曖昧を嫌う神

❖聖書個所 ローマ人への手紙1章24節~32節  ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。

                            ローマ人への手紙1章25節

❖説教の構成

◆(序)自由と裁き

①本日の箇所は、現実の人間社会を理解するうえにおいて、とても重要なところです。今、私たちが見聞きしている社会の現状の根本理由がここにあると聖書が言っている箇所です。文脈的には、直前の、神の怒りが向けられる者たち、神を知っていながら神としてあがめず、感謝もせず、自分たちの思うものを神にしている者の現実の姿について指摘しているところですが、実は、世に溢れている様々な罪の真の理由を明らかにしているところです。

 この個所を理解するうえにおいて、大事なのは、「神は…引き渡された」(見捨てられた)ということばです。24節、26節、28節に出て来ます。神は、人が頑なであるゆえに、自分の思うようにさせ、罪の状態の中に置いているという意味です。人の側から見ると、自由になった、何物にも制限されなくなったと思うのですが、実は、それは神の裁きであるというのです。(人を自分の思う通りの状態に置き、罪の中に置くという意味です。)

 ここに出ている罪の姿は、当時のローマに見られた人々の姿を表しています。繁栄都市、ローマでは、ここにあるような性的倒錯が当時、少なからず行われていました。又、29節~31節に言われていることもローマ社会に満ちていたのです。

 

 神は引き渡されたというと、人の側では、このようになるのを、どうして神は止めてくださらないのかと言うのですが、実は神は止めようとされているのです。予測出来るように、放蕩息子の物語の父親のようにです。(ルカの福音書15章11節~24節) この物語において、息子が迎えた悲惨な結果の責任は、父親のほうにあるのでしょうか。そうではありません。責められるべきは、自分の求めが意味する罪深さを知ろうとせず、執拗に願い、決して忠告を聞こうとしなかった息子の頑さなのです。神は、警告を聞かない頑な人に対して、自分の願い、行いの意味を知らせるために、「汚れ、情欲、良くない想い」に引き渡すのです。頑くな者に自分の道を歩ませ、罪の結果を味合わせるのです。

◆(本論) 神の裁きの内容

①さて、この個所において、気がつくのは、まず、性の問題がクローズアップされていることです。性的罪は、(ある異端が言うように) 罪の本質ではありませんが、人間の罪、自分中心の姿が典型的に現れるものだからです。

 神は、人を造られた時、男と女とに創造されました。肉体だけではなく、男性、女性それぞれ固有の性質と使命を持つ者として創造されているのです。創世記2章にありますように、ふさわしい存在、いつも真正面にいて、共に生き、全てを分かち合い、そして新しいいのちを生み出すものとして、男と女とに人を創造されたのです。

 しかし、神に背き、神を無視した結果、自分たちの欲望が中心となり、性そのものが欲望のためのものとなったり、又過大視して、生きる全てとして見るようになっているのです。そして、そのような結果、「互いにそのからだをはずかしめるようになり」、神が造られ、導かれた異性としてではなく、互いをただ欲の対象として捉え、又同性同士で性的行為を行うようになっているというのです。 そしてこれらの罪の結果、「当然の報い」を受けている、互いに傷つけあったり、暗い、希望がない状態、滅びを迎えているというのです。生と性について言うならば、根本の生を軽んじて、性を過大視している結果です。古来より世界中で、大きな偶像の神殿近くに男娼、遊女の施設があったのは決して偶然ではありません。神以外のものを神とすることと欲望によって生きることとは密接な繋がりがあるのです。

 

②続いて、真の神の栄光を捨てて、自分たちに合う神を造る時、生涯にあらゆる罪の実が満ちるようになると言います。28節から32節です。

 ここにおいて、パウロは具体的な罪の実を次から次とあげています。真の神に背き、自分たちに合うような神を造ることがどのような結果を産むのかを知るべきと言います。

 現実の人間社会の中に溢れる「あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親にさからう者、わきまえない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者」(29節~31節) たちです。また「そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意している」者(32節) の姿は、神を神とせず、崇めず、感謝もせず、第一とすべきものを第一としていない、知恵の始め、知識の始めであり、生きるうえにおいて最も大切であり、一番始めに知らなければならない主を恐れること(全てを創造され、治めておられる神を第一として生きること) を無視しているからと言うのです。

 こうして見て来ると、「引き渡される」(見捨てる)という神の裁きは、罪の実を結び、罪の刈り取りをしなければならないわけですから本当に恐ろしい裁きであると思わせられます。

 本日の個所をただの理屈として受けとめないで欲しいのです。人間の現実とその根本の理由を示す神からの重要なメッセージを伝える個所なのです。私は、この個所は、確かに理解しくい個所だと思いますが、人間の現実の姿、何故、人間社会に悪が満ちているのか、自由を叫びながら、反対に不自由になっているのか、そしてそれらはどうしたら良いのかを考えるうえにおいて、とても重要な個所だと思っています。世に溢れる罪の問題の本質は、ただ個人の状況だけでなく、深いところにあると示している大切な個所です。

 

◆(終わりに)引き渡すのは、罪に気づき、新しく生まれ変わるため

 神は曖昧なことはなさいません。神に背いている者に対して、いいよ、いいよとは言いません。あくまで頑なであるなら、自分の人生において、自分の責任において、罪の実を味わい、そしてその罪の苦しみを知りなさいと言います。

 しかし、それで終わるならば、神は冷たい、むしろ、無責任な方のようです。けれども感謝ですが、聖書は、神は放蕩息子の父親のように、人が我に返って、悔い改め、神の方に向くならば大喜びをし、愛する子どもとして迎えてくださる、いや悔い改める前から帰ってくることを待っておられる方と明言します。

 ただ、率直に言って、今日、見てきたような「引き渡す」ようなことをせずに、始めから豊かな愛を注いでくださればよいではないかと考える人がいると思います。苦しむこともなかったと思うのです。それが理想的だと思うのです。しかし、もしそうであったなら、私たちの信仰に関わるすべてのことが曖昧になるのです。自分の罪を知ることも、魂が砕かれることも、悔い改めも、決心も、信頼も、喜びもすべてが曖昧になり、真のキリスト者となることはないのです。

 

 主は、私たちが真の創造主がおられること、その方から離れて、背を向けて生きるならば、生きる希望、喜びはないことを悟らせるために、私たちに真の人生を与えるために、敢えて、私たちを、自由に引き渡したのです。この箇所から教えられることは一つです。神は頑な人に対して、その頑なさに最もふさわしい取り扱い、人を引き渡す方であること、しかし、変わらずに深い愛を注いでおられる方であるということです。私たちに大切なのは、砕かれた者となることです。