誘惑と勝利

❖聖書の個所 ルカの福音書4章1節~13節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 「イエスは答えて言われた。『人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる。』と書いてある」(マタイの福音書 4章4節)

 

◆(序)この箇所の背景

 よく開く箇所ですが、信仰生活の基本に関するところですから、あらためて、ご一緒に教えられたいと願っています。このところは、主が神の国の福音を宣べ伝え始める直前にあった出来事です。この場面について、ルカやマタイは「御霊に導かれて」、マルコは「御霊はイエスを荒野に追いやられた。」と記しています。(参考 ヨブ記1~2章)

 

 時が満ち、神の国、全き救いの時が到来したことを宣べ伝える前に、神は救い主ご自身が試練、誘惑に遭うようにされたのです。罪をおかすこと以外は人と同じようになり、飢え、渇き、疲れ、痛み、悲しみ、苦しみなど、人のありのままを知る方によって救いを行うためでした。ここにおいて注目すべきは、サタンの誘惑の内容です。人にとって根源的な意味を持つ非常に巧みな誘惑です。あたかも自分の言うことが人にとって正しいかのような態度です。

◆(本論)次々、繰り出される巧みな誘惑

①まず、サタンは、四十日四十夜、何も食べず、空腹を感じていた主に「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」と言います。これは、激しい空腹状態にあった主に空腹を満たすように言われているだけではなく、深い意図があるのです。あなたは救い主として、人の罪を贖うために、世に来たと言うけれども、人の問題は、例えば空腹が満たされるように、具体的な問題が解決されることではないか、生きるうえにおいて神とか罪とか救いなどは必要ないと言う考えです。

 人の問題は結局、具体的な問題が解決されることである、それだけで良い、生きる目的とか永遠のいのち、真理や人生の意義など必要ないという考えです。神に敵対するサタンの究極の目的は、創造主、生きておられ、一人ひとりを目的を持って生かし、深く愛されている神などいない、人生に対して裁きを下し、人の永遠を決定する権威をもっている神などいないということです。意図しているのは、救い主として来た御子に、人生において大切なのは現実である、具体的な問題が解決されることでないか、創造主を信ずること、神の国とその義を求めることなど必要ないと言う生き方を示すことでした。

 そんなサタンの誘惑に対して、主はみことばを持って答えています。4節です。本日は、並行箇所のマタイの福音書を読みます。(マタイ4章4節) 「『人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつのことばによる。』と書いてある。」このパンとは生きるうえにおいてなくてはならない具体的な事柄のことです。心や体の健康、生活の糧、社会的立場、人間関係などどれも大切な具体的なものです。誤解してはなりませんが、主は、これらを少しも軽視してはいません。大切であると認めますが、人が生きるのはそれだけではないと言うのです。人が生き、真の意味で喜びや希望や平安を感じるのは、そのような「パン」だけでなく、神のみことば、神の愛、まことの救いを知ることによるというのです。

 何故なら、人はただ偶然に生まれ、生きている存在ではなく、命が与えられ、目的と使命を持って生かされている存在であるからです。キリスト教史において大きな役割を果たした、最も偉大な教父といわれるアウグスティヌス(4世紀)が「告白」の中で語っているように、人は、神のもとに帰らなければ、決して埋められない空白を持つ存在であるからです。

 

②このように、人が生きることの本質についてはっきりと応答した主に対して、サタンが仕掛けた第二の誘惑は、5節~6節です。(朗読) これも又、巧みな誘惑です。

 人が生きるうえにおいて、神の存在を抜きにすることができないと答えた主に対して、その神は、自分にとって都合の良い神で構わないのではないかという考えです。ここにおいて、サタンが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょうと言っている、その中心にあるのは、利益をもたらす存在、偶像を人生の土台にすれば良いという思いなのです。これも人に対する根源的な又非常に根強い誘惑です。どのような神であっても構わない、自分や自分の家族に利益をもたらすと約束しているなら良い神であるという考えです。古今東西、世界中で溢れ、人々が親しんでいる神々です。この国に生きる私たちにとっても地域の神が、中でも一番強いのは、先祖が神となって生活を守ってくれるという考えです。ですから、この誘惑も簡単に退けることが出来るものではなく、本当に根強いのです。

 しかし、どのように巧みな誘惑であっても、主イエスは、みことばを持って、偶像を神としてはならない、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」と書いてあると答えます。神は、唯一、創造主であり、全てを治め、全てを裁く権威を持っておられる方である、都合の良いように神々を造ってはならない、そして自分たちで造りだした神々に縛られてはならない、万物の存在の根源であり、目的である神のみを崇め、仕えることが大切と明確に言います。

 

③第一、第二の誘惑も、はっきり退けられたサタンが準備していた第三の矢も又、本質的なものでした。神を信ずること、真の神のみを礼拝することを示したことに対し、それら主のことばを受け入れているように見せかけて、実は全てをひっくり返すような誘惑をしかけているのです。9節から11節です。(朗読) 

 この中心にあるのは、神を自分のために利用する信仰、生き方です。神を信ずること、従うことの中心を骨抜きにしてしまう考えです。一応、神を信じている人生を送るように見えながら、実態は自分のために神を利用している姿です。神をしもべとしたり、執事、従者にしようとしているのです。そこには生涯の全てを主に委ねる、みこころに従うという聖書が示す信仰、キリストに従うという信仰の姿はありません。

 サタンは第一、第二の誘惑が退けられたことを受け入れたように見せながら、最後の罠をしかけているのです。それに対して、主は再び、12節(朗読)でみことばを持って、そのような考えは誤りである、本末転倒であると言います。信仰の中心はあくまで神であり、信仰者は(全てのことをあい働かせて益としてくださる神~ローマ8章28節~の)御心の中で生かされ、全てを委ね、仕える存在であると明言します。

 

◆(終わりに) サタンは今も一人ひとりを執拗に誘惑している

 神に敵対する存在は、救われても罪の性質が残る私たちに、今も巧みに語りかけ、神を信じ、礼拝し、従う生き方から逸れさせ、離れさせようとしています。本当は神なんていない、或はどんな神でもいいんだ、更に神を利用すればよいという考えに引き込もうとしています。そして、主を中心とする真の信仰生活を送らないようにしています。

 大きな災害が続き、何が起こるか分からない不安感の影響だと思われますが、以前に比べれば、宗教に関心を持つ人が多くなっています。しかし、どんなものでも良いというのではありません。 すべてにみことばを持って答えた主のように、一人ひとりに命を与えられ、治めておられる真の神をおそれ、その方を心から礼拝すること、その方を人生の中心において従うことが大切なのです。本来の人生の意義を悟らせ、生きる喜びをもたらし、深い平安を与えてくださる方を信じ、中心にすることです。

 

 人の根本にある不安、犯した罪からくる不安、自分には生きる意味があるのだろうか、死についての不安を解決するのはこの道だけです。どうぞ、惑わされないで、神のもとに留まり、その方によって真に充実した生涯を送っていただきたいのです。そこから本当の新しい人生が始まるのです。生涯を振り返って幸いな人生だったということができるのは、神のみことばによる人生です。