮庵で過ごし、いけにえをささげ、八日目に再び聖なる会合を開き、神が隷属状態にあったエジプトから解放し、約束の地へ導いてくださったことを感謝する非常に大切な祭りだったのです。

 主が、エジプトから救いだし、神の民「聖なる国民、宝の民、祭司の王国」とし (出エジプト記19章)、また約束の地、カナンへの旅路の間、昼は雲の柱、夜は火の柱としてともにおられ、いつも守ってくださったことを思い起こす時であったのです。

   現代でも多くの国において、独立記念日や特別な出来事があった日を国の記念日として定め、祝っていますが、イスラエルでは、千年以上経っても、この仮庵の祭りを行い、出エジプトの歴史を憶い、イスラエルの根源を確かめていたのです。永遠に残る民たちの誇りであり、心の拠り所であったのです。人々は、この祭りに参加して民族のあり方、個人の生き方を考えたのです。 

 それほど重要な祭り、しかも祭りの終わりの大いなる日、参加した民たちの心が最も高揚する日です。その日に、主は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたのです。普通なら、その日は祭りが終わるときであり、祭りに参加して良かった、自分たちのアイデンティ(自分たちたらしめるもの)を確認できた、もう一度、これに立って歩もうと新しい思いに満たされるときです。ところが、正にこの日に、主は本日の37節~38節にあるようなことを言われたのです。これは何を意味しているのでしょうか。

 主イエスは、本当に人生の真理を求めるなら、いくら重要な祭りであっても、人はそれによっては心の渇きがいやされないということを知っていたのです。民族の心の拠り所であり、大勢の参加者がいる大事な祭りであっても、心の奥底の渇きは癒されることはないと知っておられたのです。本来は、人生に対する飢え渇きの思いが満たされ、整えられ、新しい力が与えられるときであるのに、真理を求めれば求めるほど、飢え渇きの思いが湧いて来ることを知っていたのです。そんな思いを持っている人々に、主は、わたしがその渇きをいやすと37節~38節のおことばを語られたのです。大胆な、又力強いことばでした。

 

②私は、このことばは同じような状況の中にいる私たちにも語られていると思います。ただ、同じような状況と言っても、言うまでもなく、現代日本に生きる私たちには、聖書が記す祭りは

ありません。そうではなく、自分たちにとってアイデンティ、自分たちの喜びであり、支えが終わるときという意味です。

 それは、それまでの人生の中心にあったものであり、一人ひとりにおいて異なります。ある人にとっては家族であったり、ある人にとっては仕事であったり、又人々との繋がりであったりします。それぞれ違いますが、喜びであり、力の源であり、自分が拠って立ってきたものです。そして、これまで自分を支え、又誇って来た、しかし、実は心の奥底の渇きが満たされなかったものです。聞いている方の中には、それが終わったから虚しく感じるにすぎないという思う人がいるかも知れませんが、しかし、本当に人生の真の幸いを感じるものであったなら、それが終わったとしても充実感が残るはずです。ところが現実に虚しさを感じているのは、それらは大切なものであったが、人生の核に届くものではなかったということです。

 そんな祭りの終わりの日、期待が終わり、虚しさを味わっている者に、主は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われているのです。何故なら、人は本来、神によっていのちが与えられ、生かされ、神とともに生きる存在であるからです。「人はパンのみにて生きるのではない。神の口から出る一つひとつのことばによる。」存在であるからです。

 主は、それがイスラエルの民にとっての祭りのように、神につながる霊的なものであっても、或いは、私たちのような具体的なものであっても、どれだけ拠り所としたいと思ったものであっても、心の奥底にある渇きをいやすことはできない、ただ、根源の罪の贖いをなされる御子のみができるのであり、そして、その方のもとに行くとき、誰によっても決して与えられない真の渇きがいやされると言うのです。

 

②これこそが人生の支え、拠り所としてきたが、それらによってはどうしても心の渇きが癒されない者たちに向かって、主は、このことば、わたしのもとに来て、わたしが与える水を飲みなさい、そうするなら、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れでるようになると言います。神ご自身である聖霊がともにおられる人生、罪が贖われて神の子とされている、恵みに満ちた人生です。旧約時代の預言者、エゼキエルも、ただ神が与える水、神のみことばのみが人を変える、絶望から希望に変えると言っています。(エゼキエル47章9節、朗読) 

 この間も話しましたが、キリスト教の歴史にとって、信仰の教義の確立のために大きな役割を果たしたアゥグスチヌス(A.D4世紀) は、「告白」の中で、「神よ。あなたは、人に、あなたのもとに帰らなければ、決して埋められない心の空白を与えられた」と言っています。熱心な信仰者である母モニカの祈りに背いて、放蕩生活を送り、流行りの哲学を学び、神秘主義宗教を信じていたが、どうしても心は満たされなかった、それどころか非常に苦しかったのです。しかし、ある時に戸外で遊ぶこどもの歌に導かれて聖書を開いたときに、神がおられること、神の愛が分かったのです。そして遂に、主のみが自分を救うことができるとアゥグスチヌスは確信したのです。

 旧約聖書の伝道者の書の著者も同じことを言います。生きる意味を求めて、快楽、仕事、思索と懸命に取り組み、それぞれに意義を感じましたが、どうしても心は満たされなかったのです。けれども最後、分かったのです。ただ、悔い改めて、神に帰ることです。(伝道者の書12章13節)

 

◆(終わりに)主は心の奥底から湧きいずる水を与えてくださる

 主イエスは、清く、正しい生活を指示する聖人ではありません。人間のあらゆる問題の中心にある罪を贖うために、人のかたちをもってお生まれくださり、最後には罪の身代わりとして十字架の死を受けてくださった方です。本日のみことばにありますように、心の奥底に生ける水の川が

 

流れでる生涯を与えるために来た方です。あなたはもう主が与える水を知っていますか。この方を知る時、もう孤独ではありません。どんな時にもすべてを委ねることができる人生の開始です。