神の国はだれのものか

■聖書:マルコの福音書1013-16節       ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。(マルコの福音書10:15

 

1. はじめに

 本日の主人公として、皆の注目を集めるのは子どもたちでした。この世の価値観の中では低く見られている者、その価値を見出されていない者たちでした。子どもに限らず、イエス様が目を向けられたのはこのような人々です。イエス様が子どもたちにどのように関わろうとされているか、価値なきを見下されている人々をどのようにご覧になっていたのか、教えられていきましょう。そこには、神の国がどのような者たちのものなのかが描かれています。それは子どもたちのように多くの人の目には留まらない小さき者たちへイエス様が目を向けられたということ、さらには神の国はこの者たちのものであると言われているこの素晴らしい福音を共にお聞きしましょう。そして、イエス様が血を持って買い取られた私たちの教会はどのようなものなのかをともに学べたらと思っています。

2. 弟子たちの反応、社会の反応、私たちの反応

 本日の箇所は、私たちの常識から言えばなんてことない一つの事柄から始まっています。13節さて、イエスに触っていただこうとして、人々が子供たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。当時いろいろな人の関心を集めていた話題の人物、イエス様の周りにはたくさんの人々が集まっていました。病気を癒し、悪霊を追い出し、さらには権威ある者のように語り教えていたその姿を見て、多くの人々は不思議な力を持つ医者、あるいはカリスマ溢れる偉大な教師のように考えていたようです。時に5000人もの人を前にして教えていた時の人である「先生」。そんなイエス様を煩わせないように、十分な働きができるようにと弟子たちは気を利かせたのでしょうか、おそらくは両親に連れられてきたのであろう子供たちを弟子たちは叱り、追い返そうとしたのです。ちょっと大きめな声を出し、イエス様に聞こえるようにアピールしたかもしれません。イエス様、私たちはあなたの弟子として、しっかりあなたのために働いていますよ、みたいな。確かにイエス様の顔に疲れの色が出ていたのかもしれません。直前の箇所には、パリサイ人という当時の宗教的指導者の立場にある人々がやってきて、イエスを試そうと質問をしました。どのように答えてもイエス様を貶めるような質問には緊張感があった。とりわけ周りの弟子たちは、イエス様がどのように応えるのかと息をのんで見守っていたはずです。ですから、見事な回答でパリサイ人たちを追い返したイエス様をいたわる思いが強かったのでしょう。いずれにしても、弟子たちは子供たちは邪魔をするだけだと考えていたのでしょう。イエス様が相手にするような対象、イエス様の所に来るべき者ではないと考えていたのです。

 

これはこの時の弟子たちにかかわらず、今日の私たちの中にある価値観からでたものではないでしょうか。子どもたちはその場にいる価値のない者、ふさわしくない者であると考える。あるいは教会がそのような場所だと思われていることもあるかもしれません。ある方からこんな話を聞いたことがあります。クリスチャンになる前、教会に誘われるまでは、自分が行っていい場所だとは思わなかった。確かに家族や知り合いがいなければなかなか足を踏み入れ難い場所かもしれませんし、信じている者だけがあつまるところ、クリスチャン以外には関係のない場所のように思われていることもあるのではないでしょうか。そういう意味では、本日の箇所のような出来事は子どもたちに限らずいるのではないかと思います。築かぬうちに退けてしまっていること、拒否されていると感じてしまうこと、あるいは自分の中で、自分はここにふさわしくないと判断してしまうこと。そうしたことは決して少なくないでしょう。なぜそのように「ふさわしい」「ふさわしくない」の判断をしてしまうのでしょうか。周囲の人々はその人の、あるいは自分自身の足りなさや欠点、弱さをみて「ふさわしくない」と考えたのだと思うのです。

 パリサイ人など権威ある皆の尊敬を集めている人ならば良い。この後に登場するような非常に多くの財産をもっていて永遠のいのちを求める力溢れた青年ならふさわしい。そのように判断していたのでしょう。けれども、何の力もなく、学歴もなく、家柄もよくなく、お金も名誉もない。そんな人たちを、知らず知らずのうちに差別し、見下し、延いては生きる価値がないと切り捨てるのです。先日から報道されているニュースを思い出す方もいらっしゃるのではないでしょうか。戦後最悪の事件だと言われている相模原の事件。このニュースを様々な思いを持って見聞きしている人は少なくないでしょう。確かに薬物使用のニュースなども報道されていますけれども、果たしてそれだけだろうか、レアケースの特殊な、突発的に起こった異例の事件なんだろうかと思ってしまいます。

