心に御名を記す

■聖書:出エジプト記37-22     ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」

                               (出エジプト記314節)

 

1. はじめに

 本日の箇所の特徴、それは何と言っても、神様ご自身がご自身の名前を現されたというところにあります。言い換えれば、ご自身がどのようなお方なのかを伝えられたということでもあります。名前はその人がどのような存在なのかを表すものだからです。神様がご自身の姿を現される。その理由は、モーセがそのような神様の姿を知った上で、神様の働き人となることを望まれたからであります。今日表される神さまのお姿は、私たちにとってどのように働かれ、私たちの生き方をどのように変えるのでしょうか。期待して、み言葉に聞いて参りましょう。

 2. 神とはどのようなお方か。あらわされた四つの姿

 さっそく本日の箇所を見て参りましょう。本日は少し長い箇所をお読みいただきましたが、特に前半の15節までの箇所から、神様の四つのお姿、ご性質を見ていきたいと願っています。神様がモーセに出会われたのは、イスラエル解放のためにモーセを遣わすという目的がありましたが、それだけではありませんでした。それだけでしたら、何かメッセンジャーを立てれば良いのです。そうではなく、ご自身が出向き、出会われるということに意味があったと考える方が良いでしょう。もっと言えば、出会い、会話をする中で、ご自身がどのような存在なのかをモーセに知らせるという目的があった。これは他のどんな使者がどんなに言葉を重ねても伝えきれないことであります。モーセに示された神様のお姿はどのようなものだったのでしょうか。

 

 まず1点目は「憐れみ深い神様」の姿です。以前この箇所をお読みした時にも確認したことですが、直接神様が動かれたことの大きな理由がこれでありました。7節から9節をお読みします。主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいるところに、彼らを上らせるためだ。見よ、今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまたエジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。…」神様がモーセに出会われたのは、「わたしの民」と呼ばれるイスラエルの悩みを見、その叫びを聞いたから、その痛みを知っておられるからでした。もっと言えば、その背後には2:24「アブラハム、ヤコブ、イサクとの契約を思い起こされた」ということがあります。「思い起こされる」とは、「覚えている事柄に積極的な注意を向けること」と説明されます。つまり、神様は忘れていたものを思い出したのではなく、ずっと思っていたこと大切にし続けてきたことを、時が来ていよいよ前進させる、私たちの目に見える形で実行され始めた、ということです。この言葉はヘブル語でザーカルという言葉が使われています。これも度々お話ししていますが、「心に刻む」という意味を持つ言葉です。ギリシャ語ではアナムネーシス、想起するという意味です。特に戦争の傷、悲しみを、そして犯してしまった罪を忘れずに覚え続ける、心に刻みつけるという文脈で使われる言葉として重い意味を持っています。ちなみに、イエス様が最後の晩餐で、「わたしを覚えてこれを行え」と命じられた時の言葉がこれです。忘れてもいいものを思い出すのではなく、いつもそれを覚えて、心に刻まれたその約束を何度も何度もなぞり確認して生きないさいと言われているのです。まず神様がイスラエルの民との約束を心に刻み、いつも覚えてくださった。それに基づく憐れみが本日の箇所から、いよいよ現実の助けとなっていくのであります。

 この約束を心に刻まれた神様は、この出エジプトをもって約束達成、後は知らないよというお方ではありませんでした。もう責任は果たしたとは言わずに、その心に刻まれた愛を覚え続け、イスラエルのためだけでなく世を愛され世を救うためにイエス様を送ってくださったのでした。民の悲しみの声を聞かれその痛みを知っておられる神様がエジプトの地から脱出させ、乳と蜜の流れる約束の地に導き入れてくださったように、私たちの苦しみや悲しみ、悩みや思い煩いを知っておられる神様がそれらの罪の中から救い出し、約束の神の御国へと入れてくださる。神様の愛はなにひとつ変わることなく、いやさらに深く大きく表されていくのでした。人は神を忘れることはあっても、神が人を忘れることはなく、いつもみこころにとめておられる。これが憐れみ深い神様のご性質、姿であります。

