世界の光

■聖書:マタイの福音書513-16節       ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。(エペソ人への手紙5:8

 

1. はじめに 

 本日はお二人の兄弟の洗礼式、本当に喜びの日であります。今日の日に至るまでには、ご家族をはじめたくさんの方の祈りがあり、なによりも決して諦めることなく救いの手を伸ばし続けその名前を呼び続けておられた神様の深い愛がある。それを噛みしめる日であります。私たちの教会においても大きな喜びでありますが、さらに大きな賛美が天の御国では響き渡っている。その喜びに満たされ、み言葉に聞いて参りましょう。

2. 暗やみから光へ変えられた

 本日の箇所に入る前に、中心聖句のみことばから始めていきたいと思います。エペソ人への手紙5:8をお読みします。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。以前は暗やみ、今は光。注目したいのは、暗やみの中にいた、光の中にいる、ではなくて、存在そのものがやみであり、光であると言われていることです。これは先程お読みいただいた本日の箇所にも通ずるところですが、光のようである、光の中にいる、光になれ、などではなく、あなたがたは、光である。こう明言しているのです。マタイの福音書本日の箇所では、日本語では訳出されていませんが強調表現を使っていて、「あなたがたこそは、世界の光です」と言われているのです。

 あなたがたは、以前は暗やみでした。このことばを聞いてどのように感じられるでしょうか。私たちを取り巻く環境が決して明るいものではない、薄暗いということは、連日報道されているニュースを見ていればなんとなく皆さんが思うところではないでしょうか。さらに今、暗雲立ち込めているだけでなくて、この先どうなっていくのかが見通せない、明るい兆しはなさそうな、そんな空気が漂っています。しかしさらに聖書は踏み込みます。私たち取り巻く環境が暗いだけでなく、私たちの行く先が暗やみなだけでなく、あなたがたは暗やみだったと言われているのです。あなたがたは、以前は暗やみでした。このエペソ人への手紙を書いたパウロは、この暗やみの状態を手紙の前半部分でこう言い表します。「あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいたものであった」。さらに、「あなたがたはキリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした」死んでいる者は、当然なんの光も持っていません。なんの良い者もなければ、希望もない。しかもそれに気づかずに日々を過ごしている。そこには本当の喜びはありません。虚しいものばかりです。多くの災害のニュースが聞こえてきますが、この世のものは一瞬で崩れ失われてしまうものです。それは建物や財産だけでなく、命もそうです。昨日まで当たり前のようにあったものが今日はない。私たちはそんなあやふやなものに頼らざるを得ない生活をしていました。さらにこの私たちが暗やみであるということを考えるときに、私たちは自分が何者なのかということに対してでさえわからない、そんな闇を持っています。なんで生まれて、なんで生きているのか、どこに向かって生きているのか。わからずに日々を過ごしている。

 さらにわたし自身の経験からこの暗やみの話をさせていただきますと、自分がわかりませんから、周りばかりを見て生きているということがありました。冒頭でもお話ししましたように、いつも人の目を気にしながら、びくびくして生きていくのは大変なことであります。自分らしく生きるということがどういうことなのかわからない。KYという言葉は空気を読めない・読まないということを表しています。もう古い言葉になっていますが… 空気を読めない、和を乱す者を非難する言葉です。しかし波風立てないように生きていれば、今度は「あいつは空気だ」などと言われてしまう。合わせるということを覚えなければこの社会ではやっていけないようであります。「私らしく生きる」ということがわからなくなってしまう、あるいはそのように生きることが怖くなってしまう、そんな社会になっているのではないでしょうか。とりわけ中高生はこのような大きな束縛があるように感じるのです。この話の中にいることが、自分の存在の意味になっている。言い換えれば、この輪から外れることがあれば、自分自身では立てないほどひどくもろいのです。少し話が逸れてしまったかもしれませんが、暗やみであるといわれる私たちは、自分が何者なのかわからず、いや、わからないこともわからないまま、死に向かって歩んでいたのでありました。

 

 そんな暗やみの中に、昨日も今日もこれから先も真っ暗闇の中、死んでいた私たちのところへ、世を照らすまことの光としてのイエス様が来てくださったのです。これを表す箇所は多くありますが、イエス様が世に来られることを預言した言葉があります。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰に座っていた人々に、光が上った。」「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ」これらの地名は、当時見下されていた地、こんなところからは良いものは出てくるはずがない、ましてや救世主、メシヤが来られるはずがないとされていた地であります。見下され、見捨てられ、馬鹿にされていた人々。自然と隅へ隅へと追いやられ、辛く悲しい人生を強いられていた人々であります。そんな人々のもとに、イエス様は来てくださったのです。見下され見捨てられた人々にとって、まさにまばゆい光となって暖かく明るく包み込んで下さったお方。それがイエス様です。いや、先ほどすべての人が暗やみだったとお話しましたから、すべての人の光となって下さったのでした。先ほどの手紙を書いたパウロもそうです。彼はいわゆる人生のエリートコースを歩んだ人でした。多くの人の注目を集め、多くの人の賞賛を得ていた。光の中を歩んでいたと彼自身を含めて誰もが思っていたことでしょう。けれども、そんな彼はある日イエス様に出会うのでした。その日のことを、パウロはのちにこのように伝えています。今風に言えば、先ほどの中川姉妹のような救いの証となるでしょうか。「(キリスト教徒たちを迫害するためにダマスコへ出かけていく)その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの周りを照らしたのです。私たちは皆地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこういうのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたにとって痛いことだ。』私が『主よ。あなたはどなたですか』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』」余談ですが、このパウロがイエス様に出会った場面、光に包まれた場面から、「目からうろこ」という言葉が生まれました。それまでは当たり前のように生きていたけれども、イエス様の光に照らされて、実はそうではなかったのだということに気づいた。いや気付かされたのです。イエス様に出会い、その光に包まれた彼の目に映る世界は、それまでとは全く違っていました。ある姉妹の、やはり救いの証を思い出します。彼女は洗礼を受けた時、世界がキラキラ輝いて見えたと話してくれました。世界は変わっていません。イエス様の光に包まれた彼女自身が変えられたのです。かつては迫害者であったパウロも、この光に包まれて、それまで目を塞いでいたうろこのようなものが落ち、生き方をガラリと変えるのです。先ほどのパウロの証には続きがあります。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これら後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の許しを得させ、聖なる者とされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』イエス様に出会い、光に包まれ救われた者は、今度はまだ目が閉ざされている人々、暗やみである人々を照らす光となるようにと召されているのです。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。主にあってと言う言葉。これは、主の中でということです。主の光の中で、私も光となって生きていく。イエス様が私たちの中に生きていてくださるから、私たちは光となる。そしてこれが、本日の箇所に続いていくのであります。長くなりましたが、本日の箇所をお読みします。司会者の方には13節からお読みいただきましたが、本日は光ということについて特に教えられたいと願っていますので、14節から読ませていただきます。