 

 と言いますのも科学の発展、あるいは経済の発展に伴い、いのちを値踏みする風潮があるのではないかと思うからです。もっと言えば弱者は排除すべしという思想です。先日の事件まさにそのような問題、今日の闇が浮き彫りになるような事件ではなかっただろうかと思うのです。今日は東京都知事選ですけれども、1999年には東京都知事に就任したばかりの石原慎太郎氏が障害者施設を訪れて、入所されている方々の人格を否定するような信じられない発言をしています。これも今回の事件に関連して思い出された方がいるのではないでしょうか。最近でも90歳を超える高齢者に対して、そのいのちを軽んじているとしか思えない発言をした閣僚がいました。幼い子どもを実の両親が自分たちの勝手な都合で虐待し、捨て、殺すなどの信じられないニュースも珍しいものではなくなってきました。相模原事件の取り調べの中ではヒトラーの名前も出てきましたが、優生学という分野はナチスヒトラーに限らず、今では福祉先進国のイメージを持つ北欧スウェーデンなどでも1930年代にあったそうです。日本においてもハンセン病患者、あるいは近年のヘイトスピーチに見られるようないのちの優劣をつけようとする。極端な言い方をしますが、ここには経済というものを第一に考えている社会の問題が浮き彫りになっているのではないか、と感じます。利益を生み出すものは人として価値があるが、その逆は価値がなく、負担・不利益となるだけである。その点でしか人を捉えられなくなっている。

 いや、そんな大きな世界を見なくても、私たちの中にも比較するということ自体は多くあり、そのことによってでしか居場所を見つけられなくなるということがあります。他の人と自分を比較して自分より優れている・劣っているを判断する。そのような優劣比較の価値観の中でしか自分の位置、他人の位置を見いだすことができなくなっている。悲しい世の中です。そのような中にあって、明らかに家族や他者の助けがなければ生きられない子供たちというのは、価値がない存在と見られていたのです。

 

3. 「神の国は、このような者たちのものです」

 しかしそんな弟子たちの固まりきった価値観、さらにはいのちの値踏みに対して、イエス様は怒られるのでした。14-15節、イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子供たちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることはできません。」いや怒るなんてものではなく、憤って、とあります。イエス様について使われているのはこの箇所だけですから、どれほど激しく怒っておられたのかということがわかります。弟子たちがたしなめられたこと自体はこれが初めてではありません。すぐ前の933節からの箇所でも、弟子たちに対してイエス様は教えておられます。少し読んでみましょう。3334節。カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。

 この辺は弟子たちとイエス様の様子が生き生きと描かれている場面だなぁと思います。その日の旅程を終えて一息ついた食事時だったのでしょうか。「そういえば、あの時…」みたいな感じで話し出されたイエス様。その質問に、弟子たちは答えることをせずに黙っていた。彼らは自分たちが話していたことがいかに的外れかが分かっていたのだと思うんですね。イエス様に怒られることは薄々分かっていたから黙るしかなかった。彼らこそ小さな子どものようですけれども。ともあれ、分かっていながらも、でも、やはりそのような考えを持たずにはいられなかった。比較なんかしてもしょうがないとわかっていても、なかなかそこから自由になれず、順位をつけて自分の位置を確認せずにはいられない。そんな今日の私たちにも通ずるところの人間の本性が現れているのでした。そんな黙っている弟子たちに対して、イエス様は「だれでも人の役に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」。そして言葉だけで教えられたのではなく、とても印象的に、一人の人物を連れて来てお話になるのでした。それから、イエスは、一人の子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