 

 そしてそのために、モーセを遣わされた。これが本日の箇所で教えられる神様のみ姿の2点目、「遣わす神様」でありました。先ほどの憐れみ深い神様は、ああかわいそうだといって知っておられるだけではありません。どこか遠くから同情して終わりではない。具体的な救いの手段を用意しておられるのです。9節から10節をお読みしますが、その憐れみを、現実の助けとして実行に移すための器としてモーセを派遣しようとするのでした。「見よ。今こそ、イスラエルの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」「今」という言葉が二度使われていることに気づきます。かつてはイスラエルの声が届いていなかったのか、というとそうではないはずです。かつては神様の準備が整っていなかったから助けられなかったのかといえばそうでもない。神様の時をすべて知ることはできませんし、その意味を完全に理解することはできないのですが、ここで準備が整ったのは、遣わされるモーセ自身であると考えるのが良いでしょう。これはあきらかにかつてのモーセの失敗を意識して使われた言葉なのです。かつてモーセはその拳で、彼の正義に立ってイスラエルの民を助けようとしました。その箇所で何度も強調しましたように、彼は、辺りを見回しましたが、ついぞ神を見ることをしなかった。神の声に耳を傾けることなく、求めることもなく、自身の怒りに身を任せて暴力に頼った。その結果は、助けようとしたイスラエルの民からも、殺してしまったエジプトからも追い出され、慌てて逃げ出したのでした。しかし、そんなモーセを神は荒野での羊飼い生活を通しての40年間で整え、もう一度遣わそうとされるのでした。エジプト王宮に住む王妃の息子としてのモーセではなく、打ち砕かれた羊飼いのモーセこそ、神の器にふさわしかった。何故彼が選ばれたのかという理由はありません。モーセはだれよりもそれを聞きたかったことでしょう。人は誰でも認めてほしいものですし、それが力にもなるものです。モーセはその答えを求めていたのでしょうか。あるいは、そんなことは私の仕事ではないという不信があったのかもしれません。とにかく神様に問いかけるのでした。11節「モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」多くの神学者は、これは純粋な疑問ではなく、断りの言葉だと解釈します。モーセの中には自分がその大役を担う器だとはとてもとても信じられなかった。いや、かつての彼は自分こそがと思っていました。だからこそ拳を上げて助けようとしたのです。当時の彼は自信にあふれプライドで固められていたのです。神に頼ることなく、自分の力で生きていけると思っていた。しかしそんな誤ったプライドや自信は砕かれなければならなかったです。なぜなら、そのようなプライドから出てくる行動は簡単にへし折られ、少しの壁に当たるや簡単に失望してしまうからです。まさしくモーセがそうでした。あのエジプト王宮にエジプト王妃の息子としていたかつて、多くの人に崇められていたことでしょう、力もあった40代の若い自分でした。しかしそんな自分ですらあっけなく跳ね返されてしまった。その失敗が彼に重くのしかかっていました。あれから40年、80歳にもなった私ができるはずがない。エジプトを逃れて40年。彼の高慢は粉々に打ち砕かれましたが、それでもまだそのような力に頼っているので、それさえも失った80歳のモーセは弱気なのでした。それが「私はいったい何者なのでしょう」という発言に現れている。

