平和の君の祈り

■聖書:マタイの福音書69-13節   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、みこころにかなう人々に、あるように。(ルカ2:14

 

1. はじめに

 戦後71年、特にかつての戦争の結末を美化せずしっかりと見つめるという意味で「敗戦記念日71年」と言われます。この時期には「平和」という言葉を耳にすることも多いでしょう。折しも平和の祭典オリンピックも開催されています。しかし、平和という言葉がいつしか現実的ではない、夢物語のような響きをもって聞こえてくるし、自分でもそのように考えてしまうことがあります。それほどまでに平和とは遠い世界を生きているのではないでしょうか。大きい世界の問題を取り上げなくても、私と隣のあの人との関係においても、果たして「平和」と呼べるものがあるだろうか。そんなことを考えながら、この平和のために祈る日の説教を祈り備えて参りました。そして、イエス様が教えてくださった祈り、主の祈りの特に前半部分から学んでいきたいと思っています。私たちが毎日、あるいは毎週祈っています主の祈り、この意味を、私たちはどのように受け止め、祈りをささげているでしょうか。主の祈りは福音の要約であると言われます。私たちの祈りの姿勢を教えるとともに、私たちの生き方を教える祈りでもある。この祈りについて、御言葉に聞いて参りましょう。

2. 平和の君であるイエス様と平和

 ご存知の方も多いと思いますが、この主の祈り、毎週の礼拝の中でも声を合わせて祈っています祈りは、イエス様の山上の説教の中で教えられたものであります。ですから、主とは、イエス・キリストとなります。この祈りはルカの福音書にもありますが、マタイのものと比べてずっと短い形になっています。ただ、この祈りが弟子たちに教えられた背景はこちらに色濃く出ている。ルカは伝えます。イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子の一人が、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは彼らに言われた。「祈る時には、こう言いなさい。」イエス様は日常的に祈っておられました。特別なことがあって困ったことがあったから祈ったわけではありません。群衆が多く集まり始め、イエスの教えを聞こうと迫り来る人々が増えていく、いわば忙しくなっていく一方で、イエス様は寂しい所へ行き、「いつものように」祈っておられた。この忙しさの中でもいつものように祈り続けるイエス様の姿は私たちの目指すべき所でもあります。旅をともにしていた弟子たちもそうでした。彼らはイエス様の奇跡をまじかで見ていた彼らは、その力がどこから来るのかを、直感的にと言いますかわかったんだと思います。だからこそ彼らはどのように祈ればいいのかを聞いているのです。こうして弟子たちに教えられたのが、イエス様のいつもの祈り、主の祈りなのです。

 

 ここで少し、このイエス・キリストというお方を考えてみたいと思います。イエス様は福音書の中で度々ご自分はどのような存在かを示しておられます。私はブドウの木、良い羊飼い、いのちのパンにいのちの水、道であり真理でありいのちであるなどなど。それらはそれぞれに深く大きな意味があるものです。その中でも、本日はイエス様の誕生の際に関わるこのお方の姿を見たいと思います。それが「平和の君」というものです。イエス様の生まれるおよそ400年前、イザヤという預言者を通して一つのみ言葉が語られました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」君主という言葉もありますように、これは統治する側の君主、主人、王を表す言葉です。ですから「平和の主」ということもできるでしょう。この言葉の成就が今から2000年ほど前のクリスマス、イエス様の誕生でした。イエス様は平和の君としてこの地に来てくださった。そしてこの、ひとりのみどりごが私たちのために生まれた日、み使いたちは賛美の声を響かせます。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、みこころにかなう人々にあるように」栄光が天に、平和が地にあるようにと歌うのでした。平和の君によって、地に平和がもたらされる。その大きな喜びが歌われた日がイエス様の誕生日、クリスマスなのです。

 