注目したいことは、もうお気づきかと思いますが、本日の箇所でも、今お読みした箇所でも、イエス様の一番近くにいて皆の注目を集めていたのは、幼子、子どもたちだったということです。こんな小さな者、力もなく地位もない者でも、わたしの言葉に従って受け入れるなら、わたしを受け入れることであり、わたしを遣わした父なる神をも受け入れることになる。先ほどもお話ししましたように、世間では小さな存在として価値がないとみなされていた子どもたちです。けれどもイエス様のゆえに受け入れるなら、私も私の父をも信じ受け入れたことになるのだと言われているのでした。しかし、です。これがちょっと前の場面に言われていたにもかかわらず、やはり子どもを見る目が変わらない、価値観はこの世的なまま、その評価は変わらないのでした。それはイエス様を受け入れず、父なる神をも受け入れないことになるんだと言われていながらも、やっぱり子どもを受け入れることができない、この世の価値観に囚われている弟子たち。

 

 しかし、そんな子どもたち、あるいは世間から見下され、価値がないとされている人々をこそ、イエス様はしっかりと見つめておられ、言われるのです。わたしのところに来ようとしている者を止めてはならない、いや、むしろ積極的に来させなさいと。その理由は、「神の国は、このような者たちのもの」だからでした。イエス様がご自身の近くに子どもたちを来させたのは、見下され価値を認められていず、追い返されそうになっている彼らを憐れんで、かわいそうに思ってとかではありませんでした。そもそも神の国はこのような者たちのものなのだから、この者たちをわたしの近くに来させるのは当然のことなのだ。このようにお語りになるのです。

 

 神の国とはなんでしょうか。別の箇所では天の御国、いわゆる天国であります。ですから神の国に入るとは、救われるということを意味します。この天国に入ることができるのは子どもたちであるというイエス様の言葉は、弟子たちをはじめイエスの話を聞こうと集まってきていた人々にとっては大きな驚きでした。なぜなら、天国には入ることができるのは、先ほどお話ししていたようなパリサイ人など宗教的指導者であると思っていたからです。この世で厳しい修行に耐え、善行を積み重ね、律法を守り…そういう人が天国に行けるのだと、救われるのだと考えていた。けれどもそうではないと言われるのです。いや、天国に行くことができる、なんてことだけではとどまらず、天国はこのような者たちのものである、天国の住民票はこのような者たちにこそ与えられているのだとさえ、言われている。イエス様はいつもこのように言われます。マタイの福音書には有名な山上の説教、山上の垂訓などと呼ばれる箇所がありますが、そこには「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」とある。心の貧しいものとは、今の感覚でいうと、心が狭いとか思いやりがないといった嫌な意味で使われていますが、聖書を読んでいますと少し違った用いられ方をしています。例えば詩篇18篇には「あなたは、悩む民こそ救われますが、高ぶる目は低くされます」とあり、悩むと訳されている言葉は心の貧しい者と同じ言葉が使われています。神様は悩む民、心の貧しい民こそ救われるが、一方で高ぶる目、高慢で自分が人の優位に立っていると自慢し、他の人々を見下げる目を持つ者は低くされる。と言う意味です。このようなことから、心の貧しい人とは、自分の無力さ、虚しさを知っている者であり、それゆえに、自分や自分が持っている者を誇らず頼らず、ただ神様に頼る者であると言える。才能や家柄、学歴、財産。どこの会社に勤めているとか、どんな大学を出たとか、そういったことは究極的にはあてにならないことを知っている人なのです。もちろんそれらがいけないわけではありません。頑張って良い大学に入る、良い就職につき一生懸命に働く。繰り返しますが、それらは悪いことではない。けれども今日では多くの人がこのような価値観で他者や自分を判断し、勝ち組負け組と呼び、人の優劣をつけているのではないでしょうか。そしてそれに心も体も疲れている人が多い現状があります。そこに特別な価値を見出さない。それらで人を判別しない。こういうことが肝心なのです。なぜならそこに救いはないからです。どんなに頑張っても、いつかそれは無くなるもの、究極的に自分自身を助けてはくれません。そんなものに頼らず、わたしを頼りなさい、わたしのところに来なさいとイエス様は語りかけてくださっている。子どものような者はそれをよく知っているのです。なぜなら、彼らは何も持たないからです。

 

4. 子どものように、神の国を受け入れる

 天の御国、神の国へと行くためには子どものように神の国を受け入れるものでなければなりません。では子どものように受け入れるとはどういうことでしょうか。同じ出来事を書いたマタイは18:3「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れません」というイエス様の言葉を聞いています。「悔い改めて」。これまでの価値観、かたくなな評価を砕き壊して、向きを180度変えるということが、「子どものような」振る舞いです。高慢とは正反対のところ、自分自身の良いものではなく、イエス様を見て、このお方の前に全面降伏し、全てを委ねていく。信じるというのは信頼することだと言われます。

