教会の二つの働き

❖聖書箇所 使徒の働き6章1節~7節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

                              使徒の働き6章3節

❖説教の構成 

◆(序)この箇所について

 使徒の働きを連続して見ています。本日の箇所は、教会に加わる人々が多くなるにつれて、ギリシャ語を使う人々(ディアスポラ~離散の民~となって、地中海一帯の諸地方に住んでいたが、今はユダヤに移り住むようになったユダヤ人~ヘレニスト~たち)が、ヘブル語を話す者たち (元々、ユダヤに生まれ、住んでいた人々~ヘブライニスト) に対し、教会が援助をしていたやもめたちの中で、彼らのやもめたちが、なおざり、軽視されていたことから苦情を申し立てた場面、そして、それを契機として、教会の中に新しい働き人が立てられたというところです。

   教会が立てられた目的(使徒の働き1章8節)を遂行するためには、これまで教会の働きを担ってきた使徒たちだけでなく、実際的問題のために働く人が必要なことが言われている、現実の教会を考えるうえにおいて大切なところです。

 

 この場面では二つのことが言われています。一つは、主によって立てられた、主のみからだである教会の働きを進めるためには、みことばと祈りを担う働き人と実際に人々のことを配慮し、労する働き人が必要ということです。(1節~6節) そして、二つ目は、聖書は教会の成長をみことばが増え広がったと記していることです。(7節) では、詳しく見て行きます。

◆(本論)主の教会に必要な働き

①始めの、教会の働きを進めるためには、みことばと祈りを担う働き人と実際に人々のことを配慮し、行動する働き人が必要ということですが、これは時々、誤解されているように、教会の中心的部分を担う大切な人々とその指示に従って行動する人々という意味ではありません。上下、まして優劣ではなく、補い合う関係です。

 そのことは、使徒たちが、御霊と知恵とに満ちた 評判のよい人を選ばなければならないと言っていることから分かります。みことばと祈りの働きは言うまでもないのですが、この実際的働きも、聖霊に導かれる、聖霊による働きなのです。

 

②では、この両者は、どういう存在、どういう関係なのかというと、まず、使徒たちのような働きは、神に聴く働きということができると思います。ともすれば、今、私がしているように、教会の教職者の働きは、話したり、教えたりすることが中心と思われていますが、実は主に聴くことが何よりも求められている働きなのです。神学校時代、そのこと、話す前に聴くということを繰り返し言われました。主の前に静まり、そして聖書、神のことばに聴く、みことばを深く想うことが一番大切であると言われました。ですから、こうして話しているのも、みことばに聴くことによって、主の御心であると信じたことを話しているのです。    

 しばしば言いますように、私は、自分は、人間的なリーダーシップは殆どないと認識しています。相応しい展望を示し、その目標に向かって人々の意欲を引き出し、まとめ、実際に行動に移して行くような賜物はないと思っています。けれども、そんな私が、今日までこの働きを続けてくることができたのは、恵みに満ちた神のみことばに聴くことが何よりも大切であると思い、また喜びであったからです。ただし、みことばに聴くと言っても、神秘的になることではありません。聖書を少しでも深く学ぶ、多くの人が残したものによったり、自分自身でみことばと真剣に取り組むことによって、本来のみことばの意味するものを知り、そして、それによって、現代の私たちに語りかけているメッセージを受けとめることです。

 教会の働き人には、例えば、エペソ4章11節~16節に明記されているように色々な働きがありますが、それらの働きの中心にあり、そして一番重要なことは、みことばに聴くことだと思っています。そうすることによって、教会に繋がる一人ひとりの、また教会の土台や生き方が明確になるからです。自分のことを話し、おこがましい言い方をしましたが、この6章2節~4節で使徒たちが言っていること、また使徒パウロが第二コリント2章17節「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また、神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」と言っているのは、みことばに聴くこと、そして忠実に従うことが何よりも大切と認識していたからです。

 

③こうして、みことばと祈りの働きの中心は、主のみことばに聴く働きということができるのに対し、一方、この箇所で使徒たちによって新しい働き人、具体的にやもめたちに公平な配給をする者たちと言われているのは、人に聴く働きということができます。人々の実際の声を聴く、この世的な価値観に惑わされないで謙遜に人に聴く、そして主を中心として、教会全体の中に自分を愛するように隣人を愛する関係が実現するように労する者たちです。

 この人々は、具体的問題を適切に解決する力を持っているならばそれで良いのではありません。例えば、この世で紛争を解決する知識と知恵があり、公平な判断ができるのは裁判官です。けれども、裁判官だからと言って主を信じていない人や信じて間もない人は、教会の働きを行うことはできません。確かに理屈では公正、公平な判断ができるでしょう。しかし、関わりがある人が心から従うようにはならないのです。主を中心とした、主の愛に満ちたものではないからです。主にある者が、主からのものとして従うことができるのは、人々の声を深く聴く者、その実情を、主がそうするように、謙遜に受けとめる者です。それが知恵と御霊に満ちた評判の良い人という意味です。主の教会には、使徒たちのように、主に聴く人々の他に、愛を持って人に聴く人々が必要なのです。そして、実際にそういう人々がいる教会が豊かに用いられているのです。

 

◆(終わりに) 世の組織と教会の違い

 

    最後に、この箇所が伝えていますもう一つ、重要なことがあります。それは、今、見てきましたように、教会が整えられて、弟子の数が増えて行き、祭司たちが次々に信仰に入ったことを聖書が、神のことばが広まっていったと言っていることです。(7節) 実は、7節後半は、神のことばが広まっていったことの具体的な説明なのです。これは大変重要です。聖書は、教会の成長を神のことばが広まることだというのです。神のことば、言うまでもなく、聖書全体、創造、堕落、贖い、完全成就(終末)です。中でも、時が満ちて、主イエスによって神の国が実現している、完全なまた永遠の救いが成就していることです。(ローマ3章21節~25節) ただ単に、教会に人が増えたという程度ではなく、本当に主の福音を受け入れ、聖書が伝える世界観の中で生きる人々が多くなったという意味です。この考えは、使徒の働き全体を貫いています。12章24節、13章49節、19章20節なども同じ書き方です。使徒の働きの著者、そして聖霊は、真に主に従う者たちが増えることを教会の成長と捉えているのです。それは、これまで見て来ましたように、主に聴く者と人に聴く者がそれぞれの使命を果たすことによって、信者が整えられ、救われる人が起こされるのです。魅力的なプログラム、世の人々が関心を持っているプログラムによって人が増えることがあります。けれどもそこに主のみことばに聴く者と人に聴く者がいないならば、一時的なものに終わるでしょう。教会は、世の組織、世の団体とは違います。主を愛し、隣人を自分と同じように愛する者によって、みことばに生きる人々が起こされるのです。そういう教会を目指しましょう。