 では平和とはなんでしょうか。わたしたちは今、それを考える日々を過ごしています。一般的には争いがない、戦争がない状態と位置付けられています。これは国と国の争い、民族と民族の争いもありますし、もっと身近なところでは人間関係の中での様々な衝突も思い浮かびます。その中では誤解や勘違いでぶつかることもあれば、それぞれに正義があってそれらがぶつかることもある。歴史的問題から些細なすれ違いまで、衝突の理由は様々でしょう。私たちもまたそんな中で他者とぶつかり、傷つき、傷つけることが多くあります。だからこそ、これらがない状態というだけでも想像し難いものであります。しかし、聖書はさらに広く深い意味を持ってこの平和を教えています。それは、「欠けたところがない、満ちている状態」というものです。単に争いや混乱がなかったとしても、その社会の中で飢えた人、乾いた人がいればそれは満たされていない状態ですから平和ではない。同様に、悲しみや苦しみ、格差の中でのあえぎや、将来の見えなさ、不信感・不安感などのありとあらゆる欠け・不完全な部分あれば、それはもう平和ではないのです。社会においても、身近なところの人間関係においても、平和とは改めて重く、そして遠い言葉のように感じます。

 なぜそんなにも平和は遠いと思ってしまうのか。聖書は、それが罪の結果だと教えています。私たちが本来いるべき場所から離れ、神を知らずに生きているから満たされない。だから、平和とは程遠い世界を生きている。本来なら神様だけが王であり、私たちはその支配の中で全てに満たされて生きることができるはずなのに、自分が神に変わって王座についているから、自分勝手に生き、人とぶつかり、争いが生まれる。こころに平安はない。さらにはどれほど頑張っても、それは間違った道だからどこまでいっても満たされているという感覚は得られず、安心はなく、どこまでも虚しく、飢え渇いている状態が続くだけである。それが生まれながらに罪を持つすべての人の悲惨な姿であるのです。戦争は、そんな自分勝手な生き方、自分の正義に頼る私たち罪人の姿があらわされる最たるものではないかと思います。満たされていないから武器を取り、無理やりにでも優劣をつけさせようとする。略奪し、搾取し、何かわからない何かを勝ち取ろうとする。しかしそれによって欠けた部分、不満が解消されるのか、満たされるのかと言えば、それらはさらに加速していくことをわたしたちは歴史から学んだはずです。そこに平和はないのです。

 71年前まで、この国の平和の君は天皇でした。天皇の支配する領域・国を広げていくことで、アジアの平和を守り、繁栄させていこうと考えていた。大東亜共栄圏というものです。そして教会もまた、積極的にそれに関わりました。アジア諸国の教会・クリスチャンに手紙を送り、この考えを浸透させようとしたのです。天皇の支配は聖書の教えにぶつからない、それどころか、これを推し進めるものだ。平和はここにある! その意味でこの手紙は現代の使徒的書簡とさえ呼ばれ、讃えられていたのです。使徒の働きで、聖霊によって教会がふえ広がり、神の国が前進していく様子が描かれますが、天皇の支配域が拡大し、神国日本がどんどん強くなっていくことを目指し、これを重ねて捉えていていたのです。

 しかしその結末は、よくご存知の通りです。平和どころか、さらなる争いや混乱を生み、たくさんの血を流し、尊い命を失わせた。隣国同士で信頼関係はズタボロにされ、不信感だけが残った。その結果は71年経った今日にまで及び、あの国は武器を持っているから、こちらの国は嘘つきだから、こちらも防衛のために武器を取らなければならない。そのようにビクビクしながらかつての反省を踏みにじり、もう武器を持たないという決意を時代遅れのものとして、再び戦争への道を歩み始めている。そのように感じます。ここに平和があるのでしょうか。この道の先に、本当に全ての人が満たされる平和があるのでしょうか。

 

 けれども、そんな混沌とした世に、平和の君として来られ、平和を地に満たすために生きられたお方がいるのです。貧しいものの傍に立ち、悲しむものと共に歩まれたイエス様が、自分勝手に生きていた私たちを神様の元へと取り戻してくださった。神様との正しい関係を回復させるため、十字架によって隔ての壁を打ち壊されたイエス様が、本日の祈りを教えてくださいました。この祈りには直接平和に言及している箇所はありません。けれども、平和をもたらすために来られた平和の君、平和の主が教えられたという背景を持って読むならどうでしょうか。私たちクリスチャンが平和のためにできること、こんな平和と程遠い世界、ますます見えづらくなっていく時代にあって、何を祈り、どのように祈ればいいのかが見えてくるように思うのです。長くなりましたが、本日のみ言葉、お読みいただきました主の祈りの前半部分を見て参ります。

 