 ここで子どもと訳されていますが、ギリシャ語を見ますと、もっと小さい、幼子といったほうが良いようです。よく子どものように純粋に神様を信じるとかと言う説明がされていますが、もっと小さい子どもがこの箇所の主人公です。まさに連れてこられなければ自分自身で行くことができない存在です。あるいは抱っこされれば、その人にしがみついて離れないそんな抱きかかえられている姿を思い描きます。自分では何もできない、自分の中には誇るところが何もない存在。この世の価値観では価値なしと切り捨てられてしまう小さきもの。そんな私たちが、イエス様に招かれているのです。イエス様が子どものように、幼子のようにと言われたことは、自分自身の中に価値を見出せない、そこに拠り所なんて何一つないもののように、となるのではないでしょうか。誰かの助けがなければ生きていけないということを知っているもの、自分を誇って高慢になるのではなく、自分を生かしてくれる存在を知り、受け入れ、信じ信頼して一緒に生きる始めること。そこにこそ、本当の救いはある。神の国とは、もっと正確に訳すと神様の王国となります。神様が王として全てを整え、その国に生きる者のために全てを満たしてくださる。そのような国。そこに生きる者は、本当に頼ることのできる、しがみつくことのできるお方を知っているのです。それはこの地上にあっても同じです。信じたとしても、私たちがこの地上で生きている限り苦しいことはありますし、悲しいことも多くあります。人々から見下げられ、価値観のレッテルを貼られる中で嫌になることもある。自分の居場所を見失うことだってある。でも、神の国の者とされているということは、本当に頼るべきお方を知っているということであります。それはこの地上にあっても同じなのです。どんな困難、悲しみ、苦しみの中にあったとしても、頼るべきお方を知っている。この苦しみが一時の者であることを知っている。そこに私たちは慰めを見いだすのです。子どもがお母さんの腕の中で本当に安心して、すやすやと眠れるように。神様の国、イエス様の身元こそが私たちの本当の居場所だということに気づかされます。だからこそ、イエス様はこのところに来ることを妨げる者たちに対して、真剣に、激しく怒られるのでした。イエス様は、パリサイ人や権威ある者と論争し自身の正しさを示すために、世に知らせるために来られたのではなく、あくまでも、この小さきもののために来られたのだから。

 

5. おわりに

 最後になりましたけれども、本日の箇所を読んでいて、イエス様はイエス様のみもとに来ることと、天国に入ることを重ねておられるということに改めて気付かされました。子どものようにイエス様にしがみつくことこそが、天国への道なのだということができるでしょうか。私たちのために命まで捨てられたお方に身を委ね、信頼して生きて行く。これが私たちの救いの道です。このイエス・キリストという道以外にはありません。このお方のもとに行くときに、粉のイエスキリストを本当の拠り所として信じ受け入れるときに、本当の祝福が与えられるのです。16節、そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。ここでわざわざ抱きと書かれていることに、イエス様の温かさを感じます。イエス様はそのようにこの世の価値観に疲れ様々なしがらみに不自由を感じ、やっとの思いできた人に対して、抱きしめてくださるお方であることを思います。この世でどんなに軽んじられている人であっても、自分自身で自分の価値を見出せずにいる人であっても、居場所を失っている人であっても、イエス様は優しく抱き、祝福を与えてくださるお方です。このお方のみもとに喜びをもって留まり続ける。まだイエス様のことを信じ受け入れていない方は、このお方にこそ本当の救いがあることを知っていただきたいのです。そして、イエスが血をもって建てられた私たち教会もそのようなものでありたいと願います。イエス様はこの世で価値なしと切り捨てられた人々に福音を伝え、ご自身のみもとへと引き寄せられました。私たちもそのようにしてこのお方の元に呼ばれてきたはずです。そしてそのみもとの安らかなことを知っている。教会もまた、疲れ悲しみの中にある人々、居場所を失い自身の価値を見失っている方々の、集うところとさせていただきましょう。