幸いな人生

❖聖書個所 ローマ人への手紙8章31節~39節   ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして

御子といっしょにすべてのものを、恵んでくださらないことがあるでしょうか。           

                                 ローマ人への手紙 8章32節

◆(序)この個所の意味について

 以前に、クリスチャンは最後まで現役であると書いたことがあります。一旦、義と認められ、神の国に生きるとされた者は、意図的に主から離れない限り、どんなに気持ちが沈み、自信を失っても体が弱っても、神の側は変わることがなく、終わりまで愛する子として見ていてくださり、永遠についての約束を変えることがないという意味です。

 きらきらの日の礼拝においてこのところに導かれたのは、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも同じです。」(ヘブル13章8節)とあるように、高齢になっても、神の側は変わることがない、同じように恵みを持って導いておられることを覚えるためです。

 この箇所は、神は義とされた者を変えてくださると強調したことに続いて、神が味方であるなら、だれが私たちに敵対できようかと勝利が約束されていることについて言っているところです。

 

 パウロは、32節~34節でその根拠を示します。どんなものの中にあっても主を信ずる者は圧倒的な勝利者となり、何も私たちを主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできないとクリスチャン人生のすばらしさについて語ります。(35節~39節)

 

◆(本論) 圧倒的な勝利者となる約束

①この個所においてまず確認しておきたいのは、パウロはこれらのことを信じる者たちが厳しい状況、苦しみの中にいることを知っていながら語っていることです。信仰者の置かれている現実を知ったうえで、神が信仰生活が導き、そして最終的に栄光を与えてくださる味方であるなら、誰も何もキリストにある者を倒すことが出来ないと言うのです。

   私たちは、圧倒的な勝利者、勝利者以上の勝利者となるとか、どんな被造物もキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないという強い表現を見ると、特別恵まれた、特別の人のことを思いがちですが、決してそうではないのです。むしろ今、困難、苦しみの中に置かれている信仰者を想定しながら言っているのです。当然、多くのものを失っている高齢の人々についても当てはまるのです。私は、このこと、この箇所は、ごく普通のクリスチャンについて言われていると理解することは大変重要と考えます。

 

②パウロは、そんなすばらしい恵みが与えられている理由を示します。第一に、聖霊なる神ご自身が味方として共におられ、闘って下さることです。みことばは、聖霊について、心の深い渇きを満たし、いつも、またいつまでもともにおられ、真理を悟らせ、世のものではない力を与える方だと言います。(ヨハネ7章、14、16章)、またこの方は慰め主でもあります。(Ⅱコリント1章) この生ける聖霊がともにおられ、真の栄光を与えて下さるから苦しい中にあっても倒されることはないといいます。

   二つ目は、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ、死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(32節)  一人ひとりを救い、新しい人生を送らせるために、御子という最も大切な存在を惜しまず犠牲にするほど愛してくださった方が、今後、主にあって生きるために必要なすべてのものを惜しんで与えないということがあろうか、いや御子と一緒に(御子を与えるほどの愛と一緒に) 必ず必要なもの、困難にあっても耐え抜く力を与えてくださると言います。

 クリスチャンとして懸命に歩んで来た人が大きな試練に逢い、これ以上、前に進めないという思いになった時、信仰に導いてくれた恩師からこう言われたそうです。「あなたが、これまで守られて来たのは、これからも神があなたを守ってくださるという保証ですよ。」本当にそうだと思ったときに、あのヨハネ14章27節(朗読)にあるように、世のものとは違う、主の平安と希望を再び思い起こし、力が湧いてきたそうです。

 三つ目は、訴える者、罪の問題を問う者がいても、 神が義と認めてくださり、又私たちの罪のために死んでくださった方、いやよみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、とりなしていてくださるからです。私たちは苦しい局面に陥った時、信仰そのもの、罪の赦しそのものの忘れがちですが、大きな犠牲を持って罪を赦し、神の子としてくださった方が、今も御座においてとりなしをしてくださっているのです。完全に清くされているからではありません。いつも言うことですが、救われた後も私たちには罪の性質が残っているのです。そういう者ですが、しかし、真に裁く権威を持つ主が完全に義としてくださり、神の国の住民としてくださっているのです。ですから、いくら訴える者がいても打ち負かされることはないのです。また、死の時にも恐れる必要がないのです。義の冠が用意されているのです。これも大きな恵みです。

 このように、聖霊がともにおり、父なる神が惜しまずに愛を注ぎ、御子なるキリストが今も天においてとりなしてくださっていますから、キリスト者に敵対できる者はだれもいないとはっきり言うのです。

 

③こうしてパウロは、主を信ずる者は、経験するさまざまな苦しみ、痛みを与えるあらゆるもの中にあっても圧倒的勝利者になることができると言います。(35節~37節) そしてそれゆえ、どんなものも私たちをキリストの愛から引き離すことは出来ないと明言します。(38節~39節)

 ここにあげられているものについて、一つひとつ見て行くと悪いものばかりでなく、良いものがたくさんあることに気づきます。死は最後の敵と言われ、最も恐ろしいものですが、いのちとあるのは新しい人生です。本来すばらしいものです。又、御使いも言うまでもありません。更に権威ある者、これも神によって立てられたもののことです。

 「今あるものも、後にくるものも、力ある者も、高さ、深さも」と言われるものも、どれも人にとって必要であり、喜び、力を与えるものです。すなわちパウロは、最後の敵といわれる死だけでなく、人に深い喜びを感じさせるもの、聖さを感じさせる存在、神によって立てられたもの、そのほかどんなに必要であり、すばらしいものであっても、それだけでは、人生を支えることはできない、それができるのは、キリスト・イエスにある神の愛のみであると婉曲的に言うのです。

 

◆(終わりに)夕暮れ時に光がある

 まだ若い人は気づいていないかもしれませんが、年配になると、本当に大切なのは、世の人がもてはやす人生の成功ではなく、真に幸いな生涯であることが分かってきます。

 人生の終わりが近づきつつあることを意識しながら、自分の人生を感謝を持って振り返ることができ、これからのことについても心から平安を持って委ねることができることです。

   それは、夕暮れ時に光があると言える人生です。(ゼカリヤ14章6節) 神は、私たちにこのような人生を与えてくださいました。この世的な成功が不安定であるのに対し、神が与えてくださるこの平安は決して揺るがされることがありません。パウロはⅡコリント4章16節~18節において、この勝利を持つ者の思いを告白しています。(朗読) 私たちも同じ恵みが与えられているのです。

 

 一日いちにち、日々のデボーションにおいて、与えられている恵みを確認し、どんなに心配なことがあっても主を信じて、すべてを委ねてを歩んで行こうではないでしょうか。私たちの弱さのうちに働いてくださる主と共なる生涯です。