 考えてみれば、神様の人選はいつも不思議ですよね。年老いたアブラハムをイスラエルの礎として召された。旧約聖書中大預言書とされるエレミヤ記を記すエレミヤは、神様の呼びかけに対して「まだ若くて、どう語っていいかわかりません」というような人物でした。新約聖書でも、イエス様が弟子に選ばれたのは、学も力もない漁師たちや人々から嫌われていた取税人。それどころか、のちにイエス様の福音を世界に広げたパウロという人物は、クリスチャンを迫害していた「敵」でありました。そんな、普通だったら考えられない人物を、いつも神様はご自身の器として選び名前を呼び遣わしてくださるのであります。いや、聖書中の人物を思い出すまでもなく、私自信、私たち自身を考えてもそうだと思うのです。こんな弱い私たちがそれぞれの家庭や職場、学内、地域に遣わされている。もっと適した人がいるのではないかと思うことが多くありますが、それでも、神様がここに置かれているのだということ、ほかでもない私を、私たちを、私たちと一緒に生きる人々に福音を伝える器としておいてくださっているのだ。自分を知れば知るほど、何よりの驚きではないでしょうか。しかし、そんな私たちを間違いなく、ご自身の弟子として遣わしておられるのです。

 

 さて、かつての失敗を重く背負うモーセは尻込みました。しかし神は続けて語られる。本日の箇所が教える神さまの第三のお姿は、遣わすだけでなく、遣わした者と共に歩み、戦う力となってくださるというお姿です。12節「神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」私たちは多くの場面でためらいます。モーセがそうであったように、多くの預言者たちがそうであったように、自分はふさわしくないと思い、「私が何者だというのですか」とつぶやきたくなる。そんなとき、神様は私たちが何者なのか、どれほど優れた者か、選ばれるにたる者なのかを伝えるのではなく、「神様が共にいてくださる」ということを伝えるのでした。自分自身に自信を持ち頼っている者は壁にぶつかり、自分が何者でもないことに気づきます。そんなとき、自分ではなく自分と共にいてくださるお方に目を向けることができることこそ、私たちクリスチャンの本当の強さとなるのではないでしょうか。派遣してくださった方がいるということもそうですが、そのお方が共にいてくださるということはさらに力強い者です。私は弱いけれども、私と共にいてくださる神様は強いのです。

 「主われを愛す」という賛美の一節を思い出します。主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ。一つ思い出があります。学生時代、この教会の皆さんと韓国に行きました。朝、韓国の街を一人で散歩していると、耳慣れた曲を口ずさみながらすれ違ったご夫妻がいました。そのときに曲が、主われを愛すだったのです。早天祈祷会の帰りだったのでしょうか。韓国語ですから意味はわかりませんが、英語やインドネシア語でこれを歌うのを聞いたことがあります。世界中で、われ弱くとも恐れはあらじ、と賛美できるのは、同じ神様を知っているから、同じ神様が伴ってくださるからなんだ!と一人で感動しながら、一緒に韓国へ行った先輩が寝ている部屋に帰りました。私たちはよくこのお方を忘れて自分一人で戦い、自分一人で悩み、自分一人で傷つき倒れているように感じてしまうことがあります。しかしそうではない。私たちの名前を呼びご自身の元へと引き寄せてくださった神様は、私たちを呼ぶだけ呼んであとはお前たち一人で戦いに行け!とは言われないんですね。わたしが共にいる。これがかつてのモーセにはなかった力の本当の源であるのです。派遣によって立ち上がる力を与え、共に生きることで歩いていく力も与えてくださる。神様は私たちの力の根拠を、私たちがこの地上でやっていける根拠を、いつもここにおいておられます。イエス様はまさしくそのように弟子たちを励まされました。世の終わりまでいつもあなたがた共におられるとマタイの最後で約束されています。それどころ、世に来られたイエス様の存在そのものがそのようなしるしであったと言えるでしょう。イエス様に与えられた名前、インマヌエル。「神は私たちと共におられる」という意味の名前が、預言者イザヤによって預言され、その実現があのクリスマスの日にあったのでした。まさにしるしとして、何度も思い出すように言われているのです。

 