3. 平和の君の教えられた、主の祈り

 先日の祈祷会でもお話ししたことですが、主の祈りは驚くべき呼びかけで始まります。「天にいます私たちの父よ」。当たり前のように祈る言葉、定型文のようになってしまいがちの言葉ですが、そうであってはならないなと改めて思わされています。これは父と子の関係の中でなされる、親しみあふれるあたたかい祈りなのです。自分勝手に生きて自分を王としていた私、本来いるべき場所から離れていた私たち、息子と呼ばれる資格もないこんな罪人を、神様はご自身の子、愛する子どもとして招いてくださったのです。これは神のひとり子イエス様の、「いつもの祈り」です。しかし、それを私たちが祈れるということは当たり前ではありません。イエス様がいつも唱えている言葉をちょっと拝借してきたとかではなく、私たちのために死んでくださったお方、神のひとり子が私たちのいのちとして生きておられるから、私たちもまた天のお父さん、と心から祈ることができる。いやイエス様は、この温かい父子関係を忘れずに、その中に止まり、祈り続けなさいと教え励まされているのでした。

 

 そうした中での第一の祈りは、「御名があがめられますように」というものです。お話ししていますように、本日は前半部分の祈りだけを見ますが、この祈りは前後半に分けることができます。9,10節の前半部分は神に関すること、11から13節は私たちに関することです。前半部分の主語となっている御名、御国、みこころとは「あなたの」名前、あなたの国、あなたのみこころがということができます。その第一に置かれているのが「御名があがめられますように」でした。何を最初に祈るか、というのは私たちの祈りの中でも大切なことですよね。ともすると自分が直面している問題ばかりに気を取られてしまいがちですけれども、イエス様は、そうじゃなく、どんな中にあっても、父の名があがめられるようにと祈り始めるのでした。あがめられるように、という言葉は、直訳すると聖別されるように、であります。他と区別されるように、と言い換えることができるでしょう。父なる神だけを私の神として礼拝し従う。これは礼拝に生きる信仰者の要、信仰の急所だと言えるものです。

 

 しかし71年前、天皇を神とする国家神道の中にあって、教会はこれを見失ってしまった。この急所を知りながらも的外れに生きてしまったのです。言い換えれば、十戒の第一戒「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」を犯してしまった。あたかも並び立つものとして天皇や神社を許容し、そればかりかそれを周辺諸国のクリスチャンに押し付けて行ったのです。韓国の有名な牧師であり殉教者である朱基徹牧師は、この天皇崇拝を説得する日本基督教団議長であった富田牧師に対してこう言ったと記録されています。「富田牧師、あなたは豊かな神学知識をもっておられる。しかし、あなたは聖書を知りません。神社参拝は明らかに第一戒を破っているのに、どうして罪にならないと言われるのですか。」

 御名があがめられますようにと祈る時に、このお方だけが礼拝されるべき方、栄光を受けるべきお方であると心から信じ、祈っているでしょうか。これが歪む時、私たちはかつての過ちを再び繰り返し、神ならぬものに心と目を奪われ、ますます平和とはかけ離れたところへと落ちていきます。71年前の過ちを忘れることなく、その罪を心に刻み、悔い改めをもって神ならぬ方へ向いていた目を神へと向ける。その思いを持って、この祈りを改めて祈らせていただきたいと思います。

 

 第二の祈りは、「御国が来ますように」、あなたの国が、あなたの支配が実現しますようにという祈りです。私たちの国のリーダーは盛んに経済的な成長を訴えます。そして多くの人がそれに心を動かされる。確かにそこで満たされていると感じるのでしょう。けれども、私たちは本当の満たしがどこから来るのかを知っています。どんなに経済的に潤っていたとしても、人の心が潤うのは、このお方の愛に満たされることだけだからです。このお方と共に生きること、父なる神の国に生きることこそが私たちの満たしであり、平和であります。

 いや、そんなことは言っても生きていく以上は…と思われるでしょうか。祈ってもどうしようもないじゃないかと思われるでしょうか。そういう方は思い出していただきたいのです。同じく山上の説教でイエス様は言われました。何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものは皆、異邦人がせつい求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものは全て与えられます。「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」実はこの言葉は、本日の主の祈りのすぐ前の箇所にもあります(8節)。イエス様は、神様はあなた方の必要としているところを知らないからなんでもリクエストしなさいと言っているわけではないのです。必要を全て知っておられる神様であるから、これを祈ればいいのだと、主の祈りを教えておられるのです。言い換えれば、私たちが生きる上で第一に求めるものは何か、信仰の歩みの道標を明らかにしておられる。今年の中高生キャンプでは、神様の創造のわざについて共に考える時を持ちました。講師の茶谷信一兄弟が、一本の花をとり、こんな小さな、ありふれた花でも、神様の素晴らしい手のわざがあって咲いているんだということを教えられました。ましてや、神がご自身の形に似せて愛を注いで作られた人間を、よくしてくださらないことなんてないのです。父が子にすべての良いものを与えてくださいますから、子はまた父の支配が、その力強く優しいみ腕が世界中に伸ばされることを願うのです。

