知恵と御霊によることば

❖聖書箇所 使徒の働き6章8節~15節       ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。                            使徒の働き6章10節

❖説教の構成

◆(序)この箇所について

 

 このところは、使徒たちが提案し、全体の中から選ばれた働き人の一人、ステパノ(冠という意味) についてです。使徒の働きの著者、ルカは、ステパノの信仰、その生き方について、5節から本日の箇所において特に詳しく述べています。この後、7章から8章に出ているように、ステパノが初代教会最初の殉教者になったということがあると思いますが、それだけでなく、働き人として選ばれた者たちの条件であった、知恵と御霊に満ちた人の代表としてステパノを伝え、主の教会の働きは、前回も強調したように、ただの人間的知恵や経験によるものではないことを示しているのです。では中身を見て行きます。

 

◆(本論)ステパノの力の源

①この時、エルサレムの教会は、ユダヤの歴史を誇り、宗教、習俗を固く守ろうとした支配層からの度重なる圧迫に対して屈せず、堂々と、我々はただ主イエスに従うと告白し、また信ずる人々も劇的に増えていましたが、決して万全ではありませんでした。変わらずに教会を敵視する者たちが大勢いたのです。

 この箇所でもそれがよく分かります。ステパノがユダヤ教の会堂で主イエスの福音を語ったところ、ステパノと同じように地中海一帶から来ていたユダヤたち、ユダヤ生まれではないが、ユダヤ民族であることを誇る者たち、ヘレニストたちが強く反発しています。ルカは、彼らの議論の内容について記していませんが、言うまでもないからです。選民とされていた民族の歴史、使命をめぐるものです。神の民とされ、律法が与えられているという重大な使命、そして、選民として多くの苦難を経験した歴史 (他国への捕囚、帰還、その後も繰り返し、他国に支配され、今もローマによって支配されている困難に満ちた歴史)、しかし、我々は、常に神の民としての意識をもって生きているという強い民族意識です。ユダヤ人であるなら、その意識を持つべきであるのに、ステパノは、主イエスによって神の義が実現していることのみを重視し、民族の制度、習慣、歴史、誇りを蔑ろにしている、許しがたいという思いです。

 余談になりますが、自分たちは、他の民族よりもすぐれている、特別な民族であるという民族意識は、歴史的に、また現代でも大きな又深刻な問題を引き起こしています。戦前のドイツ、日本についてはよく話している通りです。ドイツ民族(アーリヤ人種)、日本民族こそ、特別の歴史、特別の使命を持っているという考えにより、ドイツにおいてはユダヤ人たちに、日本においては当時の中国、朝鮮を始め、アジア諸国の人たちに筆舌につくしがたい苦難を与えたのです。そんな民族意識による問題は、周知のように、現代においても世界中の至るところで起きています。

 本日の箇所において、ユダヤ人たちは、民族の誇りを無視し、ひたすらイエスが救い主であると言い、民族の歴史を受けとめていないように思えたステパノに強い反発を覚えたのです。

 

②しかしステパノは、7~8章において、彼自身が詳細にイスラエルの歴史を語っているように、歴史を無視しているわけではありません。10節で、知恵と御霊によって語ったとあるように、自分たちを中心として歴史を見るのではなく、主のみこころを中心として歴史を見ているのです。

 その違いは何かということになりますと、確かに難しいのですが、分かりやすく言うならば、中心に何を置いているかということです。自分たちイスラエル民族か、創造主かです。もっと具体的に言うならば、アブラハム、イサク、ヤコブなどの父祖たちか、父なる神かです。

 ステパノの考え、姿勢ははっきりしていました。7~8章から分かりますように、ステパノのことばは、すべては神から始まっています。父なる神が、ご自身の御心によって、アブラハムを選び、そしてその子孫であるイスラエル民族を選んだのだとはっきり言っています。御霊に導かれて、主の御心、聖書の世界観を語ることができたのです。

 始めに神が天と地を創造した、また人を神のかたちを持つものとして造られた(創造)、しかし、人は自分が神のようになりたいと神に背き、世界が一変した。(堕落) けれども神は、罪の性質を持つようになった人をなお憐れみ、アブラハムを選び、その子孫であるイスラエル民族を選民とし、彼らによって御心を伝えるために、全世界の宝の民、祭司の王国、聖なる国民とし、律法を与えた。そして、時が満ちた時に、ご自分のひとり子である御子イエスを与え、そのイエスの十字架の死と復活によって罪の贖いを成し遂げられた。( 贖い) 終わりに、創造主であり、全てを治めておられる神は、やがてすべてを裁く時が来る(終末、完全成就) ということです。 聖書の世界観です。  7~8章では、殆ど旧約時代のことばかりですが、ステパノは、この神中心の歴史をしっかり受けとめていたのです。自分たちの民族のことばかりではなく、全世界やそして人間の問題の中心をしっかり見つめ、そしてそれに対して神がなされた贖い、主イエスによって神の義が実現していることをはっきりと捉えていたのです。 

 ですから、人々は、彼に対抗できなかったのです。選民とされたこと、律法が与えられたこと、そして神の義を受けることなど、信仰に関わる全てのことについて、ステパノが明確な回答をすることができましたから、少しも対抗できなかったのです。

 

③そんなステパノに対して、対抗できないことを分かった反対者がとった行動は、偽りの証言によって訴えること、暴力によって圧迫することでした。(11節~15節) 彼らの行動で目立っているのは、あくまで、自分たちこそ、正しい歴史の継承者、守護者であると言っていることです。本当はステパノがそうしたように、父なる神を中心として謙遜に歴史を受け止める必要があるのに、自民族を中心とする歴史観から決して離れない姿です。

 自国の歴史をどう受け止めているかによってその国の姿、国の品性が分かると言われています。自分たちでどれだけ歴史を正当化し、誇っても、客観的な見方にさらされ、判断されるのです。このところにおいて反対者たちは、ステパノのことばがあまりにも本質をついてくるので対抗できませんでしたが、なんとしてでも認めたくなかったので恥も外聞もなく攻撃しているのです。

 

◆(終わりに)何が問題であるのか、本質から離れない視点

  このところから私たちは、どんなことを教えられるでしょうか。問題の本質を誤らないことです。ステパノの反対者も神の義について真剣に考えていました。しかし、彼らにとって何より大事なのは、民族意識であり、歴史を大切にすることでした。それが誇りであり、支えだったのです。神の義も民族としての誇りがあってのことでした。

 しかし、ステパノは問題の本質を見誤っていません。神の義そのものでした。ステパノは、福音によって、イスラエルを選ばれたことも、律法が与えられ、宮が建てられたことも、すべては人を救うためのものと分かったのです。御子イエスは、その人に関するあらゆる問題の中心、罪よりの救いを完全に実現するためにこられたこと、そして今、神の義が実現していることを深く悟っていたのです。ですから、いくら大勢から攻撃されても少しも揺さぶられることはなかったのです。

 

 この時の反対者たちと同じではありませんが、現代日本でも国の歴史、民族意識を強く言う人々が増えています。曰く日本は特別の国、日本民族は特別な民族であるというのです。そういう考えに対して感情的になっても反論しても少しもよくなりません。大切なのは知恵と御霊によって神の義を語ることです。私には主によって真の神の義がある、私はここに立つという姿勢です。