 しかし、この共なる神の姿を聞かされても、モーセは恐れるのです。13節「モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名はなんですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」一読すると、前向きな姿勢のようにも聞こえてきます。けれども、「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである」と言われたすぐあとでこれを聞くというのは、先のしるしを信頼していない、それだけでは不十分だと言っているようなものです。不信仰な者は、せっかく神様が与えてくださっている印にすべての体重をかけることができず、他のものに頼りたがるのであります。これから先も神様とモーセの対話は続きますが、モーセは色んな角度からあーでもないこーでもないと言って、自分の安心を探そうとしていますし、言い換えればなんとかしてその召しから逃れたいとしています。先週のみ言葉ではありませんけれども、自分に与えられている素晴らしい光が、まるで恥ずかしいもの、面倒なもののように枡をかぶせ隠し、彼はスルスルと逃げようとするのです。しかしそんな彼の狭く浅はかな考えをすべてぶち壊し、有無を言わさぬ答えを神様はされるのでした。それが、本日の中心箇所にもさせていただきました、14-15節です。神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、わたしをあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」ここで神様が、ご自身の呼び名を表されています。いわばご自分がどのようなお方なのかを直接にお語りになっているのです。その名前は「わたしはある」。何か哲学的な言葉のようです。確かに理解するのが難しい言葉ですが、この言葉は存在を表す、英語で言うところのBe動詞のように、とてもシンプルかつ多彩な動詞であります。この両面から教えられたいと願います。

 一つは、シンプルに、存在するお方であるということです。言葉を補うならば絶対に存在し続けられるお方ということ。これはこの講壇からも何度も語られていることですが、私たちは絶対的なものを持たない世界の中に生きています。確実にあると言えるものは何一つない。それは私たちの中にも、この世界にもない。なぜなら、この世界は、わたしは、存在しなかったときがあり、必ず滅びるときがある「被造物」だからです。造られたものですから、私たちの中には永遠なんてものはありえないんですね。しかし神を知らずに生きていた私たちは、そんな造られたものにありもしない絶対の価値を見出し、そこに信頼しているのです。こんなに誤りの多い・もろい自分を自分の王として生きていた。あるいはいつかは無くなる財産や権威などに信頼を置いていた。でも、そんな目に見えるものはときに一瞬で崩れ去ります。すると頼るものを失ったものは支えを失い、希望を失い座り込んでしまうのです。そんな人がなんと多いことでしょう。いつまでも残るものなんて私たちには持ち得ないのです。しかし、「わたしはある」と言われるお方は違います。唯一、作られずして存在しているお方、昨日も今日も永久に変わることがないと賛美を受けるお方だからです。作られたものに信頼を置くとき、それは偶像となります。しかしそれらは存在していないときがあるもの、有限なもの、永遠とは程遠いものであります。しかし、神は違う。エジプトやカナンの地にはびこる虚しい偶像に対し、また今日の私たちの心を捉え離さない偶像に対し、「わたしはある」と言われるのでした。

 さらに、このお方の名前について、ある有名な説教者はこのように伝えます。ここで「わたしはある」と言われているのは、金額が書かれていない小切手を渡されるようなものだ。ここに私たちは自由に必要な金額を書き込み、その恵みを受け取ることができる。このように説明するのです。外国の方ですので文化が違いますが、言いたいことはこうでしょう。それは私たちの好き勝手に神様を作り上げていいということではもちろんなく、神様は、私たちの必要にいつも、完全に答えてくださる存在であるということです。「わたしは〜である」という表現は、特に新約時代、イエス様が好んで使われたものであります。先週のメッセージでもありましたが、暗やみの中に置かれ、死の地と死の陰に座り込んでいた私たちに対して、「わたしは光である」と語られました。罪と罪過の中に死んでいた私たちには「いのちである」と語られ、本当に頼るべきお方を知らずに弱り果て倒れている私たちには「良い羊飼い」としての姿をお示しになりました。この悩みに対して専門外であるから別の助け主を頼りなさいなんて跳ね返されることのないお方なのです。私たちのすべての必要をご存知であり、そこに最善の解決を与えてくださる。だからこそ、私たちは大胆にこのお方の名前を呼び、全力でぶつかることができる。必ずそれを受け止め、答えてくださるお方だからです。それはときに私たちの考えをはるかに超えて働かれるのであります。しかし何れにしても「わたしはある」と示されるお方は、荒野にいて様々な悲しみ、試み、困難に遭遇する私たちのすべての必要と弱さに答えてくださるお方なのです。常に、どんな境遇にあっても「わたしはある」と語られるお方に、近づくことができる、示していただいた名前を呼ぶことができる。大きな幸いが与えられているのです。ここに四つ目の姿、「わたしはある」と言われる姿があります。