 天皇の国、人間の考える支配がどのようなものであったかはすでにお話しした通りです。力や経済力による支配は、人々を満ち足らせることができません。今日の社会を見ても明らかです。確かに食べるものには困りませんし、水道をひねれば飲める水が出てくる。これはすごいことです。

 しかしそれとは対照的に人の心はなんと乾いていることでしょうか。同じように、武力によって安全を得ようとしますが、それで安心感が得られるかと言えばそうではなく、不信感を生み、恐れを生み、疑心暗鬼になって、その武器を振りかざす日が必ず来るのです。私たちは歴史からそれを学んでいます。そして剣を取るものは剣によって滅びる。私たちは何度これを繰り返すのでしょうか。本当の平和、満たしはそうではなく、神の国の中、父なる神の優しいみ腕の中で与えられるということを覚え、これを祈りたいと思うのです。目に見えるところによって私たちは満たされるのではなく、目には見えませんが神様の愛の国にあって全てが満たされるのです。

 

 そして最後、第三の祈りは「御心が天で行われるように、地でも行われますように」。これも先ほどの御国が来ますようにという祈りと似ているものであります。あなたのみこころがこの地に、そしてこの身になりますようにとの祈りです。イエス様のもう一つの祈りを思い出します。十字架にかかられる直前、ゲッセマネの園での祈りであります。十字架の死、それは神様から見放され、近づくことのできない罪人の悲惨を表しますが、多くの人の病を癒し、時には死者さえよみがえらせたイエス様であってもこれを身の引き裂かれる痛みを持って苦しまれました。そこでイエス様は祈るのです。「父よ。御心ならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)。これはまさしく、主の祈り第三の祈りに通ずるものであります。「わたしの願いではなく、あなたのみこころのとおりになりますように。」この祈りをして、じゃあイエス様の苦しみがなくなったのか、軽くなったのかというとそうではありません。やはり苦しいのです。悲しいのです。ではイエス様は別の方法でその苦しみを和らげたかというとそうではありませんでした。続く箇所、イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。いよいよ切に祈られた。私たちの歩みは徹頭徹尾、最初から最後まで、この祈りに徹底するのではないでしょうか。私たちの思いではなく、私たちの国の思惑ではなくて、まことの神様の御心だけがなりますように。

 

 以上、三つの祈りを見てまいりました。これまで見てきたように、これらの祈りはこの世の大きな流れに反するものであります。この世の常識、神様から離れて生きる平和とは遠い世界と真っ向から向き合って立ち上がるというのは、とても勇気のいることです。けれども、それでもなおみことばに信頼し、みこころを求め続ける者には、神様の平和が与えられる。み使いたちのあの祝福、「地の上に、平和が、みこころにかなう人々にあるように」が実現するのです。

 

 

4. おわりに

 主の祈りは、私たちの祈りの姿勢を教えるとともに、私たちの生き方を教える祈りでもあります。父なる神の御名だけを礼拝し、父なる神の支配だけを待ち望み、父なる神のみこころがなりますようにと祈る。祈り続ける。ここに、真の平和が実現するのです。やはり同じ山上の説教の中で、イエス様は言われました。「平和をつくるものは幸いです。その人は、神の子どもと呼ばれるから。」言い換えるならば平和をつくるのは神の子と呼ばれるものの役割であります。この祈りの冒頭で明らかにされたように、神をお父さんと呼び祈ることができるものだけが、真の平和をつくることができる。そのために召されている。だからこそ、わたしたちはこの祈りを、平和の君が教えられた祈りを祈り続けようではありませんか。

 平和はどこにあるのかと思ってしまうような世の中です。先を見ても何も見通せず、この国の動き一つ一つに不安が増しましていく今日です。しかしわたしたちは、かつての過ちを忘れずに、悔い改めて向きを180度変え、神だけを見て歩んでいく。その歩みをさせていただきましょう。