 

3. 光とされた者の生き方 

 1415節、あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。直訳では、あなたがたこそは、世界の光です、となることは先ほどお話しした通りです。他の者は未だ暗やみであるが、イエスキリストに出会い、粉のお方を信じ受け入れ、この光に照らされたあなたがたこそは、ということでしょう。この箇所には、光とされた者の使命が書かれています。山の上にある町は隠れることができません。特に夜、真っ暗な山の一番上に人が生活する光があるならば、それは山の周囲どこから見てもあきらかに、そこに人がいるということを教えます。明かりがついていながらも隠そうとするならば、明かり本来の働きをしていない、言い換えれば光らしく生きていないということになります。先ほどは周りを気にして自分らしく生きられないということをお話ししましたけれども、ここでもやはり同じなのです。光らしく生きるためには、その光を隠すことなく本来の用途である周りを照らすために用いなければならない。けれども、私たちは弱く臆病な者ですから、この光を隠し、目立ちたくない、波風立てたくないと考えてしまう。ある意味でかつての暗やみの中に逃げ込もうとするのです。さらには16節このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。人々があなたがたの良い行いを見て」と言われる時、とてもじゃないけどそんなことはできないと尻込みしてしまうものです。イエス様のことは信じているけれども、教会にも行くけれども、教会から離れたら社会に溶け込み、生きて行く。そのような教会の内と外、二つの顔を使いこなしていることがあるのではないでしょうか。光は何もしなくてもそれとわかるものであります。それをわからなくさせるには、隠さなければならない。意図的に、隠そうと思って、隠してしまう。当時、イエス様の時代にもそれを隠そうとしている人たちがいたのでしょう。イエス様はそれに対して明確に、隠すな、輝かせよと言われるのです。私は臆病で、なるべく波風を立てずにカメレオンのように、まさしく空気のように生きて行くのが楽だと思っていましたから、この箇所はとても厳しい言葉として聞いていました。そこを突かれると痛いと言いますか、ちょっと勘弁してくださいと言いたくなってしまう。そんな箇所でした。

 

 けれども、今回の説教の備えをしていて気付かされたことがあります。それは、これまでなんどもお話ししてきました、「あなたがたは、世界の光です。」という言葉です。ここには、光となりなさい、光のようなものですなどとは言われていないのです。もう明確な事実として、あなたがたは世界の光ですと言われている。ですからその光を輝かせるとは、言い換えれば、特別なことをするのではなくイエス様と出会ったあなたらしく生きればいいんだと言われているのです。努力して輝かせるのではなく、イエス様と生きていることをいつもどこでも覚え続けることこそ、世界の光としての生き方であります。暗やみの世界には光が必要なのです。暗やみの世界にとって光は迷惑なだけかもしれません。だから迫害があり、だから空気を読めない・和を乱すといってバッシングされる。戦時中でしたらそれは非国民として敵とみなされるのでした。クラスだったらKYといっていじめられる。基本的には何も変わっていないのです。なぜなら、世は、かつての私たちは、暗やみだからです。何をしたらいいか分からずに迷い、しかしその中にあってどんどん神様から離れていく。転げ落ちていく。そんな世界にあって、イエスに出会い光に包まれたパウロが証人とされたように、私たちもまたこの自覚を持って生きることが求められているのです。「あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の許しを得させ、聖なる者とされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」私はこれまで私らしく生きるということがどういうことかわかりませんでした。でも、このイエス様の有無を言わさずに言われた「あなたがたは世界の光である」という言葉、これこそが私の存在が何かを教えてくださり、このように生きればいいのだという指針を与えてくれたのであります。

 

4. まとめ

 洗礼を受けるということはこの世にあっては当たり前のことではないでしょう。周りのこと、特に中高生にとっては同世代のことを気にするならば簡単ではない決断だと思います。でも、神様が自分に何をしてくださったのかということを考えるならば、周りがどうこうではない。「あなたは、わたしに従いますか」とイエス様はいつも真正面から私たちの目を見つめ問いかけてくださっているのです。

 光を輝かせる理由は、自分に注目を集めるためではありません。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。人々が、天におられるあなたがたの父をあがめるように、これは先日の礼拝でも語られましたように、主の祈りの第一の祈りに通ずるものであり、まことの神だけをとりわけ、礼拝するようにということです。私たちの生き方が、クリスチャンとしての自然な歩みが、まことの礼拝を作り上げる。ここにまことの光、まことの神様がおられるんだと証する。私たちの全存在かけて、全生活を通して証する。世界の光は、暗やみの只中にあって、この働きをするのです。