 

3. 呼び名を与えられたモーセ、御名を心に記して生きる

 さて、そんな四つのお姿が本日の箇所には表されていました。同情される神、遣わされる神、共におられる神、そして永遠に変わることなく存在しておられる神。私たちは、この名を覚え、心に記して生きることができるのであります。いや、そうせよと言われている。神様が示してくださった名前やお姿は、大事にタンスの奥のしまったり、高いところに飾っておくような名前ではありません。代々にわたっての「呼び名」であるからです。呼び名とは、読んで字のごとく、誰かを呼ぶときの名前です。神様はこのようにわたしを呼びなさいと言ってくださっている。しかもそれは永遠に、代々にわたってとありますから、永遠に関係を持つことを、神様が願っておられることがわかります。これまで一方的に注がれる憐れみ、遣わし、共にいてくださるお方であることを見てきました。しかしここで、名前を呼ぶことができる、関係を持つことが許されているということに気づくのです。いや、そのように生きなさいと言われているのです。今日見て参りました神様のお姿、その名前、そしてご自身がどのようなお方なのかをお示しになったのは、私たちがこのお方の名前を呼ぶことを求めておられるからです。そのようにしてこの名を心に刻み、このお方と共に生きることが求められている。

 

 16節以降の続く箇所では、ここには神様の計画が明らかにされています。特に20節、わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行うあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。ここには勝利が約束されているのでした。私たちに照らし合わせてみると、ここまで綿密に進むべき道が示されることはまずないでしょう。ときにそれを知りたいと切実に願うことはありますが、それは多くの場合には明らかにされてはいない。けれども、ゴールは明らかに示されています。どんな道をたどるか、そこにどんな困難がありどんな解決があるかはわからないけれども、イスラエルの民がエジプトを出て約束の地に入るように、私たちはこの罪の世界から神の国に入ることが約束されている。経過はどうであれ、必ずこの地上での苦難困難をはるかにしのぐ喜びがもう確実なものとして用意されている。そうではないでしょうか?私たちはこの示された名前を知りながら、神様の存在を知りながら、なおも自分に頼って生きていることはないでしょうか。限りあるものに心を奪われてはいないでしょうか。モーセのようにぐちぐちといろいろなことを言って、神様への信頼を揺らがせてはいないでしょうか。もう一度このお方の素晴らしい御名を心に刻み、歩み始めたいと思います。

 

4. まとめ 〜弱い者を用いられる神様〜

 もう最後にしますけれども、モーセのここでの姿は確かに不信仰であります。しかし、はっきり言ってこちらの方が私たちには身近なのではないでしょうか。私たちの弱さの代表のような姿を呈しているように思うのです。そんな彼に対してこそ、神様はご自身の名前を表され、ご自身がどのようなお方なのかを表されたのです。わたしにはできません、若すぎます、失敗しましたという人が大きく用いられる。自身の弱さを隠し、とりつくろってなんでもできるかのようにいう人を喜ばれるわけではないのです。神様が喜ばれるのは、砕かれた人、悔いた心であります。もちろんモーセにもまだまだ砕かれなければならないところがたくさんあります。でも、神様はそんなモーセを選び、出会い、そんな彼に必要な姿を示してくださり、手を取って立たせてくださった。私たちもまた同じです。砕かれなければならないところが多くありますが、それでも、わたしと一緒に生きようと呼びかけられている者です。「わたしはある」とご自身を表されたお方に信頼し、このお方の素晴らしいお名前を心に記し呼び求めつつ、また新しい週、新しい月の歩みを進めてまいりましょう。